隊員NO.2りかで~す(^_^)v/
加賀市観光ボランティア大学第15回講座 「大聖寺藩いいとこ つまみどり」で、
伊林永幸先生から教えていただいたことをもとにレポートを続けます。
大聖寺藩は1639(寛永16)年6月に初代藩主前田利治によって立てられました。
立藩当初は7万石、1821(文政4)年、9代藩主利之(としこれ)の時に10万石に
高直しされました。そして1871(明治4)年、14代藩主利鬯(としか)の時に廃藩置県で
なくなるまで、230年以上にわたってこの地域を治めました。
江戸時代の日本は農業国家です。大聖寺藩の約230年間はいかにたくさんお米を作る
かが、藩にとっての最大の課題でした。ですから、少しでも米の生産量を増やすために、
新しい田んぼづくり(新田開発)に力が注がれました。
加賀市の里山の山すそは、そのほとんどが「ストン」と切れ落ちているそうです。それは、
切添新田といって、大聖寺藩が少しでも水田を増やすために開発をしていた証拠です。
また、市ノ瀬用水や矢田野用水がつくられて、それまで荒れ野だったところが、次々と
水田に生まれ変わっていきました。特に、矢田野用水は、ときの家老神谷内膳が、
1673(延宝7)年11月に、自ら矢田野に引越し、総延長11.1kmの難工事をわずか
6ヶ月で成し遂げたことで知られています。この矢田野用水は、いまの横北町の動橋川
から取水し、法皇山の下をトンネルで抜け、宇谷川を水路橋(28.8m)で渡り、
那谷川の下をサイフォンで潜っています。そして難所といわれた「小手ヶ谷」を通過して、
分校・箱宮の境に89mのトンネルを作って、二ツ梨・矢田野へたどりつかせるものでした。
しかし、このように苦労して完成した用水も、1675(延宝9)年6月の田植えの後、
難所「小手ヶ谷」が陥没し、昼夜兼行で改修作業にあたらなければなりませんでした。
この時、多くの犠牲者が出たといわれます。地元では、毎年蒸し暑い日の日没頃、
どこからともなく何億という白い蝶があらわれて、夜明けになると力尽きて川面を埋め
つくしたというお話しが残っています。それは、その工事で亡くなった人の霊であると
言われました。
大聖寺町の周辺部は、今でも地方(じかた)町と呼ばれていますが、これは大聖寺の町人の
資本で新たに開発された水田があった所です。財政が苦しかった大聖寺藩では、新田開発も
町人の力を頼る必要がありました。今の大聖寺東町(加賀体育館周辺)は、大聖寺山田町の
町人が、そして今の大聖寺西町や西栄町などは、大聖寺本町や京町にいた町人の力で
開発されたそうです。大聖寺東町周辺は、三谷川の氾濫原だったところで、何万本もの松くいが
打たれて、やっと田んぼができたそうですよ。
これらの新田開発によって、大聖寺藩は実高(実際にとれるお米の量)が8万石になった
のですが、江戸幕府から申しつけられるお手伝い普請や天災によって、慢性的な赤字に
陥っていたようです。
1712( 正徳2)年には、大聖寺藩全域で北陸最大級の一揆、正徳の大一揆(全藩一揆)が
起こっています。この年台風や塩害の影響で米が不作だったにもかかわらず、大聖寺藩が
年貢の減免を認めなかったことから起こった一揆です。大聖寺藩は、財政難から、年貢の
取り立てが厳しい藩だったようです。この一揆は、15歳から65歳までの男は1人残らず、
しかも肝煎(きもいり、名主)などの村役人から水呑百姓・下人(げにん)にいたるまで、
十村以外のすべての農民諸階層が参加した惣(そう)百姓一揆の典型として、日本の歴史に
おいても特筆されるものだそうです。