実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

「工芸空間フゾン」・すてきなギャラリーを楽しめます!

2013年05月31日 | 日記

隊員NO.3ゆかぴで~す(^_^)v

5月28日(火)の課題研究の時間、学校がある大聖寺の街中・山田町の

工芸空間FAISONS(フゾン)」さんを訪問させていただきました。

工芸空間フゾンのマスター・山根大徳さんは大聖寺実業高校情報デザイン科の

卒業生で、わたしたち実高ふれ愛隊の大先輩です。

FAISONS」とはフランス語で「作りましょう」と言う意味。工芸空間フゾン

作品」のみでなく「[作家」そのものを見せるコンセプトで2年前にできた

ギャラリーカフェなのです。

工芸空間フゾンの建物は、かつて繊維業で栄えた大聖寺に、明治13~14年頃に

建てられた町屋を活用したものです。しとみ戸のある8畳の部屋が2つ、

吹き抜けの6畳の部屋1つがあって、ギャラリーとして、カフェとして、素敵な空間が

演出されています。オーナーの山根さんは、グラフィックデザインやウェブデザイン、

それにイベントや映像、音楽に至るまで、さまざまな仕事をされていて、とっても

格好いい方でした。そしてアシスタントをされている女性はチェロの演奏をされている方で、

アートなお二人は息もピッタリでしたよ。

わたしたちが訪問した日には、Suzu Yaki-静かなる重みの器たち-」という企画展が

行われていて、珠洲焼作家・宮脇まゆみさんの作品が数多く展示されていました。

宮脇まゆみさんは、1973年に金沢市で生まれた作家さんで、鳳珠郡能登町に

「しこたろ窯」という窯を持ち、金沢で制作した作品をその窯に持ち込んで丸5日間

寝ずの作業をして仕上げているそうです。珠洲焼は、珠洲市周辺で採取される鉄分を

多く含んだ土を素材に、1200度以上の高温で焼き締めるのが特徴だそうです。

火を止める段階で窯を密閉して酸欠状態にすることによって独特の黒灰色の

色合いが出現します。わたしもこのような珠洲焼の器を一つ持ってみたいなぁと

思いました。この展示会は6月19日(水)まで開催されています。

工芸空間FAISONS(フゾン)」ではうれしいことに、展示されている作品を

実際に手にとって鑑賞することができます。

みなさん、工芸空間FAISONS(フゾン)」を一度訪れて下さいね!

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山代温泉の女性の歴史を語る「女生水」

2013年05月30日 | 日記

隊員NO.2ゆきちで~す(^_^)v


山代温泉観光ガイド体験で勉強させていただいたことをレポートしています!!

古総湯から歩いて5~6分のところに、「女生水」があります。女生水は、

おんなしょうずと読み、かつては山中温泉の「桂生水」、加茂町の「ぼけ生水」と

ならんで、大聖寺藩の三生水の一つに数えられていました。

女生水」は1300年の間湧き続けていて、どんなときでも枯れることがなかった

のだそうです。山代温泉はその名の通り地面を掘ると、すぐに温泉が出るのですが、

飲み水はなかなか出ませんでした。街の中で水が湧く場所はごくごく限られて

いました。またこの地域には1956(昭和31)年まで上水道が通じていなかった

ので、それ以前の山代温泉では旅館の女中さんが、毎日せっせと水を汲みに

来ていたことから、いつしか女生水」と呼ばれるようになったのです。

男生水男生水

「女生水」の奥には地蔵尊が安置されており、山代に住むみなさんは、通りすがりに

必ず手を合わせるといいます。

みなさん、女生水」に湧き続けるおいしい水を飲んで、

山代温泉の女性たちの歴史に触れてみられてはいかがですか?

 

山代温泉の夏を彩る「山代大田楽」・とっても楽しみです!!

2013年05月29日 | 日記

隊員NO.1いぶで~す(^_^)v

山代温泉観光ガイド体験で勉強させていただいたことをレポートしています!!

