実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

大内町・蓮如を助けたおさよ婆さんと般若ヶ窟

2012年12月31日 | 日記

隊員NO.5あやかで~す!

わたしたちは課題研究の時間に「加賀の一向一揆」について調べるために、

山中町菅谷にある徳性寺へ行ってきました。そして徳性寺のご住職の春木秀城さんに

ここ西谷地区の人びとが蓮如のことをとても慕っていたことを示す逸話があることを伺い

ましたので、ご紹介します。

それは、大内村のおさよ婆さんのお話です。

「般若窟(はんにゃがいわや)」

般若窟とは、下流対岸の「簾滝(みすたき)」を登ること一、五〇〇m幅二十七m、

高さ六m、奥行一〇mからなる洞窟である。

この洞窟に、浄土真宗中興の祖、蓮如上人の石像が安置されている。

蓮如上人は、文明三年(1471)吉崎御坊を開寺され、北国の布教の拠点とされ

越前郷を教化巡錫(きょうげじゅんしゃく)の折、平泉寺、豊原寺の天台の衆徒に追われ

竹田村から大内峠を越えて、難を逃れようと村びとに救いを求めた。

村人のおさよ婆さんは、上人を「ムギワラ」の中に隠しその場を凌ぎ、次いで

この般若窟に匿(かくま)い、風雨霜雪を冒して三度の食事を運んだ。然し、入山搬入

していることが、発覚する恐れから、ワラジを反対に履いて通ったと云う。

やがて難を逃れた上人は、洞窟を出られ山中方面に向かわれた。

御札に六字尊号(そんごう)を、この婆さんに書き与えてその労苦をねぎらわれた。

また、この般若窟の岩肌に生じている人体の型の凹所は蓮如上人の寄りかかった痕

であると伝えられる。不思議な痕跡(こんせき)ではあるが、この地訪ねる人も多い。

平成十四年六月 大内村誌

大内町に行くと、国道沿いに上のような説明が書かれた案内板があって、般若窟へ行く

登山道もあるそうです。でも今はあまり整備がされてなくて、歩くのに苦労するだろうなぁ

とご住職の春木さんはおっしゃっていました。

みなさん、来年の春になったら般若窟への冒険に出かけてみませんか?

みなさん今年4月からいつも『実高ふれ愛隊日記』を応援いただき、本当にありがとうございました。

年が明けた1月からはこの1年間の研究のまとめについてご報告させていただきますので、

2013年もよろしくお願いします。

みなさん、良い年をお迎え下さい!!

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必見!蓮如ゆかりの徳性寺(山中町菅谷)

2012年12月30日 | 日記

隊員NO.4にいなで~す!

わたしたちは12月11日(火)の課題研究の時間に、講師の家山勉先生とご一緒に、

山中町菅谷にある徳性寺を見学させていただきました。とても寒い日でしたが、

ご住職の春木秀城さんに蓮如徳性寺とのかかわりについてお話いただきました。

ご住職には大きなストーブまでご用意いただき、本当にありがとうございました。

加賀市内のお寺の中で、蓮如が実際に足を運んだ記録が残るところは意外と少ないの

だそうです。そのような中で、ここ徳性寺には、蓮如が訪れた記録が残っており、

蓮如ゆかりの品物が今でもたくさんあります。実際にいろいろな品物を見せていただき、

わたしたちはビックリしました。

私たちはご住職の春木さんにひとつの質問をしました。それは「蓮如はどうやって加賀の

人びとに自信を与えたのですか?」というものです。

その質問に答える形で、春木さんは蓮如徳性寺に来たときのエピソードについて、

ていねいにご説明下さいました。

1473(文明5)年9月、吉崎御坊にいた蓮如は越前藤島の超勝寺に滞在した後、

山中温泉で体を休めようと、加賀越前の国境にある大内峠を越えて、ここ菅谷に来ました。

そして現在の徳性寺の前にあった石に座られたそうです。

当時の徳性寺は浄土真宗でないどころか、蓮如とはげしく敵対する天台宗豊原三千坊の

ひとつ西潟の西方寺とよばれるお寺でした。蓮如はなんと敵方のお寺に飛び込んでしまった

のです。ここでは当然、西方寺の住持と問答になりましたが、蓮如の熱心な話に住持は

「阿弥陀仏」の教えに従う決心をしました。

そのとき住持は「私のような者でも浄土へ行けるというなら、その証拠を見せてください」と

いいました。すると蓮如は「私が言うことを信じて下されば、極楽往生は間違いありません。

その証拠に、その土の下から清水を出して見せましょう。」と、椿の杖を刺し抜きました。

すると土からは清水がこんこんと湧き出たそうです。また、蓮如は一粒の梅の実をまき、

まきおきし一粒たねに八房の みのらば弥陀の誓いとぞ知れ」と一首をよみました。

毎年この実からは真っ赤な花が咲き、一つの花から八つの実がなり、菅谷の人びとを

驚かせたそうです。菅谷の人びとはこぞって蓮如の信者になったといいます。

蓮如は、山中温泉を出発する際に「蓮如上人身姿自画」「三方正面阿弥陀如来画像」「六字名号」

などをいまの徳性寺に与えられたそうです。

当時の菅谷の人びとは、京都から来た偉いお坊さん・蓮如から

「誰だって、極楽往生できるのですよ。」という言葉を直接聞き、とっても自信をつけたのでしょうね。

徳性寺には、このとき蓮如が持っていたとされる「椿の杖」や「水晶の念珠」などが残されていて、

見学することができます。展示品の中には、当時蓮如が背負っていた今でいうリュックサックもあって、

その大きさに驚かされました。

四季おりおりに美しく、蓮如ゆかりの徳性寺は隠れた観光スポットで、必見ですよ!

