実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

『かが風土記』・加賀市がわかるおしゃれな報告書

2013年08月31日 | 日記

隊員NO.4まこで~す

加賀市よりわたしたちが通う大聖寺実高に、とってもユニークな調査報告書を

ご寄贈いただきました。この報告書の名前は、『かが風土記~見て、歩いて、学ぶ旅~』

です。ふつう民俗調査報告書っていったら、とっても堅苦しいイメージがあります。

でも、この『かが風土記』B5版のハンディサイズで、おもわず手にして

加賀市の街を旅したくなるような本なんです。

←加賀市ホームページより

『かが風土記』は、観光案内もかねた民俗調査の報告書で、知識を深めながら、

まち歩きを楽しむことができるように工夫されていて、従来の報告書とはまったく

イメージが違います。この民俗調査は、加賀市の生活文化を特徴的に物語る3つの

地域(大聖寺旧城下町、山代温泉、東谷)において、平成19年度から23年度にかけて

行われたそうです。特に、旧城下町にまつわる調査は、大聖寺藩士たちが語った

怪談を集めた『聖城怪談録(せいじょうかいだんろく)』に取材し、新しい視点で地域の

民俗を探っています。監修は、国際日本文化研究センター所長・小松和彦先生です。

そして本の主な内容は、

『かが風土記~見て、歩いて、学ぶ旅~』目次(←クリック)

「城下町大聖寺と怪談」・・・1799(寛政11)年につくられた『聖城怪談録』に

記録された大聖寺にまつわる48の怪談話について、「大聖寺町絵図」・

「天明六年大聖寺絵図」とセットでわかりやすく紹介されています。

「山代温泉の昭和旅行」・・・今からおよそ50年前の山代温泉の様子や人々の

くらしぶりが、聞き取り調査をもとに見事に再現され、読み応えがあります。

「加賀東谷の民俗をめぐる」・・・東谷地区での山岳エコツーリズムと民俗文化を

学ぶ記録がまとめられています。炭焼きや焼き畑で生活した山の人々の営みを

知ることができます。

「深田久弥の山々を歩く」・・・『日本百名山』の著者・大聖寺町出身の深田久弥の

原点ともいえる地元の美しい山々が紹介されています。

加賀市図書館で自由に閲覧できるそうですよ。皆さん是非一度手にとってご覧ください!! 

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最初で最後ですよ!九谷磁器絵付窯跡の「現地説明会」

2013年08月30日 | 日記

隊員NO.5いくので~す

加賀市観光ボランティア大学第10回講座で、加賀市文化課長・田嶋正和先生から

古九谷窯址」について詳しくご説明いただきました。そして先生からは、

8月31日(土)に加賀市教委主催で史跡 九谷磁器窯跡 発掘調査現地説明会」が

開催されるというお知らせがありました。

九谷磁器窯跡には、江戸時代前期の遺構として、上絵付けを施すための窯である

絵付窯跡」や、絵付けのための顔料精製の痕跡を示す「朱田(しゅだ)」が、

江戸時代後期の遺構として、粘土生地精製のための施設である「水簸(すいひ)遺構」や

工房建物跡が確認されているそうです。また、戦国時代の遺構群もあって、山中漆器の

ルーツといわれる「木地工房跡」や、小川を利用した水洗トイレの遺構も見ることができます。

今回の現地説明会では、その中でも2000(平成12)年の石川県埋蔵文化財センターの

発掘調査によって発見された江戸時代前期の絵付(えつけ)窯跡が、今年度中に盛り土して

地下保存されるため、最初で最後の一般公開となるそうです。

8月31日(土)当日には、午前10時から10時30分と、午前11時から11時30分の2回

市教委の担当の方が説明をされます。参加費は無料で現地集合です。また先着20人

(要予約)を対象に市役所発着のバスも運行されるそうですよ。

詳しくは加賀市のページをリンクさせていただきましたので、クリックをしてご確認下さい!

