隊員NO.2りかで~す(^_^)v/
加賀市観光ボランティア大学第15回講座で、伊林永幸先生にお話しいただいたことを
もとに、レポートしています。
大聖寺藩の体制は初代利治、2代利明の時期に築かれました。そしてその後を引き継いだ
のが利明の三男として江戸で生まれた利直(1672~1710)でした。利直は、1684
(貞享元)年に5代将軍・徳川綱吉に御目見得して以降、綱吉の寵愛を受け、外様大名の
立場にもかかわらず、1691(元禄4)年に奥詰に任じられ、生活のほとんどを江戸で送る
ことになった人です。
5代将軍・徳川綱吉は犬公方といわれ、「生類憐みの令」を発しました。利直が綱吉の
お気に入りであったことから、大聖寺藩は1695(元禄8)年に御手伝普請として、大久保・
中野に犬小屋の建造を命じられることになります。その仕事は半端なものではなく、なんと、
敷地16万坪の中野に、25坪の朱塗りの犬小屋を290棟、7.5坪の犬の日除場を295棟、
子犬の養育所を459ヵ所も設置しなければならないものでした。この御手伝普請により、
大聖寺藩はたちまち財政困難に陥っていきます。
また、利直がほとんど大聖寺に戻らない定府大名だったことから、藩政を家臣団に任せ
ざるをえませんでした。利直は初代利治、2代利明のときの功臣・神谷守政よりも、
若い村井主殿(とのも)を重用したために、藩内で「元禄騒動」とよばれる神谷派対村井派の
権力闘争が起こってしまいます。背景には元禄バブルの中で生活に困った家臣団の不満が
あったと考えられています。
この騒動は、公金使い込みを理由とした村井主殿の切腹と神谷守政の子・守応の金沢召還
で決着しますが、大聖寺の藩政は混乱をきわめました。
さらに、利直が晩年の頃には、不幸な出来事が続きます。1709(宝永6)年、5代将軍綱吉
が死去し、奥詰を解任されます。そして弟・利昌が「采女(うねめ)事件」というとんでもない
刃傷事件を起こしてしまうのです。
利直は1692(元禄5)年に父利明の後を継いだとき、弟の利昌(1684-1709)に1万石を
分与して、支藩である大聖寺新田藩を作りました。この大聖寺新田藩は独自の藩庁などの
行政機関も持たず、最初は荻生村の「采女屋敷」で、のちに新町の役所で1万石分の米の
経理を行うようなものでした。
1709(宝永6)年2月15日、上野の寛永寺で綱吉の葬儀が行われました。
このとき、利直の弟の利昌は中宮使饗応役を命じられましたが、同役の大准后使饗応役は
犬猿の仲であった大和国柳本藩の織田秀親(織田信長の弟織田有楽齋の子孫)でした。
翌16日に事件が起きます。利昌が寛永寺吉祥院の宿坊で秀親を刺したのです。秀親は
即死だったそうです。
凶行の前日、利昌は家臣に赤穂事件について感想を求め、家臣は「内匠頭は斬らずに刺せば
本懐を遂げられた」と答えたという記録が残っています。
犯行後、利昌は女装して、現場から大聖寺上屋敷に逃げました。しかし事の重大さから宗家で
ある金沢藩が幕府に通報し、利昌は山城国淀藩主石川義孝に預けられ、18日には切腹と
なったのでした。
その後、大聖寺新田藩は廃藩となり、幕府に一旦収公されますが、すぐに大聖寺藩に1万石は
還付されました。不幸が続く中で、利直は1710(宝永7)年12月13日に永眠します。
桜の咲く季節、また晩秋の紅葉の頃にとっても美しい長流亭は、この利直の休息所として
1709(宝永6)年に建造されたものです。