実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

「JAPAN漆YAMANAKA」・山中漆器に挑戦です!!

2013年10月31日 | 日記

隊員NO.4まこで~す

←山中漆器新作展ポスター

わたしたち実高ふれ愛隊は、今度の11月2日(土)13時00分から

石川県立山中漆器産業技術センター・「うるし座」で行われる

JAPAN漆YAMANAKA」の山中漆器製作体験に参加させていただくことに

なりました。今回の山中漆器体験では、木地職人の村井一彦さんや中出博道さんに

ご協力をいただいています。村井さん、中出さんありがとうございます。

山中漆器の歴史は古く、安土桃山時代の天正年間(西暦1573-1592年)に

木地師の集団が、山中温泉の上流約20kmの真砂という集落に移住したことから始まり

ました。その後、江戸中頃からは会津、京都、金沢から塗りや蒔絵の技術が導入され

木地とともに茶道具などの塗り物の産地として発展をしてきました。現在、山中漆器

轆轤挽物(ろくろ)木地の分野で国内トップシェアを誇っているそうです。

JAPAN漆YAMANAKA」では、きっと素敵な山中漆器との出会いがあることでしょう。

木地」・・・450年の歴史があります。ろくろ技術は世界に誇るものです。

塗り」・・・究極の技で塗られた朱のジュエルは見物です。

蒔絵」・・・洗練されたデザインの至高の作品に出会えます。

この日は、地元の小学生や高校生を対象に、地元の山中漆器の職人さんたちに

先生になっていただいて、「木地挽き」や「塗り」の工程を教えていただく予定です。

そして、山中漆器の新作展も行われます。隊員NO.2ゆきちと隊員NO.3ゆかぴは

受験のため参加できませんが、5人が山中に行って、製作体験をします。

がんばりますので、よろしくお願いします!

石川県ブログランキングへ


大聖寺実高マラソン大会(加賀市中央公園)

2013年10月30日 | 日記

隊員NO.3ゆかぴで~す

 

10月29日(火)、加賀市山田町の加賀市中央公園を会場に私たちが通う

大聖寺実業高校の校内ラソン大会が行われました。

暑くもなく、寒くもなく、最高のマラソン日和に恵まれました。本校のマラソン大会

一昨年からはじまり、今年が3回目です。中央公園内の素敵な遊歩道を使って、

男子が7Km、女子が3.5Kmの距離を走ります。紅葉が始まった公園内の木々をくぐり、

池で羽を休めるカモの姿や芝生に立つすてきな彫像を見ながら走る、とっても気持ちの

いいコースです。

 

わたしたち実高生は全員、この日のマラソン大会に備えて、10月に入ってから、

学校から山ノ下寺院群の実性院や蓮光寺、久法寺の前を通って、蘇梁館の前までの

練習ロードを各クラス6回ずつ持久走の練習をしてきました。

この日大会が行われた加賀市中央公園は、大聖寺市街地から北東約2キロメートル、

標高50メートルほどの丘陵地にあります。春や秋の遠足のシーズンには、県内外から

多くの幼稚園児や小学生の子どもたちがやってきます。芝生広場はとても広々していて、

のびのびと遊ぶことができます。また森の中の散策路は、加賀市民の良き散策コースです。

マラソン大会では、わたしたち実高ふれ愛隊NO.2ゆきちがベスト10に食い込む力走を

見せました。大会後、加賀市陸上競技場で閉会式があり、山下教頭先生をはじめ

プレゼンターの先生方から上位入賞者に表彰状と副賞のメダルが授与されました。

実高生のみんな、ご苦労様でした。そしてお世話いただいた先生方や声援を送って

くださったPTA母親委員会のみなさん、本当にありがとうございました。

石川県ブログランキングへ


硲伊之助ってどんな人?(加佐ノ岬倶楽部)

