隊員NO.5あやかで~す(^_^)v
課題研究で調べた加茂町出身の北ケ市市太郎について引き続きレポートします。
1891(明治24)年5月に起きた「大津事件」で国民的英雄になり、幸せの絶頂にあった
北ケ市市太郎でしたが、かれの人生は日露戦争を機に、今度は天国から地獄へと暗転
していきます。
「大津事件」の後、日本とロシアの関係はどんどん冷え込んでいました。
日清戦争(1894~95年)で勝利した日本は、中国(清)から海の要塞・旅順をふくむ「遼東半島」を
譲渡されました。しかし、それに対してロシアはドイツ・フランスとともに「三国干渉」を行い、
まんまと「遼東半島」を奪っていきます。当時の日本では「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を合い言葉に
しながらも、「打倒!ロシア」を叫ぶ声があがり始めます。その後もロシアは1899(明治32)年に
中国で起こった北清事変をキッカケに、満州占領をはかり、さらには露骨に朝鮮半島に手を伸ばして
きました。このことから、朝鮮を「利益線」としてどうしても死守したい日本との対立が決定的となります。
中国(清)からの賠償金や国内外からの借金で軍隊の増強をすすめた日本は、日英同盟(1902年)を
結び、ついに1904(明治37)年2月、ロシアに奇襲攻撃をしかけ、日露戦争を始めたのでした。
日露戦争が始まると、世間の人びとの北ケ市市太郎を見る目はガラッと変わります。
「おめぇがニコライを助けんだら、この戦争は起きんだんやぞ!」
「おめぇ、露探(「ロシアのスパイ」の意味)やろ。おめぇとは、もう話なんかできん!」
さらに、日露戦争で日本の苦戦が続き、犠牲者が出始めると、
「あんたのせいで、うちの亭主が戦死したんや。あの人を返してくれ!」と、とくに戦死者の遺族からは、
ロシアの年金で財をなし、反露感情が高まる中でもロシアの年金をもらい続けていた市太郎に対して
怒声が浴びせられたそうです。
市太郎は、それまで自慢気に家の門に飾っていた大津事件でもらった誇りである勲章を
取り外しました。そして、人びとに対しては、
「おれは露探じゃねぇ。そんなに露探と疑うのなら、俺を軍隊に送ってくれ!露探でないことを
証明してやる!」と言い返したといいます。
この日露戦争が始まったことで、終身年金の支給も打ち切られました。そして江沼郡議会の議場には
1度しか入らないまま、4年で議員を辞職します。
ニコライとの出会いで、バラ色の人生を歩んでいた北ケ市市太郎は、またもやニコライとの縁から、
スパイ扱いをされ、失意の人生を送ることになったのです。
北ケ市市太郎は、1914(大正3)年11月3日、第一次世界大戦の勃発を聞きながら、55年の
生涯を終えました。
(ブログ作成にあたっては、『加賀江沼人物事典』江沼地方史研究会刊を参照しました。)