中世、京の都を中心に全国各地で一斉を風靡したにもかかわらず、

消滅してしまった「田楽」という幻の芸能がありました。

その田楽の演劇としてのエネルギーをそのままに、各地の伝統芸能や音楽を盛り込み、

さらには西洋の動き、音楽を取り入れて現代に生きる演劇としてよみがえったのが、

山代大田楽」です。これは故野村万之丞師(和泉流狂言師・総合芸術家)が構成し

創作したオリジナル楽劇作品です。躍動感あるリズムと踊り、華やかで雅(みやび)な

衣装、さえわたる笛の音と松明(たいまつ)や篝火(かがりび)の炎など、

神聖でおごそかな世界が現出されます。

色とりどりの花をあしらった大きな笠をまとい、大きな腰鼓や編木をつけて躍る人々、

アクロバット、ジャグリング、瓶回し等、リズムに合わせ様々なパフォーマンスが

華やかです。

「火入れ式」から始まり、「物着(ものぎ)」・「わらべ番楽」・「湯がけ番楽」・「兎楽(うがく)」・

「王の舞い」・「獅子舞」・「奏上」・「稚児舞」・五穀豊穣の芸能「三番叟(さんばんそう)」・

「総田楽」・「乱舞」・「行進」と全部で十三の演舞が繰り広げられます。

山代大田楽は、お祭りのように、老若男女の誰しもが参加でき、プロの俳優や

演奏家などの芸術家と共に、市民参加の方々とのコラボレーションによって作り上げています。

1993年度には文化庁芸術祭賞を受賞しました。1998年長野パラリンピックをはじめ、

これまで全国各地で上演されてきました。

平成25年度は8月4日(日)・8月5日(月)の2日間開催される予定です。

山代大田楽←山代温泉観光協会ホームページより

山代大田楽」は、加賀市が誇る一大エンターテーメントです。是非ご覧下さい!

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山代温泉・「服部神社」

2013年05月28日 | 日記

隊員NO.7ゆっこで~す(^_^)v

山代温泉観光ガイド体験で勉強させていただいたことをご報告

しています!!

服部神社」は「はとり神社」と呼びます。そして服部神社」はもともと織物と

とっても関係の深い神社だそうです。

和銅年間(708~714年)に、現在の福岡県の宗像(むなかた)地方より

服部(ふくべ)の工女が山代へやって来て、機織や裁縫の技術を伝え、

山代の郷は、たちまち織物の中心地として繁栄しました。

人びとは織物に対する感謝と一層の発展を祈って、機織の神様である

天羽鎚雄神(あめのはづちをのかみ)を祀(まつ)って、今の服部神社を造った

のだそうです。

927年の書物によるとその時代には大変立派だった社殿も、1552年越前の

朝倉義景の戦火にあって社殿を消失してしまいました。

江戸末期には廃絶されていましたが、1875(明治8)年、現在の場所に服部神社

再興され、菊理媛神(くくりひめのかみ)をまつる白山神社と合併して郷社となりました。

現在、服部神社の境内は平成山代八景の一つとされています。

樹齢200年以上の巨樹がたくさんあり、幹廻り5.9メートルのスダジイをはじめ、

タブノキ、ツバキなど自然林が境内に林立しています。蝉時雨が鳴り響く夏や、

秋を知らせる虫の声が聞こえる季節には、訪れた人をきよらかな気持ちにしてくれますよ。

また拝殿正面までの石段は108段あり、この石段を「お百度」すると子どもが授かるそうです。

観光にもってこいの良いお天気が続いていますよね。

みなさ~ん、是非加賀山代温泉にお越し下さい!!

(2013年5月6日付の記事を削除しました。ご了解ください。)

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山代温泉・菖蒲湯まつり

2013年05月27日 | 日記

隊員NO.5いくので~す(^_^)v

山代温泉観光ガイド体験で勉強させていただいたことをご報告

しています!!