2013年10月29日 | 日記

隊員NO.2ゆきちで~す

10月22日(火)の課題研究の時間に橋立町の「加佐ノ岬倶楽部」にお伺いし、

オーナーの宮本昭夫さんに、併設するギャラリーをご案内いただきました。

宮本さんは、1974(昭和49)年春に、偶然に大聖寺で硲(はざま)伊之助の作品

(陶芸)に出会い、まるで魂と五感を揺さぶられるような衝撃を覚えたそうです。

そして、その年の10月に和歌山県立美術館での特別展『硲伊之助展』を展観し、

1983(昭和58)年5月には加賀市立美術館の春季特別展『硲伊之助展』(回顧展)を

見て、宮本さんの心に火がつきました。「このまま芸術を埋もれさせたくない。

社会からもっと評価されて良いはずだ。」宮本さんはその情熱で、いろんな方々に

協力していただきながら、1986(昭和61)年4月にこの加佐ノ岬に硲伊之助美術館」を

開かれたそうです。現在、硲伊之助美術館」は、画伯が九谷焼を作陶された吸坂町に

移転されています。

硲伊之助画伯とは

1895(明治28)年11月14日 東京生まれ

1921(大正10)年 26歳で渡欧。パリを中心に活動。

1928(昭和3)年 フランス人ロゾラン・アデリア・エルビラと結婚。

1933(昭和8)年 世界的画家マチスに師事する。

1936(昭和11)年 一水会創立に参加。

1944(昭和19)年から1950(昭和25)年 東京美術学校(現東京芸大)助教授となる。

            マチス展・ゴッホ展など開催。

1977(昭和52)年8月16日 加賀市吸坂町で永眠。

という経歴の洋画家・陶芸家で、加賀市ととても関係が深い方です。

わたしたちは、宮本さんに硲伊之助画伯の石版画(リトグラフ)・油絵・木版画・陶芸

などの作品をたくさん見せていただきました。

宮本さんはおっしゃいました。「何でも見ればいいというものではありません。本物に触れる

機会を持ってください。」わたしは、芸術のことはあまりよく分からないのですが、

硲伊之助画伯の作品の数々は、どれもとっても美しいものばかりでした。

宮本さんには、ヨハネス・フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』の素晴らしさについても

教えていただきました。目の輝きと左耳の真珠のまばゆさが特徴的ですね。

『真珠の耳飾りの少女』(wikipediaより)

宮本さん、貴重なコレクションをご紹介いただき、本当にありがとうございました。

石川県ブログランキングへ 


硲伊之助・「努力できることが才能である」

2013年10月28日 | 日記

隊員NO.1いぶで~す

10月22日(火)の課題研究の時間、橋立町の加佐ノ岬倶楽部」でランチを

した後、付属のギャラリーで、オーナーの宮本昭夫さんがコレクションされている

硲伊之助(はざまいのすけ)の作品を鑑賞させていただきました。

硲伊之助については、「加賀ふるさと検定」ホームページのテキスト(人物編)で、

次のように紹介されています。

「画家。東京本所向島生まれ。パリ滞在中にアンリ・マチスに師事し一水会創立に参加

しました。終戦まもなくマチス展、ピカソ展、ブラック展の開催に尽力し、我が国洋画壇の

復興や芸術文化の向上に大きく寄与しました。古九谷に魅せられ、1962(昭和37)年

加賀市吸坂町に移住しアトリエを構え製陶活動を行いました。」

加佐ノ岬倶楽部」のオーナー・宮本さんは27才の時に晩年の画伯にお会いし、

それ以来、硲伊之助の作品に惚れ込んでコレクションされたそうです。宮本さんからは、

硲伊之助の世界をもっと勉強したければ、吸坂町の硲伊之助美術館を訪ねるといい

ですよ!」とアドバイスをいただきました。

硲伊之助といえば、かれの名言・「努力できることが才能である」が今年の春に、

石川県の英雄・松井秀喜選手が引退の際に使われたことで、とても注目を集めました。

この言葉はもともと、「1981年にNHKテレビ訪問インタビューで、硲伊之助を師とし、

九谷吸坂窯を継いだ海部公子さんが紹介されたものだそうです。そのテレビ番組を

見た松井選手のお父さんが、その言葉を書き止め、息子に与えたのです。それが、

ひたすら素振りなど、練習に打ちむ松井選手の支えになりました。」ということから、

松井秀喜選手の座右の銘になりました。(硲伊之助美術館ホームページ参照)

読売巨人軍やニューヨークヤンキースで活躍し、国民栄誉賞を受賞した松井選手の

心の支えが硲伊之助の一言だったのですね。

宮本さんから、硲伊之助のことについてたくさん教えていただきましたので、明日の

ブログでご紹介させていただきます。よろしくお願いします。

石川県ブログランキングへ 


『奥の細道』・松尾芭蕉の山中との別れ、曽良との別れ

2013年10月27日 | 日記

隊員NO.6れいなで~す

10月10日(木)の加賀市観光ボランティア大学13回講座で、西島明正さんに

山中温泉と松尾芭蕉」について教えていただいたことを、先生の著書

芭蕉と山中温泉』を参照しながら、ご紹介してきました。

今日は、芭蕉山中との別れ、そして弟子の曽良との別れについて、あさの先輩の

記事を再録しながら、ご紹介します!!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いよいよ芭蕉山中を旅立つ時を迎えました。そして、この旅立ちは「奥の細道」で