史跡九谷磁器窯跡 発掘調査現地説明会について

(↑クリック!!)

この絵付窯跡は、現時点で世界最古の絵付窯跡といえる貴重なものです。

少しお天気が心配ですが、お時間のある方は是非見学にいらしてくださいね!!

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古九谷の歴史にふれました!!(古九谷窯址)

2013年08月29日 | 日記

隊員NO.6れいなで~す

加賀市観光ボランティア大学第10回講座で、九谷町古九谷窯址を見学させて

いただきました。

古九谷をめぐっては、「古九谷産地論争」というものがずっと続いていて、古九谷

佐賀県の有田町で焼かれたのか、それとも石川県のここ九谷町で焼かれたのか、

長年議論されているそうです。そしてその結論は出ていないそうですが、

そもそもここ九谷町で、江戸時代の初めに磁器が焼かれていたこと自体すごいこと

なのだそうです。

講師の田嶋正和先生は、「日本では、豊臣秀吉の朝鮮出兵によって、朝鮮半島から

陶工・李参平が連れてこられ、肥前有田で磁器の原料・磁石を発見したことから、陶磁器

の生産が始まりました。それまで、日本人は磁石を砕いて、磁器を作る技術を知らなかった

のです。硬くて叩いたときに金属音がする良質の磁器は江戸時代の初めには、

最先端技術品であるとともに、人びとがあこがれる高価な品物でした。

この時期に日本で生産されたとわかっている磁器は、佐賀県の有田焼・岡山県の姫谷焼・

そして九谷焼の3つだけなのですよ。今は人里離れた山深い場所にしか思えない九谷ですが、

江戸時代初めは、日本の最高水準の技を持った技術者がいる最先端地域だったのです。

そして田嶋先生は、

九谷周辺からは、磁器の素地の原料となる良質な陶石が見つかっただけでなく、絵の具の

材料となる鉱物も豊富でした。赤や黄色の原料・鉄、紫の原料・マンガン、緑の原料・銅など、

九谷五彩に必要な色のうち、紺青の原料・コバルト以外はすべて採れました。そして、ロクロで

木を削る木地師や鉄を溶かす工人などの技術の集積も、九谷での磁器生産を可能にしたと

考えられます。」と解説してくださいました。

顧問の先生は、よく「古九谷は、わたしたち加賀市に住む者のアイデンティティかもしれません!」

っていわれています。

今回の古九谷窯址訪問は、古九谷の歴史を知るとてもいい経験になりました。

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古九谷窯址を歩きました!!(九谷町)

2013年08月28日 | 日記

隊員NO.5いくので~す

加賀市観光ボランティア大学第10回講座で、九谷町の古九谷窯址を見学させて

いただきました。「九谷焼って、一体どんなところで誕生したのだろう?」って、

ワクワクした気持ちで現地を歩くことができて、とてもいい経験ができました。

そして、加賀市文化課課長の田嶋正和先生に古九谷窯址について

詳しく解説をしていただきました。田嶋先生、本当にありがとうございました。

車を降り、県道を少し右に入ったところに、「九谷焼始祖 後藤才次郎紀功碑 

正五位勲四等土岐嘉平書」と彫りこまれた大きな岩の碑が建っていました。

この紀功碑の字を書いた土岐嘉平は、和歌山県出身で1916~1921年に

第19代石川県知事をつとめられた方だそうです。

そして、道をさらに進むと、右手には水田、そして左手に「九谷磁器窯跡」という案内板が

がありました。案内板には次のような説明がありました。

九谷磁器窯跡 国指定史跡(昭和54年10月23日)