ご住職の春木さんがつくられている徳性寺の素敵なホームページをリンクさせていただきました。

みなさん、ホームページで蓮如ゆかりの「徳性寺」の魅力をご確認の上、ぜひ一度おたずね下さい!

「徳性寺」ホームページ(←クリックしてください!)

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山田光教寺跡に行きました!

2012年12月29日 | 日記

隊員NO.3せりかで~す!

わたしたちは12月11日(火)の課題研究の時間に、講師の家山勉先生にご案内いただき、

「加州三ヵ寺」の一つ山田光教寺の跡がある山田町西山田の光闡坊(こうせんぼう)

行ってきました。

この日は雪が降る寒い日でしたが、光闡坊の敷地を少し歩いてみました。家山先生は、

「みなさん吉崎御坊に行ったときのことを思い出してください。まるで要塞(ようさい)のようでしたよね。

そして、この山田光教寺があった場所も、吉崎と同じようにお城の形をしているのが分かりますか?

と説明されました。家山先生のお話を聞いて広い敷地を見渡すと、その周辺部がストンと落ちていて、

城壁のようになっていました。きっと土塁が築かれていたのでしょう。また当時の山田光教寺

裏手には潟があったといわれています。ですから山田光教寺吉崎御坊と同じようにお寺というよりも、

戦いに備えた要塞だったのです。

しかし昨日お伝えした大小一揆(1531年)の際、「加州三ヵ寺」による加賀支配を嫌い、直接統治を

はかった本願寺や「超本二寺」によって、山田光教寺は破れ、火をつけた矢によって寺は焼け落ちました。

きっと激しい戦闘があったのでしょう。今でも光闡坊の敷地内からは500年前のたたかいで焼かれた

米蔵にあった「焼き米」が見つかるそうです。天気が良かったらスコップで掘ってみたかったのですが、

あいにくの天候で今回は掘ることはできませんでした。

山田光闡坊の入り口の左手には、蓮如上人の像のほか、蓮如の四男で、山田光教寺にいた

蓮誓(れんせい)の記念碑や墓があります。

山田光闡坊はしずかなたたずまいながらも、加賀の一向一揆の歴史をずっしりと感じることができる

素敵なお寺でした。みなさんも一度お出かけ下さい!

(おまけ)

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大小一揆(1531年)・地方分権か?それとも中央集権か?

2012年12月28日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^_^)v

課題研究の時間に「加賀の一向一揆」について、家山勉先生からお話を伺いました。

←「百姓の持ちたる国」ってどんな時代?

加賀の国が「百姓の持ちたる国」といわれた期間とは、一向一揆が守護大名・富樫政親を倒した

1488年から、織田信長によって鳥越城が陥落し、3000人の人たちが皆殺しされた1582年までの

約100年間です。そして百姓の持ちたる国」がある意味でもっともピークを迎えていたのが

1500年代の前半でした。

←蓮如関係略系図

このころの加賀国は、蓮如の三男・蓮綱(れんこう)の波佐谷松岡(しょうこう)寺、四男・蓮誓(れんせい)の

山田光教寺、七男蓮悟(れんご)の若松本泉寺という3つのお寺【加州三ヵ寺】を中心に、人びとが結束し、

中央にいる荘園領主からの負担をはねのけるという体制ができていました。今風に言えば「地方分権」が

確立していた時代だったといえます。(山田光教寺は今の加賀市山田町西山田にありました!

