隊員NO.6れいなで~す(^_^)v
加賀市観光ボランティア大学第2回講座で勉強した塩屋海岸のことを
レポートさせていただきます。
塩屋海岸は越前加賀海岸国定公園(延長16.5km)の一部です。
塩屋から片野にかけての4.3km(幅1km)にはとても白い砂浜が
続いています。この一帯は江沼砂丘ともいいます。
そして現在、砂浜に沿って青々とした広大な黒松の林が広がっています。
みなさん、加賀海岸になぜこんなに広大な松林が広がっていると思いますか?
実はこの松林には、冬に北西の季節風によって飛ばされる大量の砂(飛砂)と
人びととの戦いの歴史が秘められています。
江戸時代中期まで、この辺りはひのき林があり、塩屋と片野の中間の沿岸部には
中浜村という集落もありました。しかし、木の伐採によって、飛砂が年々激しくなりました。
晩秋から初冬にかけての暴風により飛砂は空を覆い、陽も暗く、朝に山だった地形が
夕方には跡形もなるほど変わり果てていたそうです。
塩屋・瀬越・上木一帯は、江戸末期には一木一草も見ることができない砂丘になり、
田んぼや畑だけでなく、家屋までもが砂によって埋没し、人びとは内側への移動を
余儀なくされ、ついに中浜村は廃村になってしまいました。
また大聖寺川の河床に砂がたまり、ますます上流部の水害の危険性が高まったのです。
そこで当時の大聖寺藩の松奉行小塚藤十郎は、生涯をかけて松の植林に力を
注ぎました。また塩屋村の肝煎井斎長九郎は私財をなげうって松の植え付けを
行いました。しかし彼らの努力にもかかわらず、明治の初めには波打ち際より
5度の角度で内陸部に傾斜をなす荒涼とした砂漠になってしまったのです。
現在、塩屋海岸に見られる海浜植物は江戸時代に松林を作るための下草に
するため、北前船の乗組員が全国各地から持ってきて植えたものだそうです。
海岸の砂防と植林の国家事業が本格化したのは明治44年からです。
少しずつ少しずつ、海岸部に松林が広げられていきました。
今、加賀海岸の松林は、うっかりすると自分がどの方向に歩いているか
分からなくなるほど広大な面積になっています。でも現在の姿になるまでには
多くの人びとの血のにじむような努力があったのです。
ヒノキがその環境で育つはずがない。
なんかの間違いでは、何か根拠があるのなら教えて欲しい。