「古九谷」は近世初期の三大色絵磁器のひとつで、その大胆な図柄、流麗な筆づかい、

深みのある色調は、日本陶磁の代表的作品として、海外にまで広く知られている。

昭和45年からの本格的な調査によって、三基の窯跡の全貌がほぼ明らかとなり、

日本の磁器窯創始期の様相を示す重要な遺構として、国の史跡に指定された。

一号窯

全長34mを超える大規模な連房式登窯で、幅2.6mの十二の焼成室が20度の

傾斜をもって連らなっている。窯の左側が物原(陶片の廃棄場所)で、その上部の

平坦な所から大量の優品が出土している。直径50cmを超える白磁大鉢や草花、

山水図を描いた皿、碗類、上絵付のある破片などがあり、特に「明暦弐歳(1656)

九谷八月六日」と記銘のあるものが出土しており、窯創始の年代を知る重要な資料

となっている。窯の終末年代は1670年前後30年である。

二号窯

全長13mの小規模な連房式登窯で、幅1.6mの六つの焼成室が、約20度の傾斜で

連なっている。出土品は鉢、皿、碗類のほか、京焼風の茶碗が多数出土しており、

終末期には茶陶窯として活動していたと考えられる。窯の終末年代は1710年前後

40年となっている。

吉田屋窯

古九谷再興のため、大聖寺の豪商豊田伝右ェ門によって、文政7年(1824)から

2年間だけ操業された。窯はレンガ作りの豪壮な連房式登窯で、一部は現県道により

削り取られているが、推定全長26mあり、幅4.8mの4つの焼成室からなっている。

出土品は鉢、皿、碗類で、文様のあるものはきわめて少ない。

明日のブログでは、田嶋先生からお伺いしたお話をレポートさせていただく予定ですので、

よろしくお願いします!!

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再録!複雑な思いで「辻政信」の石碑を見る(今立町)

2013年08月27日 | 日記

隊員NO.3ゆかぴで~す

加賀ひがしたに地区今立町出身の辻政信について、先輩がまとめた

昨年11月5日の記事を再録させていただきます。どうぞお読み下さい!!

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今立町に破天荒な生涯をおくった人物の石碑が建っていました。そしてこの人物に

ついて語るとき、地元の加賀市民はとっても複雑な思いに包まれます。

Tuji Masanobu.jpg←辻政信(ウィキペディアより)