しかし、この百姓の持ちたる国の体制に変化があらわれます。そのキッカケは1506(永正3)年の

前朝倉氏との戦いで敗れた越前の大坊・和田本覚寺と藤島超勝寺の加賀への亡命でした。

本覚寺や超勝寺は蓮如が1471年に吉崎にやってくる時にも力を尽くした大きな寺でしたが、

それぞれ今の寺井町和田山、加賀市塔尾(とのお)に拠点を設け、越前復帰を目指す活動を始めます。

ですから動橋川の上流域には、そのとき越前の人びとがたくさんやってきたのでしょうね。

講師の家山先生はおもしろいたとえ話をされました。

「みなさんのいる3年3組がホーム会長を中心に仲良くやっていたところに、他の学校から会長さんと

同じくらい力を持った転校生グループがやってきたとしたら、クラスはどうなるでしょうか?」

わたしたちはクラスの様子が変化し、トラブルが起こると思いました。

実際に加賀の国では、混乱が起きはじめ、「加州三ヵ寺」と「二寺」の対立が目立つようになります。

それでも実如(蓮如の五男)が本願寺法主だった1520年代までは、実如がどちらかといえば穏健派で、

実如の兄弟がいる加州三ヵ寺」中心の体制を支持していたため、「二寺」の動きをけん制

できていました。しかし、1525(大永5)年に実如が亡くなり、証如(しょうにょ)が8歳で10世法主につくと、

本願寺本山は加賀の「地方分権」体制に口出しをするようになり、加州三ヵ寺」と対立する

二寺」と連携するようになります。

加賀に「百姓の持ちたる国」をできてから半世紀近く、加州三ヵ寺」は絶大な力を保ってきましたが、

その一方で、生産力の向上にともない力をつけた新しい農民層があらわれていました。それぞれの村では、

富の分配や村における発言権をめぐってジェネレーションギャップが起こっていたのかもしれません。

そして新興の勢力は自分たちの利益をもとめて、ニューリーダーである「二寺」側についたようです。

1531(享禄4)年閏(うるう)5月、ついに加賀国で加州三ヵ寺」(=小一揆)と本願寺・「二寺

(=大一揆)が激突します。これはいわば本願寺門徒内での内部抗争(別名、享禄の錯乱といいます)で

あり、「中央集権」のしくみを加賀につくりあげようとする大一揆と加賀の地方分権」を守り抜こうとする

小一揆のあらそいでした。

たたかいの結果は大一揆の勝利でした。「加州三ヵ寺」は失脚し、「地方分権」が行われていた

加賀の地にも1546(天文6)年には金沢御堂が完成し、加賀は本願寺本山の直轄地に変わっていきます。

「生き馬の目を抜く」戦国時代にあって、本願寺や加賀の人たちは「百姓の持ちたる国」を守り抜くため、

地方分権」よりも「中央集権」を選択したのかもしれません。

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「加賀の一向一揆」と対立を続けた越前朝倉氏

2012年12月27日 | 日記

隊員NO.1あさので~す(^_^)v

課題研究の時間に勉強したことをもとに「加賀の一向一揆」についてレポートします。

←三木地区会館にて

1488年、加賀にできた「百姓の持ちたる国」は加賀周辺の守護大名にとって、

やっかいな存在でした。越前の朝倉氏、能登の畠山氏、越中を支配する越後の長尾氏などは、

一向一揆」が自分たちの領土に拡大するのをとても警戒しました。というのも、

これらの国にも蓮如の教えを信じる本願寺の門徒がいっぱいいて、いつ自分の国の百姓が

加賀の人たちと手を結んで一揆を起こしてもおかしくなかったからです

一方、これら有力大名に囲まれていた加賀の一向一揆」は、

「よ~し、まわりの国も奪って、もっと百姓の持ちたる国を大きくしようぜ!」

勢い込んでいたにちがいありません。

←クリックすると、加賀国周辺の有力大名が分かります!

当時の日本は、中央政界において足利将軍家の跡取りをめぐって細川氏と畠山氏の二大勢力が

激しく対立していました。そして中央政界の動きは、蓮如の跡を継いだ

本願寺9世法主・実如(蓮如の五男)に大きく影響をおよぼしました。

実如は、権力闘争に巻き込まれる形で、全国各地にいる一向一揆」につぎつぎと戦闘の指示を

出すことになります。ですから、加賀の一向一揆」も周辺の大名たちと戦い続けます。

中でも越前(現在の福井県)一帯を支配していた朝倉氏とはいくどともなく死闘を重ねました。

越前の朝倉氏は、足利将軍に協力的であったことから、将軍家から破格の待遇をうけ、

のちに「名門」戦国大名に成長していきます。そして朝倉氏がつくりあげる城下町があの「一乗谷」で、

越前には「第二の京」とよばれるような薫り高い文化が花開いたといいます

朝倉氏は、もともと室町時代後期に大きな力を持っていた斯波(しば)氏の一家臣にすぎませんでした。

しかし朝倉氏は世の中の混乱に乗じ、越前の守護代・甲斐氏を激戦のすえ破り、

文明年間(1471~88年)には越前の国を奪い取ります。朝倉氏まさしく「下克上(げこくじょう)」の

時代を象徴する戦国大名だったのです。そんな朝倉氏のことを越前の武士たちの中には

「主君を裏切った最低のヤツだ!」うらむ人もいました。このとき破れた甲斐氏の残党は

加賀の国に逃げ、加賀の一向一揆」と協力し、越前の奪還をねらったといいます。

1506(永正3)年7月、「一向一揆」と朝倉氏の大激突が起こります。加賀・能登・越中からやってきた

一向一揆」の数はなんと30万人。関ヶ原の戦いでさえ16万人だったといいますから、

とんでもない数です。一向一揆」は、蓮如ゆかりの越前の藤島超勝寺と和田本覚寺の二寺を助けて、

「吉崎御坊」のある越前にも「百姓の持ちたる国」をつくろうとしました。

この戦いを「九頭竜川の戦い」というそうです。

しかし、このたたかいで一向一揆」は大敗北を喫します。死者の数は約20万人。

朝倉方たった1万2千人の兵力であったにもかかわらず、九頭竜川の流れを巧みに計算し、

奇襲攻撃を仕掛けて一向一揆」に圧勝したのでした。

この戦いで、朝倉氏は吉崎御坊や本願寺派の寺院を徹底的に破壊しました。越前では厳重な

本願寺派の禁止政策をとり、和田本覚寺、藤島超勝寺は加賀国に亡命することになりました。

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加州三ヵ寺・蓮如が組織化した「百姓の持ちたる国」

2012年12月26日 | 日記

隊員NO.5あやかで~す(^_^)v

12月11日(火)の課題研究の時間に、「加賀の一向一揆」について勉強したことをご報告します。

←「百姓の持ちたる国」について教えていただきました!

わが国において、民衆が自分たちの権利を拡大させようとする動きは、南北朝時代(14世紀中頃)に

国人(土豪)一揆として始まりました。それが一般大衆のレベルにまで発展したのが、1428年の

正長の土一揆以降だといわれます。でも、この土一揆は人びとが武力で年貢の減免や徳政(借金帳消し)を

もとめたまだまだ散発的な行動にすぎず、さほど成果も上がりませんでした。そのような民衆の一揆を

一つの信仰の力で大きくまとめあげ、形にする役割を果たしたのが、蓮如でした。

蓮如の命がけの布教の成果として、1488年加賀の国はついに「百姓の持ちたる国」になります。

わが国の歴史において、団結した百姓たちが大名という権力者を倒したことも、そしていわゆる自治国を

約100年にわたって維持したことも、加賀の一向一揆以外にはありません。

だから、加賀の一向一揆」というものは、日本の歴史上きわめて珍しい例だといえますし、

加賀の人たちを一つにまとめあげた蓮如の功績が、とてもすごいものだったことが分かります。

ところでみなさん、この蓮如が吉崎御坊にいたのは、どのくらいの期間だと思われますか?