薬王院温泉寺は、白山五院の筆頭寺院で、加賀越前の密教の中心寺院として

多くの修験者たちが集まっていました。これらの人たちが、その年の厄年にあたる

若者の厄払いを行うため、菖蒲(しょうぶ)を刈り取り俵につめて無病息災(そくさい)の

祈願を行いました。さらに尚武(しょうぶ、武芸事を大切にすること)につながる意味から、

地面に俵をすり回し、俵が切れて菖蒲が出ると、お湯の中に投げ込み菖蒲の持つ

香気(こうき)や薬性(やくせい)を溶かして、邪気を追い払う行事として

約1000年の伝統をえて、現在は6月3日から5日に行われています。

菖蒲湯奉納式←山代温泉観光協会ホームページより

6月4日の午後7時より、薬王院温泉寺の境内で紫灯護摩(さいとうごま)が

執り行われます。この境内での「紫灯護摩こそが山代温泉菖蒲湯まつり最大の

見物なんですよ。」って、ボラ大の竹本学長がおっしゃっていました。

護摩木には、山代温泉にお住まいの皆さんの心願成就(しんがんじょうじゅ)の祈願が

記入されています。紫灯護摩に参加する山伏は、紀州大峰山(おおみねさん)と

白山に入峰(にゅうほう)修行した者に限られるそうです。

6月3日から5日には菖蒲湯まつりを一目見ようとたくさんの方々が山代温泉

おいでることでしょうね!わたしも行ってみようかなぁ!

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山代温泉を守り続ける「薬王院温泉寺」

2013年05月26日 | 日記

隊員NO.5いくので~す(^_^)v

山代温泉観光ガイド体験で勉強させていただいたことをご報告

しています!!

山代温泉の守護寺は「薬王院温泉寺」といいます。薬王院温泉寺

できたのは、725(神亀2)年。

行基上人が白山に修行へ向うとき、この地で山代温泉を発見したそうです。

白山大権現を勧請し薬師如来、日光、月光両菩薩及び十二神将を彫像し、

お寺を設けたのが始まりと伝えられています。

それ以来、白山五院(大聖寺・小野(坂)寺・南郷堂林廃寺・温泉寺・柏野寺)の一つに

数えられ、最盛期には末社、別院数百坊を擁する大寺となりました。

観音堂には平安時代初期作の十一面観音菩薩が祭られているほか、境内には

五十音図の創始者・明覚上人を供養した国の重要文化財の五輪塔もあります。

その後一時衰退しましたが、985~88年(寛和・永延年中)に花山法皇が再興し

勅願により明覚上人が七堂伽藍の堂宇を建立したとされます。

天文年間(1532~55年)に朝倉義景の兵火により多くの堂宇、寺宝、記録などが

焼失し再び廃絶しましたが、江戸時代に入り初代大聖寺藩藩主前田利治によって

再興されました。境内背後の高台には中興の祖とされる明覚上人の供養塔があり

国指定重要文化財に指定されています。

←五輪の塔と案内板

あいうえおの小径

境内の後ろから通称「めかくしさん」と呼ばれる明覚上人の供養塔へとつながる

「あいうえおの小径」の登り口には「百度石」と書かれた石碑があって、

何回この石段を登ったか数えられるように石碑の所に十の段と一の段を数える

ための札がつくられていました。

何でもこの石段を100回登ると願い事が叶うという言い伝えがあるそうですよ。

1565(永禄8)年5月にはあの明智光秀も山代温泉に10日間滞在したという記録が

あります。京の都の人びとまでが知り、まさに全国各地から湯治客がやっていた

山代温泉は、ずっと薬王院温泉寺」とともに愛されてきたのです。

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再録・山代温泉と北大路魯山人

2013年05月25日 | 日記

隊員NO.3ゆかぴで~す!

5月21日(火)の山代温泉の観光ガイド体験で

「魯山人寓居 いろは草庵」についてご案内しました。

そこで、昨年りか先輩がレポートされた「北大路魯山人と山代温泉」について

記事を再録させていただきます!