その人の名は、辻 政信(つじ まさのぶ、1902年10月11日生まれ、1961年に行方不明)。

日本の軍人、政治家で、軍人としての階級は陸軍大佐でした。第2次世界大戦後、

衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)などを歴任しました。

辻政信は今から51年前、参議院議員在任中にラオスで消息を絶ちました。

辻政信は、アジア太平洋戦争のさい、参謀本部で対米主戦論を繰り広げ、1941年の

対英米戦開戦と同時に始まった東南アジアへの快進撃などで、マスコミに「作戦の神様」と

たたえられました。その一方、独断専行ぶりも知られ、ノモンハン事件、シンガポールでの

華僑虐殺、ガダルカナル島の戦いなどでは、陸軍の汚点ともいえる歴史的事件に関わった

という指摘があります。

その才能と行動力が高く評価される反面、戦後においてもGHQから「第三次世界大戦さえ

起こしかねない男」と危険視された人物です。

←辻政信の生家

辻政信は、いまの今立町で父亀吉、母もとの間に、4人兄弟の次男として生まれました。

お父さんは炭焼きで生計を立てていました。辻少年は荒谷尋常小学校、山中高等小学校を

主席で卒業しました。その後苦学の末、陸軍士官学校に入学し、ここも首席で卒業したと

いいます。とても秀才だったんですね。

タイで終戦を迎えたは、僧侶に姿を変え、中国から日本へと潜行します。そして1950年に

戦犯を免れると、その間の手記を『潜行三千里』として出版し、一躍ベストセラー作家に

なりました。1952年には衆院選に旧石川1区から立候補し、4回連続当選します。

当時の地元民衆は辻政信を熱狂的に支持したといいます。

七尾市出身で直木賞作家の杉森久英(1912~97年)は、伝記『辻政信』の中で、

衆院議員になった後の辻に直接取材した時の印象を記しています。 

「僕の身体の中には、世界の五カ国の弾が入っています。最初は上海事変で中国の弾・・・

次はノモンハン事件でロシアの弾…」

数多くの戦場を踏み、弾丸をかいくぐってきたことを誇る辻に対し、杉森はその豪胆さを

率直に認めつつも、そのよどみない話しぶりに違和感を覚えたそうです。

「その時私の気になったのは(中略)、レントゲン写真を取り出してくる手際のよさであった」

戦場での勇気に不足はなく、戦後も戦友の遺族に金を送るなど、情に厚い面もある。

でも、それを人に黙っている男でもない。杉森久英はそのように辻政信を評したのです。

渡航先のラオスで行方不明となった辻政信は、半世紀以上経っても、多くの史家や

作家がその実像を追う「怪人物」です。

美しい山里・今立で生まれた少年は、なぜこのような希有な人生を送ることに

なったのでしょうか?(ブログ作成にあたっては、「YOMIURI ONLINE」の

『消えた参謀』(2011年11月9日)を参照させていただきました。)

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大土町を襲った昭和13年の大火災

2013年08月26日 | 日記

隊員NO.5いくので~す

 

加賀市観光ボランティア大学第10回講座重要伝統的建造物保存地区・

加賀ひがしたに地区」の大土町を訪問しました。

講師の加賀市文化課課長・田嶋正和先生が、わたしたちに興味深いお話をされました。

大土町の家屋は、ひがしたにの他の町に比べて一回り小さいのですが、

なぜだと思いますか?」

その答えは、大土町を襲った1938(昭和13)年5月22日の大火事と関係がありました。

この日の午前11時頃、大人たちがゼンマイ採りや炭焼きに出かけている間に、

残った子どもたちが昼ご飯の用意をしていて、火事が起こったそうです。家は周りを

カヤが囲んでいたこともあって、またたく間に火が回ったといいます。大人たちは、

片道2時間あまりの遠いところに出払っており、残っていた子どもやお年寄りだけでは、

火の勢いを止めることはできませんでした。

大人たちが戻ったときには、町のほとんどの家が焼け落ちていたそうです。

焼け残ったのは大土神社の社殿と2つの土蔵だけでした。

そこで、焼けてしまった家々を少しでも早く復旧させるために、他の町よりも一回り

小さな家を建てたのだそうです。

大土町の外れには、このときの火事でなくなられた3人を慰霊するための碑が

建っています。火事の時、子どもたちはさぞかし心細かったことでしょうね。

大土町では、このときの大火事のことを忘れまいと、今でも毎年5月22日の前の

日曜日に「大土焼きまつり」を行っているそうです。

(記事の作成にあたり、『かが風土記』(加賀市刊)を参照させていただきました。)

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赤瓦と煙出しが美しい「加賀ひがしたに地区・大土町」

2013年08月25日 | 日記

隊員NO.6れいなで~す

 

8月17日(土)の加賀市観光ボランティア大学第10回講座

加賀ひがしたに地区」の大土町を訪問しました。

加賀ひがしたに地区」は、加賀市東南部の山間部に位置し、大日山を

源とする動橋川と杉ノ水川の上流域に点在する荒谷・今立・大土・杉ノ水の

四集落からなっています。かつて炭焼きで栄えた山村集落に残る赤瓦に

煙出しを持つ伝統的な農家やそのまわりの自然環境が素晴らしく、

平成23年11月には国の重要伝統的建造物保存地区に指定され、文化財的な

価値の高い地区の景観を守る取り組みが行われています。

。雪解けとともにゼンマイやたらの芽といった山菜が芽吹きます。

。川のせせらぎが気持ちを癒し、大土太きゅうりなど食の魅力満載です。

。黄金色に輝く田んぼや「ハサ掛け」の光景が見られます。

そして。3mを超える積雪があり、1年に3・4回の雪下ろしが行われます。

太陽の光に輝く「加賀赤瓦」だけでなく、「貫をたくさん使った家の意匠」「飾り瓦」

「囲炉裏(いろり)の上の煙出し」など、建造物はおもわず「ワァ、きれい」と声を

上げたくなる美しさです。みなさん、加賀市の中心部から車で約20~30分の

距離に広がる日本の里山の原風景・「大土町」を一度訪問されませんか?