実は、1471年から74年までのわずか4年間にすぎなかったのです。それでは吉崎を退去し

近畿地方にいた蓮如は、その後どうやって加賀の人びとをまとめていったのでしょうか?

ここで登場するのが、昨日お話ししました蓮如の子どもたちです。蓮如は3人の子どもを加賀に残し、

その3人に加賀の地域をまとめさせ、教えを伝えるという強固なしくみを組織化させていたのでした。

そしてその3人の子どもが、三男・蓮綱(れんこう)、四男・蓮誓(れんせい)、七男蓮悟(れんご)でした。

3人はそれぞれ小松の波佐谷松岡(しょうこう)寺、加賀の山田光教寺、金沢の若松本泉寺にいて、

百姓の持ちたる国」をうまく運営していったのでした。なおこの3つのお寺を

加州三ヵ寺」といいます。

←クリックすると、「加州三ヵ寺」の位置が分かります!

加賀の国では、きっと他の国に比べて年貢が安かったに違いありません。ですから、お隣の越前・

能登・越中などでは、「わしらも加賀のように百姓の国を作りたい」と願う門徒たちが、守護大名を

倒そうと繰り返したたかいを挑むようになります。

蓮如は1499(明応8)年春に山科本願寺で亡くなります。85歳でした。しかし蓮如亡き後も、

加賀の国は、加州三ヵ寺」を中心に、百姓の持ちたる国」の力を保ち、1500年代前半には

ピークを迎えます。しかし同時に加賀の一向一揆」の存在は、加賀国周辺の守護大名たちに

警戒されるようになります。とくに越前の朝倉氏は一向一揆とはげしく敵対することになりました。

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「加賀の一向一揆」・蓮如にはなんと27人の子どもがいました!

2012年12月25日 | 日記

隊員NO.4にいなで~す(^_^)v

12月11日(火)の課題研究の時間に、「加賀の一向一揆」について勉強しました。

そして講師の家山勉先生から、ビックリするような本当の話をお聞きしました。

それは蓮如(1415~1499年)にはなんと13男14女の27人もの子どもさんたちがいた

というお話です。わたしたち6人はそのお話を聞いて、一斉に「へぇ~、すごい!ウソみたい!」と、

声をあげました。

←三木地区会館で家山先生から事前研修を受けました!

蓮如は85年間の生涯で、4回奥さんに先立たれるという不幸を経験し、奥さんが亡くなられた後

再婚をし、合計5回の結婚をしました。そして、最初の奥さん如了(1424~55年)との間に4男3女、

2番目の蓮祐(1438~70年)との間に3男7女、3番目の如勝(1448~78年)との間に1女、

4番目の宗如(?~84年)との間に1男1女、最後の蓮能(1465~1518年)との間に5男2女の

子どもたちが生まれています。ちなみに、最初の子順如は蓮如が27歳の時の子ども、最後の実従は

蓮如が亡くなる前の年に84歳でもうけた子どもで、兄弟なのに年の差が57歳もあるのです。

また27人の子どものうち7人はお父さんの蓮如よりも先に亡くなっています。

←蓮如関係略系図

わたしは家山先生に「蓮如の奥さんたちが、若くして亡くなったのはなぜですか?」そして

「どうしてこんなにたくさん子どもを作ったのですか?」とお聞きしました。

この質問に対して家山先生は、「そうですねぇ、この時代は今以上に子どもを産むということが大変

だったのでしょうね、そして5人の奥さんは体力的にヘトヘトになっていたのかもしれません。

そしてみなさん、”大奥”っていう時代劇を知っていますか?あの多部未華子が出ているヤツです。

ドラマに出てくる女性たちは徳川将軍の世継ぎとなる元気な男の子を産むために大奥にいた

でしょ。昔は家を守るために男の子を産むことが女性に求められていたのでしょうね。

蓮如も本願寺の教えを絶やさないために、子どもをたくさんつくったのだと思われます。」

と説明してくださいました。わたしたちはこのお話を聞いて、蓮如に27人もの子どもたちがいた理由が

わかりました。

この後わたしたちは、家山先生から3男蓮綱(れんこう)、4男蓮誓(れんせい)、7男蓮悟(れんご)

という3人の子どもたちの活躍で加賀の国が「百姓の持ちたる国」として繁栄していくことをお聞きしました。

(おまけ)

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加賀の人間と浄土真宗のむすびつき

2012年12月24日 | 日記

隊員NO.3せりかで~す(^_^)v

12月11日(火)の課題研究の時間に、「加賀の一向一揆」について勉強しました。

←家山先生ありがとうございました!