美食家・陶芸家として活躍した北大路魯山人の原点は山代温泉にあったん

ですよ。下のタイトル名をクリックしてご覧下さい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「北大路魯山人と山代温泉」

←魯山人寓居跡いろは草庵

(1) 「北大路魯山人が愛した山代温泉」

(2) 「美食家・北大路魯山人と山代温泉」

(3) 「美食家・北大路魯山人と山代温泉(2)」

(4) 「北大路魯山人と大聖寺味噌」

(5) 「山代温泉・魯山人と陶芸の出会い」

(6) 「魯山人の古九谷観」

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山代温泉「湯の曲輪(がわ)」・そぞろ歩きが似合います!

2013年05月24日 | 日記

隊員NO.3ゆかぴで~す(^_^)v

5月21日(火)の課題研究の時間、山代温泉観光ガイド体験で勉強させて

いただいたことをご報告します!!

みなさん、「湯の曲輪(がわ)」って何かご存じですか?

江戸時代の温泉場はどこも共同浴場を中心に作られました。

北陸地方ではその共同浴場のことを「総湯」、そして「総湯」を中心とした

街並みのことを「湯の曲輪」と呼んだのだそうです。

山代温泉には古くからあった「湯の曲輪」の風景が日本中どの温泉よりも

はっきりと残されていて、いわば日本の温泉場の原風景そのままなのです。

一昨年にできあがった古総湯、そしてその周りにある紅殻(べにから)格子の

建物はとってもキレイです。

中でも古総湯のすぐ前にある元白銀屋(現・界 星野リゾート)は、1624(寛永元)年

創業の歴史ある旅館で、築180年を超える本館は、国の重要文化財に指定され、

宿泊可能な旅館建築としては日本最古であるとされています。

建物には、かつてお客さんを運んでいた馬を繋いでおく止め金も残っていて、

歴史を感じました。「かつて今の皇太子様がこの旅館に宿泊されたときには、すごい

警備だったんだよ。」とも教えていただきました。

今回特別にわたしたちは「界 星野リゾート」の館内を見学させていただきました。

高級感あふれるすてきな空間が演出されていました。展示コーナーには、

当館に逗留したあの「裸の大将」でおなじみの山下清画伯(1922~1971年)

が描いた「蝶々」の絵も飾られていて、楽しく拝見しました。

山下清画伯は当時の山代町町長さんと面会した後、なぜか「蝶々」の絵を

描いたのだそうです。なにか愉快ですよね!

山代温泉思わずそぞろ歩きをしたくなる素敵な温泉街です。みなさん、

歴史と文化が香る山代温泉「湯の曲輪に是非いらしてくださいね!!お待ちしてま~す!

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山代温泉のシンボル・八咫烏(ヤタガラス)

2013年05月23日 | 日記

隊員NO.2ゆきちで~す(^_^)v

5月21日(火)の課題研究の時間、山代温泉観光ガイド体験をさせて

いただきました!!

山代温泉の歴史ってとっても古くて、今から約1300年前の725(神亀2)年に

さかのぼるのだそうです。行基というえらいお坊さんが白山に向かう途中、

傷口をわき水で癒している一羽のカラスを見つけたことから、温泉が発見された

のです。そして、そのカラスはただのカラスではなく、古事記や日本書紀に出てくる

ヤタガラス(八咫烏)」です。神武天皇が大和征伐を行う際、道案内をしたというカラスで、

中国の伝説では、太陽の黒点の中にいるとされた伝説の三本足の霊鳥です。

咫(あた)は長さの単位で、親指と人差指を広げた長さ(約18cm)のことですが、

八咫は「大きい」という意味だそうです。

勝利を導く幸運の鳥であることから、日本サッカー協会のシンボルマークとしても使われ、

サッカー日本代表選手の胸にそのマークがあります。わたしは女子サッカーを

やっているので、山代温泉とサッカーのシンボルが一緒だと知ってビックリでした。

山代温泉の総湯のすぐ近くにある源泉公園には、開湯ゆかりの「ヤタガラス」像が

あって、その下から65度の源泉がコツコツと湧き出ています。

みなさん、山代温泉を散策した後は、ヤタガラス像が見える足湯「薬壺の湯」で

足の疲れやむくみを癒してくださいね!!体全体にパワーがみなぎってきますよ!