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実高に外国人留学生23人がやってきました!

2013年08月24日 | 日記

隊員NO.2ゆきちで~す

 

8月23日(金)午後1時、わたしたちの大聖寺実業高校に素敵なお客様が

来校されました。そのお客様とは、「JAPAN TENT 世界留学生交流・いしかわ2013

で8月22日から石川県入りしている世界81の国・地域から留学生300人の

うちの23人です。メキシコ・ロシア・ベトナム・ハンガリー・中国・イエメン・チリ・

スーダンなど世界いたる所から日本の大学に勉強においでていて、この1週間

石川県でさまざまな交流をされることになっています。

JAPAN TENT 世界留学生交流・いしかわ」は今年で26回目だそうですが、

ここ数年大聖寺実業高校では、実高生世界留学生の皆さんとの交流が続いて

いるのです。

今年は、「俳句づくり」を通しての交流を行いました。本校男女バドミントン部員と

留学生がほぼマンツーマンになって、日本の夏や秋の季語を使って、一緒に俳句を

作りました。会場となった会議室はとっても和気アイアイ!!

「散歩する お米の香り 風に舞い」 

「大空に 花火がとっても きれいだな」

「手打ち蕎麦 おいしいけれど むずかしい」

など、外国の方とは思えないほど日本らしいユニークな句が出来上がりました。

そして俳句作りを通じて、いろんなお話を交わすことができました。楽しい時間

あっという間に過ぎるもので、90分の交流時間はとっても短く感じられました。

留学生の皆さんは、実高での「俳句交流」の次は、片山津温泉に移動して、

シルクハンカチーフ染め体験に挑戦だそうです。加賀市でいい思い出をいっぱい

つくってくださいね。

23人の世界留学生の皆さん、実高を訪問していただき、ありがとうございました!!

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加賀ひがしたに地区・大土町

2013年08月23日 | 日記

隊員NO.6れいなで~す

 

8月17日(土)の加賀市観光ボランティア大学第10回講座

九谷焼のルーツと東谷地区を訪ねて-古九谷窯跡・重伝建保存地区-」で

NO.5いくのと2人で、加賀ひがしたに地区・大土町を訪問しました。

講師は、加賀市文化課課長・田嶋正和先生でした。田嶋先生、暑い中丁寧に

解説をいただき、ありがとうございました。大土町の風景は、まるで

「にほん昔ばなし」に出てくる山村みたいで、とってもきれいでした。緑の大自然の

中に、加賀ルージュの赤瓦の古民家。時代が昭和の中頃にタイムスリップした

みたいです。そして伝承によると、大土町は「篠原の戦い」(1183年)で敗れた

平家の落人によってつくられたとのこと。

江戸時代終わりの史料では、大土町をはじめとする荒谷町・今立町・杉ノ水町など

加賀ひがしたに地区には、「炭役」という税金が科せられていたことが分かっており、

加賀市の他の地域とは明らかに違う炭焼きや焼畑に依存した独自の文化があった

場所なのです。

民家の裏手には、とってもきれいな「大土生水」が流れ出ていました。

受講生の皆さんと一緒にわたしたちもその生水を飲んでみましたが、

とっても冷たくて、おいしかったです。そして生水のまわりには、

「棚田」とよばれるちいさな田んぼが段々につくられていて、その間の

ほそい道をわたしたちは散策しました。

初めて大土町に来たわたしたちは、こんなに美しい町が加賀市に残っている

ことを知り、とても感動しました。

加賀市観光ボランティア大学に入校して、よかったなぁ!!」

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大聖寺実高恒例・「夏の草むしり」

2013年08月22日 | 日記

隊員NO.1いぶで~す

 