講師の先生は、11月20日に引き続き、庄町にある因乗寺のご住職・家山勉先生でした。

家山先生は、今回もわたしたち高校生の目線に立って、とってもやさしくお話しをして下さって、

たのしく勉強することができました家山先生、本当にありがとうございました。

わたしたちが住む加賀市浄土真宗がとてもさかんな土地柄で、日常生活の中にもそのことが

感じられます。隊員NO.6ち~ろの家では、毎朝仏壇に、ご飯を盛った仏供(ぶっぐ)をお供えするのが、

お父さんの日課になっています。また、そのほかの隊員の家でも、おじいちゃんやおばあちゃんが

南無阿弥陀仏」と仏壇の前で唱える姿を毎日見ています。今回わたしたちが加賀の一向一揆」について

調べてみようと思った理由は、そのようなわたしたち加賀市に住む者にとってあたりまえの

真宗の風景がどこから生まれたのかを知ることでした。

前回、家山先生から1488(長享2)年に加賀の百姓たちが、守護大名の富樫政親を倒して、

加賀の国に「百姓の持ちたる国」が誕生したことをお話しいただきました。

ですから今回わたしたちは、蓮如の教えがこれほどまでに加賀の人びとの心をとらえていった理由とは何か、

百姓の持ちたる国」が約100年もの長きにわたって続いたのはなぜかということや、

その100年の間に今の加賀市でどんなことがあったのかを調べてみたいと思いました。

家山先生はおっしゃいました。「菅谷の徳性寺に行くと、蓮如ゆかりの品々がたくさんあります。それらを見れば、

蓮如がどのようにして加賀の人たちに自信を与え、百姓の持ちたる国」がずっと続いたわけが分かると

思いますよ。」そして「16世紀の前半に百姓の持ちたる国はピークを迎えますが、1530年ころ大きな混乱が

起きます。その当時の出来事を加州三か寺の一つ・山田光教寺跡に行って調べてみましょう。」

わたしたちは事前研修として三木地区会館で家山先生から30分ほどお話をしていただいた後、

山中町菅谷にある徳性寺と山田町西山田の光闡坊 (こうせんぼう)に出かけることになりました。

さて、「百姓の持ちたる国」って、どんな国だったのでしょうか?

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「一向一揆」についてのインタビュアーになって下さい!

2012年12月23日 | 日記

隊員NO.2りかで~す!

「実高ふれ愛隊日記」をいつも応援していただいているみなさん、本当にありがとうございます。

このたび、12月21日にUPした『やった~!柏崎先輩(日大ボクシング部)日本一!!』が、

「にほんブログ村」の地域生活(街)中部ブログ注目記事ランキングで第1位にランクインしました。

この記事で、多くのみなさんに柏崎先輩の快挙について、お知らせできたとしたら、しあわせです。

これからも柏崎先輩に負けないよう頑張りますので、よろしくお願いします!


さて、わたしたちは12月11日(火)の課題研究の時間に、以前ご報告しました加賀の一向一揆

について、さらに勉強するため、庄町・因乗寺のご住職家山勉先生にコーディネートしていただき、

山中町菅谷の徳性寺(とくしょうじ)と加州三ヵ寺の一つ山田光教寺があったとされる山田町西山田の

光闡坊 (こうせんぼう)に行ってきました。

徳性寺は蓮如ゆかりの地、光闡坊は500年前の一向一揆の戦いの歴史を示す「山田光教寺」跡で

今でも当時の”焼き米”を掘り出すことができます。

←蓮如ゆかりの地・山中町菅谷の徳性寺

←「焼き米」が今でも出てくる山田光闡坊

顧問の先生から、「4月からいろいろな活動をしてきたけど、今日が最後の活動ですよ」というお話

があって、何かとてもさみしい気持ちになりました。そしてこの日は、思いのほかたくさんの雪が降って、

菅谷の徳性寺では、顧問の先生の車が雪で動けなくなるというハプニングもありました。

ふたたび講師をしていただいた家山勉先生からは、今回特別に課題をいただきました。

その課題とは、「わたしたちの話を聞いてまとめるだけじゃなくって、みなさんが一向一揆についての

インタビュアーになってください!」というものでした。「困ったなぁ、うまく質問できるかなぁ」と

思いながらも、わたしたちは、「加賀市の魅力」について調べる最後の小旅行に出かけました。

(おまけ)

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ボクシング全日本チャンピオン柏崎刀翔さん(実高OB)物語

2012年12月22日 | 日記

隊員NO.1あさので~す(^^)/

昨日お伝えしましたように、大聖寺実業高校の卒業生で日本大学4年の柏崎刀翔さんが、

11月に行われた「第82回全日本アマチュアボクシング選手権大会」ライトフライ級で優勝し、

見事全日本チャンピオンになりました。

←本校マラソン大会で力走する柏崎先輩(10月30日)

柏崎先輩は大会直前の10月22日~11月2日までの2週間、母校の大聖寺実業高校で

教育実習生として、わたしたちに「現代社会」を教えてくださいました。とってもやさしくて

素敵な方でした。わたしたち実高生は陰ながら、先輩の活躍をお祈りしていましたが、

チャンピオンになってくれて、本当にうれしいです。わたしたちは、柏崎先輩が教育実習に

いらしたときにいろいろとボクシングに関する経験談を話していただきましたので、

そのお話を少し物語風にしてお伝えします。

柏崎刀翔物語』のはじまりはじまり~!

柏崎先輩は、小学校3年の時にボクシングを始めました。きっかけはお父さんの

「何か格闘技をやりなさい」という言葉で、最初は少林寺拳法をやりました。でも、

「自分に合わないなぁ~」と思って、次に小松市のボクシングジムを訪ねました。

そしてグローブを初めてつけてやってみると、とても楽しくて、このまま

ボクシングを続けました。しかしボクシングは楽しいスポーツでしたが、中学生の頃には、

練習がつらくて何度も「やめたい」と思った時期があったそうです。でも、

苦しい練習を続けるうちに、徐々に試合に勝つ喜びを感じるようになりました。

柏崎刀翔先輩の大会前練習風景の動画

(↑クリックすると、日大ボクシング部ブログにリンクします。)