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山代温泉・実高ふれ愛隊のガイド体験

2013年05月22日 | 日記

隊員NO.1いぶで~す(^_^)v

5月21日(火)の課題研究の時間、山代温泉でそろいのハッピを着て、

観光ガイド体験をさせていただきました!!

わたしたちのガイド体験にご協力いただいた山代温泉ヤタガラスガイドの

加藤大二さん・北野美智子さん、加賀市観光ボランティア大学の竹本学長、

世話人の道場さん・梶川さん、本当にありがとうございました。

わたしたち隊員は、普段ヤタガラスガイドのみなさんが観光客の方々にガイドされるときに

使われるガイド用パネルを持って、順番にご案内しました。

お世話係のみなさんには観光客になっていただいて、山代温泉街を回りました。

今回は①総湯前→②源泉公園・あし湯→③薬王院温泉寺→④服部神社→

⑤魯山人寓居いろは草庵→⑥有形文化財の宿・元「白銀屋」→⑦夢小路女生水→

⑧九谷焼窯元「須田菁華」の順にガイドをしました。

みなさんを前にしてマイクを持つと、とっても緊張しましたが、われながら

「意外とうまくできたかなぁ!」と自信が持てました。

「山代の いで湯に遊ぶ 楽しさは 

        たとえて言えば 古九谷の青」

この詩はかつて山代温泉を訪れた与謝野晶子がよんだものです。

開湯1300年の歴史をもつ山代は魅力たっぷりの温泉街でした。

わたしたちの「山代温泉ガイド体験」を読売新聞、北国新聞、北陸中日新聞の

記者の方々に取材していただきましたので、ひょっとしたら今日の朝刊に記事を

掲載していただいているかもしれません。みなさ~ん、お読み下さいね!

それから加賀ケーブルテレビのカメラマンさんもガイドの様子を撮影してください

ました。今日の19時からリピート放送してくださるそうです。

是非わたしたちのガイド体験の模様をご覧下さい。

明日からは今回訪問させていただいた山代温泉の魅力をご紹介します

ので、お楽しみに!

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古九谷窯の誕生と廃止の時期は?

2013年05月21日 | 日記

隊員NO.7ゆっこで~す(^_^)v

 

加賀市観光ボランティア大学第3回講座で、講師の中矢進一先生から教えて

いただいた九谷焼」のことについてレポートさせていただいています。

古九谷のはじまりと廃止に関して、もっともまとまった記述があるのが、

1736(享保21)年に加賀の儒学者・大沢君山が著わした

『重修加越能大路水径』という地誌です。

この本の敷地川の項には、

「此の山中を九谷と云ふ、明暦年實性後藤氏に

命じて土器焼かしめし所なり、其他に焼物あるようで、

南京焼に同じ、中頃制禁あるようで、今は絶へたり」

とあります。

明暦年とは1655~57年、實性公は大聖寺藩初代藩主・前田利治、

後藤氏は後藤才次郎を指します。また土器=陶器、南京焼=磁器のこと、

中頃とは明暦年中と享保21年の中頃すなわち1695~96(元禄8~9)年と

考えられているそうです。

また大聖寺藩に関する貴重な史料『茇憩(ばっけい)紀聞』には

九谷の宮に花瓶一対あり。田村権左右衛門明暦元年六月廿六日と藍にてあり。

是は焼物手初に此の花瓶を焼き、奉納したると云伝う。」とあります。

ですから、古九谷が焼かれていた期間というのは、1655~1696年までのきわめて

短い間だったです。

そして古九谷が忽然と姿を消した理由としては

・中心人物の死 ・財政上の問題 ・伊万里焼の大量流入 ・藩政の混乱

・工人確保上の問題 ・幕府嫌疑の回避 などが考えられますが、

どれも確証がないそうです。詳しくは昨年、先輩が書かれた下の記事をご覧下さい!

「古九谷窯が突如廃止されたのはなぜか?」

(2012年8月17日付け)

(↑クリックしてください!)

わたしは中矢先生が、「こんな話もあります」といわれてご紹介された

古九谷工人キリシタン説」にとても興味を感じました。古九谷の謎については

後日あらためてご紹介する予定ですので、よろしくお願いします!!