8月21日(水)午後4時から、大聖寺実業高校恒例の「夏の草むしり」を、

部活動生徒および教職員全員で行いました。

この夏の草むしり」は本校が角助山(標高40メートル)という山の丘陵に建ち、

夏に大変草が伸びることから、9月の学園祭「聖実祭」準備をかねて始まりました。

でも、今では「さぁ、2学期だ!!秋もみんなで頑張ろう!」と、生徒・教職員が

一致団結して行う学校行事になっています。

今年の夏も暑かったですが、毎日一日練習を続け、真っ黒に日焼けした野球部員を

先頭に、男子ソフトテニス部、柔道部、男子バスケットボール部、男女バドミントン部など、

午後の練習を学校で行っていた部員が総出で参加しました。

先生方も一生懸命。8月24日から「国際野球U18ワールドカップ」日本代表

アシスタントコーチとして、台湾に遠征される寺口結先生をはじめ、先生方にも

草むしり」に参加していただきました。先生方、暑い中、大変ご苦労さまでした。

これで、9月4日の体育祭、5日の文化祭もバッチリだと思います。

最近、学校には部活動が活躍したうれしいニュースが次々と飛び込んできています。

まず、男子ソフトテニス部が加賀地区大会の個人戦で優勝、そして硬式テニス部

男子が同じく加賀地区大会の個人ダブルスで準優勝第三位に入賞したのです。

真っ黒になった分、このひと夏の成果が目に見える形であらわれましたね。

もうすぐ夏休みも終わりです。実高ふれ愛隊もみんなに負けずに頑張りま~す!!

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九谷焼のルーツと東谷地区を訪ねて

2013年08月21日 | 日記

隊員NO.5いくので~す

 

残暑が厳しい8月17日(土)13時から行われた加賀市観光ボランティア大学第10回講座

九谷焼のルーツと東谷地区を訪ねて-古九谷窯跡・重伝建保存地区-

NO.6れいなと2人で参加してきました。

 

加賀市役所前から一般受講生のみなさんは加賀市のマイクロバスで、わたしたちは

先生の車で最初に古九谷窯跡に向かいました。

車に揺られること、約40分。山中温泉九谷町地内にある古九谷窯跡に到着です。

現地では、今回の講師を務められている田嶋正和先生(加賀市文化課課長)から

とっても詳しく古九谷窯跡に関する解説をしていただきました。

「こんな山深くて雪が多い所で九谷焼が生まれたのか~」って、受講生の皆さんは一様に

驚いておいでました。でも田嶋先生は、「ここ九谷は350年前、いろんな人・ものが集まる

最先端工業地域だったと考えられるのです。その証拠に、ここ九谷には蓮如の息子・蓮誓が

開いた九谷坊がありました。当時の浄土真宗は人が集まるところにお寺を造っていました

から、九谷にたくさんの人がいた証拠です。」とお話しされました。

「へぇ~!!」と、みんなで感心することしきりでした。

古九谷窯跡を見学した後は、石川県民の森でトイレ休憩をとった後、重伝建保存地区に

指定されている加賀ひがしたに地区大土町へと向かいました。大変勾配の急な道を進む

バスについて行ったので、ちょっとヒヤヒヤでした。

狭い盆地状の地形にある大土町の家々は、赤瓦がとってもキレイでした。

これって、日本の山村の原風景なんですね!

この後、ブログで今回観光ボランティア大学で勉強したことをご紹介させていただく予定ですので、

よろしくお願いします!!