大聖寺実業高校時代には、高校3年の時、全国インターハイと国民体育大会で、

全国準優勝に輝く大活躍ができました。学校への通学路往復12kmはランニング。

しかし、その裏では減量に苦しみ、学校で授業を受けているときも、実はフラフラな状態で、

人に言えないくらい肉体的につらい毎日だったといいます。

柏崎先輩は、高校卒業後、最初はプロ入りを夢見て、実は入門するジムも決まっていた

そうです。しかしその時恩師の体育の先生から、運命を変えるアドバイスがありました。

「なぁ柏崎。プロ入りはいつでもできるぞ。まずは大学へ行ってみないか?そして先生に

なって後輩を指導する道もあるんだぞ!」先輩は、このひと言で、ボクシングのメッカ

「後楽園ホール」で試合がある関東大学ボクシングリーグ第一部の日本大学への進学を

決めたのでした。

大聖寺実業高校を卒業後、先輩は上京し、日大ボクシング部の合宿所での生活を始め

ました。合宿所での生活は先輩が最初思っていた以上に、規律が厳しく、「これまでの

自分は甘かった」と痛感したそうです。合宿所での生活は、先輩と後輩の縦の関係が

とても厳しいものでした。また顧問の先生は選手を厳格に指導される方で、とてもいい

勉強になったといいます。柏崎先輩には4年生になって、副主将という役割も加わりました。

また合宿所ではプロの選手とスパーリングをしたり、ロンドンオリンピックに向けた

直前合宿にも参加しました。さまざまな経験を積んで柏崎先輩一回りも二回りも成長して

いったのでした。

先輩の夢は、ずっと全日本チャンピオンになることでした。そしてついに、11月の

「第82回全日本アマチュアボクシング選手権大会」ライトフライ級で、念願の初タイトルを

手にしたのです。

柏崎先輩の大好きな食べ物は、なんと「クルミ」です。なぜかというと、クルミの実は減量で

あまり食べられないときに、栄養を保てるだけでなく、噛みごたえがあり、その味を長時間

楽しめる食物だからだそうです。減量ってわたしたちの想像を超えるくらい過酷なのでしょうね。

柏崎刀翔先輩優勝をお祝いして、昨日学校の校門前に同窓会の皆さんによって、

とっても立派な「優勝オメデトウ」のボードが設置されました。柏崎先輩はいまや加賀市の星に

なりました。わたしたち大聖寺実業高校生は先輩からとっても大きな勇気と希望をいただきました。

昨日で二学期が終わりましたが、来年も先輩に負けないよう頑張らなくっちゃ!

そして先輩、これからもボクシング頑張ってくださいね。いつの日か世界チャンピオン

なることを目指して。

おまけ)実高情報ビジネス科3年生7人の手作り加賀市プロモーションビデオ

 石川県の加賀市に行ってみよう!(←クリックしてくださいね!)

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やった~!柏崎先輩(日大ボクシング部)日本一!!

2012年12月21日 | 日記

隊員NO.1あさので~す!

わたしたち「実高ふれ愛隊」の4年先輩、日本大学経済学部4年でボクシング部の

柏崎刀翔さんが、平成24年11月22~25日に、東京都・日野市市民の森ふれあいホールで

開催された「第82回全日本アマチュアボクシング選手権大会」において、見事ライトフライ級

チャンピオンになり、技能賞を獲得しました。決勝戦では今年の国体王者を圧倒しての

優勝でした。柏崎先輩、本当におめでとうございました!

大聖寺実業高校の先輩が、日本一に輝くなんて、リアルうれしいです。

大会の結果は、次の通りです。

2回戦 柏崎 刀翔(日本大、実高OB)2R RSC×下岡 詢平(同志社大)

準決勝 柏崎 刀翔(日本大、実高OB)14 : 11×寺地 拳四朗(関西大学)

決 勝 柏崎 刀翔(日本大、実高OB)16 : 11×田中 亮明(駒澤大学)

そして、この大会のトーナメント表と柏崎さんが在籍する日本大学の「日本大学新聞」の

記事をリンクさせていただきますので、どうぞクリックしてください!

ライトフライ級トーナメント表(←クリック!!)

「日本大学新聞」の柏崎さん紹介記事(←クリック!!)

柏崎刀翔さんは、これまでインターハイや国体で準優勝が4回とすばらしい成績を残してきましたが、

チャンピオンの座は惜しくも逃していました。でも、一生懸命日本大学のボクシング部の練習を続け、

学生時代最後の大会で、見事チャンピオンになったのです。

柏崎先輩は、10月22日からの2週間、実高で教育実習をされて、わたしたちも授業をしていただきました。

とってもやさしくて、素敵な先輩でした。

卒業後は、きっと次のオリンピックで金メダルを獲ることをめざして、もっともっと活躍されると思います。

柏崎先輩は、まさしく加賀市の星です。先輩の今後ますますのご健闘をお祈りしています!

柏崎先輩、応援しています、がんばって下さ~い!

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ビデオ「石川県の加賀市に行ってみよう!」完成!!

2012年12月20日 | 日記

隊員NO.1あさので~す!

←大聖寺から見た白山

いつもたくさんのみなさんに「実高ふれ愛隊日記」を応援いただき、本当にありがとうございます。

このたび、12月18日にUPしました『「白山信仰」の力が時代を大きく動かした事件(1176年)』が、

「にほんブログ村」の地域生活(街)中部ブログ注目記事ランキングでついに第1位にランクインしました。

みなさんのご声援が本当に励みになっています。これから最後の研究のまとめに向けて、頑張りますので、

よろしくお願いします!