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大聖寺藩主は「忠臣蔵」の吉良上野介と親戚でした!!

2013年05月20日 | 日記

隊員NO.7ゆっこで~す(^_^)v

 

加賀市観光ボランティア大学第3回講座で、講師の中矢進一先生から

大聖寺藩にかかわるとってもおもしろいお話をお聞きしましたので、

ご紹介します。

みなさん、大聖寺藩初代藩主・利治2代藩主・利明が、なんとあの「忠臣蔵」で

有名な吉良上野介と親戚だったってことをご存じでしたか?

昨日のブログでご紹介しましたように、大聖寺藩前田家と佐賀藩鍋島家の間には

深い「血の絆」があって、有田焼と九谷焼をつなぐ人やモノ、技術の交流を考える上で

とても重要なファクターです。徳川幕府は当初、幕府に対抗する力を持つ外様大名を

抑える政策を打ち出しました。改易(領地没収)や減封(領地削減)を強力に

行いましたし、一国一城令や参勤交代制度を実施し、外様大名の軍事力や経済力を

弱体化させようとしていました。

そこで全国の有力な外様大名たちは、まだ戦国時代のなごりが残っていた時代でもあり、

「徳川の天下もどう転ぶかわからない」と考え、いざというときに徳川幕府に

対抗できるように、さまざまな婚姻関係をもって「対徳川包囲網」を固めていたのです。

当然、加賀藩前田家はその中心だったと思われます。

30万石をもつ米沢藩2代藩主・上杉定勝が、3人の娘のうち、一番目の娘・徳姫を

加賀前田家100万石の分藩である大聖寺藩初代藩主・前田利治に、二番目の娘・

虎姫を35万7千石を誇る佐賀藩主・鍋島光茂に、三番目の娘・亀姫を

大聖寺藩2代藩主・前田利明に嫁がせたのはその典型的な例だったのでしょうね。

しかしその一方、外様大名たちは少しでも徳川幕府ににらまれないようにするための

婚姻関係も結んでいました。米沢藩2代藩主・上杉定勝には実はもう一人の娘・

がいて、江戸幕府で高家(こうけ)職を勤めるあの吉良上野介に嫁がせていたのです。

高家(こうけ)職とは、幕府と朝廷との間の儀礼を取り仕切る要職でした。その上

吉良上野介の血筋は曽祖父が徳川家康のいとこ、母が譜代大名きっての名門酒井家の

出身というものでした。ですから上杉家にとって、幕府内に強力な縁故をもつ

吉良家との婚姻は、相当大きなメリットがあったと思われます。

現に米沢藩3代藩主・上杉綱勝が世継ぎがないまま27才の若さで急死し、

お家断絶の危機にあったとき、吉良上野介の息子が四代目藩主となって事なきを

えたそうです。もし上杉家の血縁者が外様大名の前田家や鍋島家にしかいなければ、

外様の大藩の子弟を上杉家の当主に迎えることを幕府は認めなかったでしょうから、

上杉家はお取り潰しになっていたと思われます。

「忠臣蔵」のお話で、上杉家が吉良邸を守っていたのはこのような縁からだったのですね。

わたしは大聖寺藩のお殿様が、奥さん同士のつながりであの吉良上野介と親戚の関係に

あったなんて全然知りませんでした。歴史ってとってもおもしろいですね!

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かつて九谷はハイテク工業団地だった!