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加賀市橋立町のジゲ浜

2013年08月20日 | 日記

隊員NO.7ゆっこで~す

加賀市橋立町は皆さんよくご存じのように、「北前船主の里」として有名な

大変美しい町です。橋立町には現在も、船主の屋敷14軒が残り、

赤瓦が美しい街並みは「にほんの里100選」・「重要伝統的建造物群保存地区」に

選定されています。

この橋立町には天崎というまるで橋立漁港の堤防代わりのような岬があります。

そしてその天崎と加佐ノ岬との間に、「ジゲ浜」という北前船の歴史を知る上で

とっても貴重な小さな浜があって、このジゲ浜にはその歴史について観光客の方に

お伝えする案内板が建っています。

「江戸時代後期から明治30年代(1900頃)までの間、大坂(大阪)と

蝦夷地(北海道)を結んで瀬戸内海と日本海を帆船で往来し、各地の港で物産を

売買していたのが北前船です。そしてその船の船主や乗組員の多くが

橋立町(当時は江沼郡橋立村)の人びとでありました。橋立では、このジゲ浜

少し沖で停泊し伝馬船で荷物の揚げ降ろしをしたのです。・・・」

また、その掲示と向かい合った所には、歌碑と顕彰碑が並んで立っています。

廣重の 藍よりすこし 濃い色の 故郷の海に 逢うたけれども

この歌の作者は、西出朝風(1885~1943年)です。橋立町北前船の大船主の家に

生まれ、東京へ出て現代語による短歌を提唱しました。のちには金沢を拠点に

「北国新聞」で活動したそうです。顕彰には「世のそしりにも屈することなく、口語短歌の

普及に努めた先見の明と勇気は北前船魂に通じる」と書かれていました。

西出朝風については、今後実高ふれ愛隊の活動で勉強したいなぁと思います。

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アクセス集中にビックリ!「加賀守岡屋の焼きいなり」

2013年08月19日 | 日記

隊員NO.6れいなで~す

←朝日放送「朝だ!生です旅サラダ」ホームページより

いつも「実高ふれ愛隊日記」を応援いただき、本当にありがとうございます。

実はおととい、ブログへの訪問者数がいきなり前日の262人から倍近くの515人にも

上昇したので、ビックリしました。「なぜだろう?」と調べたところ、おとといの朝9時台の

1時間になんと160人もの訪問者が集中して、209回もの閲覧が記録されていました。

そして、訪問者の皆さんは、今年2月3日付けでちーろ先輩が書かれた

加賀市のグルメ・加賀守岡屋の焼きいなり」を閲覧されていました。

とても不思議なので、もう少し調べると、この日の朝8時から放送されたテレビ朝日系列の

人気番組「朝だ!生です旅サラダ」の「日本全国コレ!うまかろう!!」のコーナーで、

石川・新食感のいなり寿司として、「加賀守岡屋の焼きいなり」が紹介され、興味を持たれた方が、

わたしたちのブログにアクセスされていたのです。

全国の皆さんに、わたしたち大聖寺実業高校のブログを見ていただけたと思うと、とても

光栄です。そこで、2月3日付け加賀市を代表するグルメ「加賀守岡屋の焼きいなり」の

記事を再録させていただきます。よろしくお願いします。

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加賀守岡屋の「焼きいなり」

加賀市桑原町にある加賀守岡屋「焼きいなり」は東京羽田空港で販売されている

「空弁(そらべん)」の中でもとても人気がある超ヒット商品です。

加賀市内では、北陸自動車道の尼御前サービスエリアとJR加賀温泉駅売店の2ヵ所で

購入することができます。

わたしたちは1月27日に行われた「実高展」での研究発表の後、JR加賀温泉駅売店で

購入した2つの焼きいなりを、みんなで少しずつ分け合って食べてみました。

加賀守岡屋「焼きいなり」はふつうに食べるいなりと違って、食感がパリッとしていて、

こんがり焼かれた油揚げはとっても厚めでした。この油あげには「焼きいなり」専用に、