さて、大聖寺実業高校情報ビジネス科では、わたしたち「実高ふれ愛隊」以外にも、加賀市の観光を

少しでも盛り上げる活動をしたいと、いろいろな研究をしています。その中の一つで、

加賀市のプロモーションビデオを制作するグループ7人が、ビデオ完成させましたので、

ご紹介します。そのプロモーションビデオの名前は、石川県の加賀市に行ってみよう!』です。

すべて情報ビジネス科7人の手作りで、高校生の目線で、加賀市のいいところをご紹介する内容に

なっています。

熊坂川の美しい桜、奥谷町の梨園のようす、古九谷の杜公園、大聖寺川の渡し船、夏真っ盛りのスイカ畑、

夕日がきれいな片野海岸、ライトアップされた柴山潟の噴水、山中温泉鶴仙渓の紅葉、山代温泉の古総湯、

九谷焼体験や山中漆器の魅力などが、約3分30秒にまとめられています。

また外国の人たちにも見ていただけるように、画面には英語の字幕も付けられています。

昨日、この石川県の加賀市に行ってみよう!』は、YOU TUBEにUPされ、

みなさんに視聴していただけるようになりました。下にリンク先を付けましたので、みなさんぜひぜひ

ご覧下さいね!

石川県の加賀市に行ってみよう!(←クリックしてください!)

また、12月12日に大聖寺実業高校で開催された「石川県商業科生徒プレゼンテーションコンテスト」

において、この石川県の加賀市に行ってみよう!』を使って行った発表が、金沢商業、小松商業、

能登高校の発表をおさえて、見事に優勝しました。ヤッタ~!

みなさ~ん、大聖寺実業高校生みんなで、「加賀市の魅力」を多くの方々にお伝えできます

よう活動していきますので、よろしくお願いしま~す!!

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「白山五院」のひとつ「大聖寺」

2012年12月19日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す(^^)/

これまで『加賀の白山信仰』について、レポートさせていただきましたが、今回が最終回です。

←加賀市観光ボランティア大学第17回講座

←大聖寺から見た白山

さて、旧城下町・大聖寺町には、かつての「白山五院」の一つ「大聖寺」があったといいます。

白山五院」とは、いまの加賀市にあったとされる柏野寺・温泉寺・極楽寺・小野坂寺・大聖寺の五つ

お寺のことですが、白山信仰がもっとも色濃く社会に繁栄された平安時代から室町時代にかけて、

加賀江沼の人びとの白山信仰の中心になっていました。

大聖寺という地名はきっと「白山五院」の一つ「大聖寺」にちなんでいるとは思いますが、

現在大聖寺の町には「大聖寺」というお寺は存在していません。白山信仰の拠点であった

福井県勝山市の平泉寺町や岐阜県郡上八幡の長滝寺町にもその名をもつお寺がないのと、

符合しているのかもしれません。

もともと白山五院」の一つ「大聖寺」は錦城山にありました。平安味代、この加賀の地に仏教が伝来したころ、

白山の白き神々を仰ぎ見る聖地として、錦城山には「大聖寺」という立派なお寺が建てられたのでしょう。

しかし、この「大聖寺」というお寺は、鎌倉時代になって、この地域に親鸞の浄土真宗、道元の曹洞宗、

日蓮の法華宗などの新興宗教が伝わると、衰えていきます。

そして16世紀になると、蓮如によって力を増した浄土真宗門徒と越前の朝倉義景との戦いに巻き込まれ、

大聖寺」は完全に焼けてなくなってしまいました。

その「大聖寺」の後身は、現在の大聖寺寺町近辺にあった大聖寺慈光院であったと思われます。

この慈光院は、江戸時代になって、前田利治が大聖寺藩を治めるようになると、城下町を整備するため、

大聖寺南西にある「山の下」に移され、神明宮山下神社と神仏習合されることになりました。

現在、神明宮山下神社の鳥居をくぐり、左側の石段をしばらく登っていくと、そこには白山神社があります。

かつて今の加賀市にあった白山五院」と「三箇寺」(那谷寺・温谷寺・栄谷寺)のうち、現在でも残っているのは、

那谷寺と山代薬王院温泉寺だけです。「大聖寺」が白山信仰と深くかかわっていた証拠としては、

もともと慈光院にあった木造十一面観音立像が、明治期の廃仏毀釈によって、同じく「白山五院」の一つ

であった山代温泉にある薬王院温泉寺に伝えられていることがあげられます。

今も大聖寺からながめる白山はとても美しいのですが、「大聖寺」が存在していた頃の白山は今以上に美しく、

「白山五院」の一つ「大聖寺」は、当時の加賀江沼の人たちにとって、白山を信仰する上での、

象徴的な空間だったと思われます。

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「白山信仰」の力が時代を大きく動かした事件(1176年)

2012年12月18日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す(^^)/

『加賀の白山信仰』について、レポートさせていただいています。いつもたくさんのみなさんに

お読みいただき本当にありがとうございます。12月17日にUPしました「白山三馬場・

長い間、白山の頂上をめぐる争いがありました!」が、「にほんブログ村」の地域生活(街)

中部ブログ 注目記事ランキングで第2位にランクインしました。これからも頑張りますので、

応援よろしくお願いします!!