2013年05月19日 | 日記

隊員NO.7ゆっこで~す(^_^)v

 

加賀市観光ボランティア大学第3回講座で、講師の中矢進一先生から教えていただいた

九谷焼」のことについてレポートさせていただいています。

古九谷」発祥の地・九谷町は山中温泉街から大聖寺川を約13kmさかのぼった

山深いところにあります。冬にはとっても多くの雪が積もるところです。

2005(平成17)年8月に九谷ダムが完成したことにより、すべての住民がいなくなり、

現在は町の跡だけが残されています。ですから、わたしたちからすると、なんでこんな

さみしいところに世界に誇るような陶磁器「九谷焼」が作られたのかと不思議に感じて

しまいます。

←九谷ダム

でもその昔九谷は、何とビックリ、多くの人びとが働く今風にいう高速IC沿いの

ハイテク工業団地のような場所だったそうなんです。

そもそも治水が十分できなかった時代には「道」というものは山の尾根伝いに

続いていました。ですから人の行き来や物の流れというものは

今のように平野部ではなく、山が中心でした。

九谷の歴史を示す文書に「山広く方五里にわたり、谷深く九百九十九谷あり、略して

九谷という。」と言葉があります。多くの谷があるということは多くの道が集まっていた

ことを示します。実際戦国時代の九谷には、ロクロ技術を持つ木地師や鉄を溶かす

技術を持つ工人が集まっていました。ですから、当時の最先端技術である「色絵磁器」

の技術が九谷の地に花開いたとしても何の不思議もなかったのです。

九谷からは日本でも珍しい戦国時代の「水洗トイレ」の遺跡も見つかっているそうです。

古窯跡碑

古九谷窯の1号窯は全長34mを超える大規模な連房式登窯で、かつて九谷窯

発掘した時に、調査委員長をされた東京大学名誉教授の三上次男先生は、

「この九谷の古窯はその当時の有田の古窯とすこぶる類似したもの」であると

指摘されました。ということはこの古九谷窯をつくるにあたって、肥前有田から

さまざまな最先端技術を持つ磁器の工人がまとまって九谷に移入していたであろうと

推測できるのです。江戸時代は、人の移動は禁じられていたと言われていますが、

17世紀前半にはまだ、工人の移動は不可能ではなかったと思われます。

寛永14年(1637年)に肥前鍋島藩では、有田皿山に陶工が集中し燃料の山林が

切り荒らされたことを理由に、朝鮮人・中国人およびその子で、ある年数を陶磁器製造に

従事していた者以外をすべて追放しました。そのことにより、男女800人余が有田から

追放されたのです。これらの人びとは近隣地の窯場や全国の窯場に離散したといいますが、

この内の技術者の一団が九谷に来たということが十分考えられるのです。

その裏付けとして、有田伊万里を所領としていた九州の肥前佐賀藩鍋島家と

大聖寺藩前田家の姻戚関係もあります。

「肥前佐賀藩鍋島家と大聖寺藩前田家の姻戚関係」については先輩が昨年まとめた記事を

ご参照下さい。(下のタイトルをクリックしてください!)

「古九谷の誕生・前田家と肥前鍋島家の深い関係」

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大聖寺藩は前田利常の軍略から生まれた!!

2013年05月18日 | 日記

隊員NO.5いくので~す(^_^)v

 

加賀市観光ボランティア大学第3回講座 「これであなたも九谷焼博士

-こだわりの人 吉田屋伝右衛門-」では、講師の中矢進一先生から

九谷焼のことだけでなく、大聖寺藩の歴史に関するおもしろいお話もたくさん

教えていただきました。

大聖寺藩ができたのは1639(寛永16)年のことです。加賀藩3代藩主・前田利常

小松に隠居したさい、金沢80万石を光高に、富山10万石を利次に、

大聖寺7万石を利治に譲ったのがはじまりです。利常はいつも徳川家の警戒に

さらされながら、優れた政治を行い、「政治は一加賀、二土佐」と讃えられるほど

すばらしい体制を築いた人です。

ところで皆さん、大聖寺藩ができてから1660年までの間、大聖寺藩には

今の富山・新潟県境に飛び地があったことをご存じですか?

