隊員NO.2りかで~す(^_^)v/
加賀市観光ボランティア大学第15回講座「大聖寺藩いいとこ つかみどり」で、
伊林永幸先生から教えていただいたことをもとにお伝えします。
大聖寺という名前が初めて歴史にあらわれるのは、1163(長寛元)年にできた
『白山之記』という本です。白山五院の一つとして「大聖寺」というお寺の名前が
書かれています。このお寺は、たぶん錦城山の上にあっただろうと考えられています。
大聖寺で起こった出来事が明らかになるのが、多くの侍たちが誕生し、全国を舞台に
活躍する南北朝時代以降です。『太平記』には、1335(建武2)年に敷地方天神の
神官狩野氏を中心とした郷党が、錦城山にあった大聖寺城で北条氏の残党である
名越(なごや)太郎時兼を破ったことや、2年後の1337(延元2)年に南朝方の
畑時能(ときよし)が狩野方を味方として、荻生山の津葉城を攻めて大勝利をあげた
ことなどが記録されています。ちなみに、畑時能という人は『太平記』に日本一の
大力の剛の者と書かれている人で、忠犬”犬獅子”を従えて活躍したそうですよ。
さて、城下町大聖寺の基礎を作り上げたのは、前田家だったように思われがちですが、
実はそうではなく、溝口秀勝(1548~1610年)という人です。
溝口秀勝は、尾張国中島郡西溝口村出身で、織田信長の家臣・丹羽長秀に仕えて
武功をたて、1581年に長秀の与力大名として若狭国高浜城主となり、5千石を与え
られました。1583(天正11)年の賎ケ岳の戦いでは、敦賀にあった羽柴秀吉軍に
味方して、柴田勝家を破るために大活躍しました。溝口秀勝はその功績により、
1584(天正12)年8月に大聖寺城主となり、4万4千石を
与えられました。また翌年には、主君の丹羽長秀が病没したことを受け、独立した
一大名となりました。
溝口秀勝はその後15年の長きにわたって、大聖寺を治めましたが、とっても忙しかった
ようです。1587(天正15)年には、700人の兵を率いて秀吉の九州島津征伐に従軍、
1590(天正18)年には、秀吉の小田原北条攻めに北陸軍団の第一線部隊として
従軍しています。さらに、1592(文禄元)年から1598(慶長3年)まで続いた秀吉の
朝鮮出兵のさいには、肥前名護屋の本営勤務を果たしました。
このほかにも、大坂城の普請手伝い、京都東山の大仏殿造営の手伝いなど、
溝口秀勝は従軍と普請手伝いに明け暮れたようです。
1598(慶長3年)4月、溝口秀勝は越後の新発田藩6万石に移封され、初代藩主に
なります。6万石といわれて新発田に乗り込んだ秀勝は、領地の大半があばれ川である
阿賀野川がつくる湿地帯だったので頭を抱えたという話です。しかし、秀勝は同じく湿地帯
である大聖寺での経験を生かして治水・排水・新田開発に努めたといいます。
溝口秀勝はその経歴をみると、土木や建築に長けた人物だったのでしょうね。
城下町大聖寺の街並みには、溝口秀勝の頃の歴史がしっかりと刻まれているのです。