←加賀市観光ボランティア大学第17回講座

←大聖寺から見た白山

さて、今の加賀市の地域と白山は切っても切り離せない関係を持っていました。ですから、平

安時代からずっと、この地域は加賀馬場(ばんば)にある白山本宮白山寺の勢力の下にあり

白山五院」や「三箇寺」という白山勢力と関係する8つのお寺があったといいます。

白山五院」とは、柏野寺・温泉寺・極楽寺・小野坂寺・大聖寺の五つのこと、「三箇寺」とは、

那谷寺・温谷寺・栄谷寺のことです。

はっきりとした確証はないそうですが、白山五院」があったのは、柏野寺は柏野町にある白山神社

付近、温泉寺が山代温泉薬王院あたり、極楽寺が大聖寺畑町付近、小野坂寺が高尾町の南部、

そして大聖寺が錦城山にあったとされています。そしてこれらのお寺が加賀江沼の人たちの

心の拠り所になっていたのです。

これら白山に関係するお寺は、平安時代の終わり頃にはとてつもないほど大きな力を持っていました。

ですからそれを物語るような大事件が1176(安元2)年に起きています。

この年、ときの権力者である後白河法皇とすごく親しい藤原師光の長男・師高(もろたか)が、

加賀守に任命され、その目代(代理)として弟の師経(もろつね)が加賀にやってきました。

しかし、白山寺の勢力があまりに強く、どんどん荘園を拡大し、ついには今の小松にあった

加賀守の土地(国衙領)をも侵そうとしていました。このことからトラブルが起き、

師経が国府の近くにあった湧泉(ゆうせん)寺を焼き払ってしまいます。

すると白山に関係する山伏・神人・大衆の怒りが大爆発しました。

かれらに率いられた2,000人が、加賀の国府を襲ったのです。この中には那谷寺・温谷寺・栄谷寺の

「三箇寺」からやってきた人たちも含まれていたといいます。

師経は夜逃げして京都に帰りますが、怒った白山の山伏たちは、本寺である比叡山延暦寺の神人

と合流し、日吉神社の神輿(比叡山の神をのせたみこし)をかついで、「おい、神様がお怒りだぞ!」

「加賀守藤原師高をいますぐに処分しろ!」と強訴したのです。それに対して後白河法皇は、

「これはもはや訴訟ではない。謀叛(むほん)だ」と断じ、平重盛に威嚇攻撃させたところ、そのとき放たれた

弓矢が神輿に突き刺さってしまいます。当時は神人以外の人間が神輿に触れることさえタブーでしたから、

これまた大変な騒ぎとなりました。ついに後白河法皇は、藤原師高兄弟を解任し、配流したのでした。

このとき後白河法皇は、あの有名な『賀茂川の水、双六(すごろく)のさいの目、山法師、これぞ朕が心に

随(したが)はぬ者』という言葉を述べました。絶対的な権力を持っていた後白河法皇でさえも、白山

比叡山の神人の力にはかなわなかったのです。

このように加賀の白山信仰のエネルギーは、ついに国家の体制すらゆり動かし、ずっと続いてきた律令国家

というしくみをくずすキッカケとなったのです。

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白山三馬場・長い間、白山の頂上をめぐる争いがありました!

2012年12月17日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す(^^)/

『加賀の白山信仰』について、加賀市観光ボランティア大学第17回講座で勉強したことをもとに

ご紹介させていただいています。

←大聖寺から見た白山

とっても美しい姿をした「白山」に神々が宿ると考えたのは、何も加賀の人たちだけではありませんでした。

白山を仰ぐことができる福井(越前)や岐阜(美濃)の人たちにとっても、「白山」は「水の神」として

大切なものでした。だって、「白山」を源として、岐阜に向かって長良川が、福井に向かって九頭竜川が、

そして富山に向かって庄川が流れていますから、それは当然のことだったと思います。

平安時代になると、「白山」への信仰には仏教的な要素が色濃く入ってきました。

昨日のブログでご紹介しましたように、御前峰(2702m)には十一面観音(白山妙理菩薩の本地仏)、

大汝峰(2684m)には阿弥陀如来(大己貴命本地仏)、別山(2399m)には、聖観音(大山祇神

本地仏)が置かれ、仏教や修験道と結びついて信仰が全国へと広がっていきました。

白山を信仰する人びとのエリアが拡大したことによって、白山山麓の加賀、越前、美濃にはそれぞれ

信仰活動の拠点が作られていきました。それは、加賀の白山寺、越前の平泉寺、美濃の長滝(ちょうりゅう)寺

の3つで、「白山三馬場(ばんば)」とよばれるようになりました。馬場とは、そこまで馬できて、馬を止めて

のぼり始めるところという意味です。今風に言えば、登山口と考えたらいいようです。そして、

それぞれの拠点から白山の頂上をめざす登山道は、加賀禅定道・越前禅定道・美濃禅定道として

整備されていきました。ちなみに、現在もっとも多くの人が白山へ登るために利用する「砂防新道」は、

むかしの越前禅定道の一部です。

そして、この加賀の白山寺、越前の平泉寺、美濃の長滝寺は、どれが白山信仰の本家であるか、とっても

はげしい争いを繰り広げたといいます。白山は、わしらの山や。頂上は他のもんには渡さんぞ~!」

とくに、江戸時代にはいると、そのいさかいは激しさを増しました。

美濃の郡上八幡藩にいる「御師(おし)」と加賀・越前の人たちの間で、言い争いが起きます。

「御師」とは、白山を信仰する全国各地の人を白山まで道案内する役割を果たして人びとで、

いまの岐阜県石徹白(いとしろ)の人びとは昔、全員「御師」だったといいます。争いの原因は、

お初料という、山の神や仏に捧げるお金の取り分をめぐるものでした。

また、越前禅定道の牛首村と加賀禅定道の尾添(おぞう)村の間でも、材木の利権をめぐる対立が

深まりました。その結果、この騒ぎに江戸幕府が乗り出します。結局、白山山麓の土地は幕府おとりあげ

となり、その後「天領」として治められることになりました。

当時は、白山」を、みんなのものと考えることが難しかったのでしょうね。

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