実は現在の富山県朝日町に、大聖寺藩4300石分(越中国新川郡内9村)の飛び地が

置かれていました(富山藩の飛び地もありました)。このような飛び地がわざわざ

富山・新潟県境にあった背景には、徳川家に警戒されていた前田利常の巧みな軍略が

あったのだそうです。

江戸時代は、武士は必ず城下町に集住しなければいけませんでした。ということは、

加賀藩の武士たちは城下町・金沢一カ所に住むことになっていたわけです。

しかしこれでは、加賀120万石の大きな所領を防衛するには不都合が生じます。

ましてやお隣・越後と越前には、徳川家の親藩松平家が配置されています。

そこで、利常は金沢以外の場所に、武士を配置できるように、富山藩・大聖寺藩

二つを立藩したと思われるのです。

富山・大聖寺の二藩をつくれば、越後や越前から敵がやってきたとしても、

二藩の藩士たちが事前に食い止めることが可能になります。富山・新潟県境にあった

大聖寺藩の飛び地も金沢防衛のための軍略であったろうと考えられるのです。

大聖寺藩が作られた背景に、このような前田利常の軍略が秘められていたのを

知ってとても驚きました。

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加賀百万石文化が作りあげた「九谷焼」

2013年05月17日 | 日記

隊員NO.5いくので~す(^_^)v

 

加賀市観光ボランティア大学第3回講座 「これであなたも九谷焼博士

-こだわりの人 吉田屋伝右衛門-」で、講師の石川県九谷焼美術館

副館長・中矢進一先生から教えていただいたことをもとにレポートします。

九谷焼」は、江戸時代わが国最大の外様大名であった加賀前田家が醸し出した

最高傑作です。

加賀藩3代藩主・前田利常(1596~1658年)は利家が56歳の時に生まれた

子供でした。利常子どものいなかった2代藩主・利長の養子となり、その後を

継ぎました。「武士の天下は回り持ち」といわれた時代、豊臣秀吉恩顧の大名で、

五大老の一人であった前田利家がつくった加賀藩120万石はいつも

徳川幕府によって警戒される立場でした。ですから、利常は徳川家の警戒を

解くため、とても苦心したといいます。

利常がわざわざ鼻毛を伸ばして「バカ殿様」を演じた話は有名ですよね。

かれは1639(寛永16)年、長男・光高に金沢80万石、次男・利次に富山10万石、

三男・利治大聖寺7万石を譲って、小松に隠居領をもうけて藩主の座を譲りました。

これも徳川幕府の警戒を解く作戦だったのでしょうね。

しかし、利常にはいつも徳川家に対する強い対抗心があったのです。武力でダメなら、

「文化で天下を取る!!」という意気込みで加賀文化の創出に力を入れました。

利常は、京都や江戸から当代一の名工を集め、金沢金工・金沢蒔絵を作りあげます。

またこの当時双璧といわれていた狩野派や琳派の絵師を集め、素晴らしい作品を

描かせました。さらに利常は茶道具への造詣が深く、鑑賞陶器にとても関心がありました。

長崎平戸のオランダ東インド会社を通じてオランダのデルフト焼きという陶器の注文をした

記録があるほどです。そして日本で最初に色絵磁器をつくったのが、

唐人・志いくわんから技術を学んだ肥前有田の初代柿右衛門ですが、

柿右衛門が作った作品を最初に購入したのも加賀藩・前田利常なのです(1647年)。

この当時中国では王朝の交替があり、明王朝から清王朝に替わりました。その政変により、

世界最大の磁器生産地であった「景徳鎮(けいとくちん)」の陶工たちは海外に

流出し廃れていました。そのため、日本の肥前有田焼がヨーロッパの人びとから一躍注目を

集めることになったのです。

「文化で天下を取る!!」という意気込みを持った利常は、当然色絵に関心を持ちました。

「できることなら、加賀の地で色絵磁器をつくって、世界を驚かせてやろう!」と考えた

だろうと想像できます。そんなとき、三男の大聖寺藩主・利治が金山開発を

進めていた九谷村で、陶石だけでなく、鉄・銅・マンガンなど絵の具の原料が採れることが

分かったのです。九谷の地で色絵磁器の生産が始まったのはその頃です。

古九谷窯が開かれたのは、今から約360年前の1655(明暦元)年のことでした。

古九谷の図柄には、当時の大名たちの間で流行していた最先端の意匠が施されています。

前田利常の「文化で天下を取る!!」という意気込みが九谷焼をはじめとする

加賀伝統工芸の源なのです!

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