隊員NO.2りかで~す(^_^)v/
加賀市観光ボランティア大学第15回講座で、伊林永幸先生に用意していただいた
「大聖寺藩歴代藩主一覧」を見ると、不幸にして若い時になくなっている藩主が多いこと
にビックリします。
10代利極(としなか、1812~1838)27歳、11代利平(としひら、1823~1838)25歳、
12代利義(としのり、1823~1855)23歳、13代利行(としみち、1835~1855)21歳
と、歴代14代の大聖寺藩主のうち、6人もの人が20歳代にして、その生涯を終えている
のです。そしてその中の一人、第13代藩主前田利行は、何と亡くなった後で藩主に就いた
人なんです。
利行は1835(天保6)年7月26日に、金沢藩13代藩主・前田斉泰の五男として金沢で
生まれました。利行は1855(安政2)年4月20日に兄で大聖寺12代藩主であった利義
(斉泰の三男)が23歳の若さで急死したため、その養子として跡を継ぐ準備をしていたの
ですが、その利行も正式に家督を継ぐ前の5月18日に金沢で病死してしまいます。こちらも
まだ21歳の若さででした。
本来、家督を継ぐときには、前もって江戸幕府の将軍(その時の将軍は徳川家定でした)に
御目見得しておくのが通例であったため、大聖寺藩も、宗家である金沢藩も改易(お取り潰し)
になっては大変と、大慌てします。
そこで苦肉の策として、「家督を継ぐ予定の利行が江戸に向かう途中病気になってしまった
ので、代わりに弟・桃之助(斉泰の七男)が挨拶をします」と言って、御目見得を終わらせます。
そして、御目見得が終わった後、「実は、利行が結局病気が悪化して、江戸に行く途中死んで
しまいました」と幕府に報告をして、急場をしのぐのです。
江戸幕府はうすうすこの事情を知っていたのでしょうが、大聖寺初代藩主前田利治の母が
2代将軍秀忠の娘・珠姫であることや、利行の母(金沢藩13代藩主・前田斉泰の側室)が
将軍家定の養女であったことから、特別に跡を継ぐことを許し、利行は正式に13代大聖寺藩主に
就くことができたのです。
利行の亡骸はその年の12月16日に金沢を出発します。途中、松任・小松に宿泊しながら、
18日には大聖寺藩陣屋前を経由し、実性院に運ばれ、密葬が執り行われました。また本葬が
翌年1月28日に執行されています。
このようなことから、13代藩主前田利行は、本当は死んでいたのですが、1855(安政2)年
7月12日から10月29日までの3ヶ月間、大聖寺藩主を務めたことになっているのです。
14代藩主には、弟桃之助が利行の末期養子として着任し、前田利鬯(としか)を名乗ります。
そして、この前田利鬯が大聖寺藩最後の藩主となるのです。