隊員NO.4にいなで~す(^_-)/
11月20日(火)の課題研究の時間に学習した「加賀の一向一揆と蓮如」についてご報告を続けます。
いよいよ蓮如が越前吉にやってきました。1471(文明3)年6月のことです。
この年は、応仁の乱が始まって4年たった年です。北陸には天然痘が流行し、きびしい年貢の取り立てと、
下克上のたたかいがここ加賀の地にもおよんでいました。
このとき、蓮如は57歳。ききん、疫病、災害で多くの人が若くして亡くなり、平均寿命24、5歳といわれた時代に、
老いのかげりも見せず、ふくよかなその姿を見るだけでも、人びとは「ありがたい」と感激したに違いありません。
「お~い!われわれ百姓を救うために、えらい京都のお坊さんがわざわざ吉にやってきてくださったぞ~!」
「蓮如、吉崎に来る!」というニュースは、人づてに、噂となって、またたく間に加賀地方に広がりました。
人びとは、苦しい生活の中、一目蓮如を見て、ありがたいお話を聞いてみたいと、吉崎に殺到したそうです。
吉崎にやってきた人びとに対し、蓮如はえらぶった様子もなく、寒いときには熱燗(あつかん)を出し、
暑熱のときにはよく冷酒を用意させました。そして蓮如自らが囲炉裏(いろり)を囲んで身分の上下なく、
率直に信じる心(阿弥陀様が罪多きわたしたちを救ってくださる)について語ったのでした。
また時には蓮如自身も人びとといっしょに歌ったり踊ったりと、自分たちと同じところまで降りてきて、
仏の深い教えを胸にしみいるようにわかりやすく語りました。
人びとは蓮如を敬愛していきました。
家山先生は、おもしろい例えを話してくださいました。
「みんな、東京から人気グループ”嵐”がやってきて、わざわざ自分の家の近くで、何度もコンサートを開いたら
どうなるかな?」わたしたちは、「加賀の人だけでなく、北陸各地から多くの人びとがワクワクした気持ちで集まって、
大騒ぎになる」と思いました。
蓮如の吉崎下向は、加賀の人たちにとって、一大センセーショナルな出来事であり、
人びとに都の文化の香りとともに、人生の喜びと生きる勇気を運ぶことになったのです。
蓮如に出会うまで、加賀の農民や漁師、職人、商人たちは「お寺に寄進したり、お寺で
修業する余裕もない自分たちは、死んだら地獄に行くだけ。生きていくのもつらく苦しいし、
死んだ後も苦しみだけが待っている。」と絶望を感じていたのでした。
しかし、蓮如は、「ただあきなひをもし奉公もせよ、猟漁(りょうすなどり)をもせよ」と、
死の恐怖におびえながら、毎日をただひたすらに生活するしかない人びとに、勇気を与えたのです。
加賀の百姓たちに自信がめばえます。「罪深きわれわれまでも阿弥陀様は救ってくださるのだ!」
蓮如に出会った加賀の人びとは、自信を持ち、精神的な自立を果たしていったのです。