堅豆腐で有名な白山市白峰町の山下ミツ商店製造のものが使われています。

そして中身の具も、地元石川県のこだわり食材がふんだんに使われています。

お米は北陸で獲れたコシヒカリ100%。酢は白山水系の水を使い、まろやかに仕上げたもの。

ちらしのれんこんは、加賀野菜の一つ「加賀れんこん」。だしに使われている醤油は

金沢市大野町に伝わる伝統の技で作られたものです。

「品があるのに飾らない」田舎の味をみごとに形にした逸品です。

いまは、いなりに「合格」の焼き印が押されています。受験生にはうれしいですね!

みなさんぜひ一度ご賞味ください。きっともう一度度食べたくなるはずですよ!

JR加賀温泉駅売店では、お昼までに完売してしまうことが多いそうです。お求めは午前中が

いいようです。

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加佐ノ岬・白亜のロマンティック灯台(加賀市橋立町)

2013年08月18日 | 日記

隊員NO.5いくので~す

加賀市橋立町加佐ノ岬には、とってもロマンティックな白亜の灯台があります。

越前加賀国定公園の景勝地に建つこの加佐ノ岬灯台は、1952(昭和27)年5月に

建設されました。加賀から能登半島に延びる海岸線は、塩屋・黒崎・小舞子・内灘・

千里浜と平坦で長い砂浜が続くので、変化に乏しく、航行する船舶や沖で操業する

漁船にとって、自分の位置を確認するのが難しい所です。

ところがこの加佐ノ岬だけが突如として荒々しい岩肌を示す断崖の岬となっています。

そこで、加佐ノ岬の特異な地形を利用し、白亜の灯台が目印となるようにつくられたのです。

特に、岬に隣接する橋立漁港を出入りする船の安全のために、とても大切な灯台となって

いて、現在の灯台は1981(昭和56)年につくられたものです。

灯台は13秒に3回ピカッと光り、光度は8300カンデラ(光度の単位、カンデラの語源は

キャンドルから来ていて、1カンデラは1キャンドル、つまりロウソク一本の明るさです。)、

光達距離は13.5海里(1海里は1852m)です。また、平均水面から灯火までの高さは54m、

地上から灯火までの高さは12.95mだそうです。

この灯台は、白搭四角形の上に丸い灯篭が乗ったちょっと珍しい形の灯台です。

岬からながめる日本海は最高です!「地球って丸いんだなぁ!!」って実感できるパノラマ。

この日は、若いカップルの方や親子連れの観光客の方々がたくさん訪問されていました。

加佐ノ岬灯台から見る日本海の夕日はとてもキレイでしょうね。

機会がありましたら、是非加賀市橋立町にある加佐ノ岬灯台を訪問してください!!

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加賀市橋立町・「お夏ガン洞」の悲しいおはなし

2013年08月17日 | 日記

隊員NO.4まこで~す

いつも応援ありがとうございます!!

9月の課題研究の下準備で、先生が橋立町の「加佐ノ岬」周辺の写真を

撮影してきてくださいました。そして橋立町に伝わる「お夏ガン洞」の

悲しいおはなしを教えてくださいました。

『お夏ガン洞』

その昔、病気の母を抱えて、海女で生計を支えていたお夏という娘がいました。

ある日、お夏はさざえを九十九まで採ったので、区切りのよいにするために

何度となく潜りましたが、どうしても、あと一つが採れません。

陽も傾き焦ったお夏は、「絶対に入ってはいけないよ」と言われていた巌洞の

に潜っていきます。 そしてそれきり、お夏は浮かび上がってくることはなく、

いつしか人々は、この巌洞をお夏のガン洞と呼ぶようになりました。

海水浴シーズンももうそろそろ終わりになってしまいました。加佐ノ岬に近い

ジゲ浜には県外からの海水浴客の方がたくさんおいでたそうですよ。

加賀海岸の美しい海を楽しんでいただけたでしょうね!

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