苦楽と共にしてきた芭蕉と曽良の別れの時でもありました。1689(元禄2)年8月5日

(新暦9月18日)のことです。

二人はこれまでの旅を振り返りながら、それぞれの思いを句に託しています。

曾良は腹を病(やみ)て、伊勢の国長島と云う所にゆかりあれば、先立(さきだち)て

行(いく)に、

 行行(ゆきゆき)てたふれ伏すとも萩の原    曾良

(病身のまま旅立ち、このまま行けるところまで行って倒れたとしても本望だ。できること

なら萩の咲く野原で死にたいものだ。それくらい旅にかける志である。)

と書置(かきおき)たり。行(いく)もの悲しみ、残(のこる)もののうらみ、隻鳧(せきふ)の

わかれて雲にまよふがごとし。予も又、

今日よりや書付消さん笠の露  芭蕉

(ずっと一緒に旅を続けてきた曾良とはここで別れ、これからは一人道を行くことになる。

笠に書いた「同行二人」の字も消すことにしよう。笠にかかる露は秋の露か、それとも

私の涙か。)

また、立花北枝も山中を去る気持ちを

きくの里みるたびなかむゆの名残  北枝

とよみました。

昼頃になりました。芭蕉と北枝は、曽良や山中の俳人たちの見送りを受けて、黒谷橋を渡り

那谷寺にむかって旅立ちました。

曽良もまた、燕が南に帰って行くその後を追うように、大聖寺に旅立ったのです。

石川県ブログランキングへ 


再録・芭蕉が語る「不易流行(ふえきりゅうこう)」

2013年10月26日 | 日記

隊員NO.4まこで~す

10月10日(木)の加賀市観光ボランティア大学13回講座で、西島明正さんに

山中温泉と松尾芭蕉」について教えていただきました。

今日は芭蕉の俳諧のこころを記した『山中問答』について、あさの先輩が昨年記録

された記事をご紹介します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1689(元禄2)年8月3日(新暦9月16日)、久しぶりに夕方まで雨が降り続きました。

松尾芭蕉山中温泉に逗留して7日目のことです。

この頃、芭蕉は金沢から同行している立花北枝の質問に答えて、俳諧のこころを

語っています。その芭蕉の言葉を北枝が書き記したのが山中問答です。

この山中問答は、芭蕉が唱えた正風俳諧を研究する上でとっても貴重な史料

なのだそうです。

『山中問答』

正風の俳道に志あらん人は、世上の得失是非に迷はず、烏鷺(うろ)馬鹿(ばか)の

言語になづむべからず。天地を右にし、萬物、山川・草木・人倫の本情を忘れず、

落花散葉の姿にあそぶべし。其すがたにあそぶ時は、道古今に通じ、不易の理を

失はずして、流行の変にわたる。然る時は、こころざし寛大にして物にさはらず、

けふの変化を自在にし、世上に和し、人情に達すべしと、翁申たまひき。

自然と人生に基礎をおく民衆的な文学を、「俳諧」という芸術に創り上げたのが

芭蕉です。そして芭蕉自身が諸国を行脚し、深く自然と人生に思いを込めながら

広めた俳諧を「正風俳諧」とよびます。「正風俳諧は万葉集の心なり。されば貴となく

賎となく味うべき道なり。」とは芭蕉不滅の名言です。

山中問答』の中にある不易の理を失はずして、流行の変にわたる」(=不易流行)と

いう考えは、芭蕉が『奥の細道』の5カ月の間に体得したものといわれています。

「不変の真理を知らなければ基礎が確立せず、流行(変化)を知らなければ新たな進展

がない、しかもこの不易流行のもとは一つ、不易流行を、流行不易を動かす

不易」は変わらないこと、すなわちどんなに世の中が変化し状況が変わっても絶対に

変わらないもの、変えてはいけないものということで、「不変の真理」を意味します。

逆に、「流行」は変わるもの、社会や状況の変化に従ってどんどん変わっていくもの、

あるいは変えていかなければならないもののことです。

不易流行」はもともと俳諧に対して説かれた考え方ですが、何か人生すべてのことに

通じているように思えますね。

芭蕉堂←『芭蕉と山中温泉』(西島明正著)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この世の中には、変えてはいけないものがあると同時に、変えていかなければならない

ものもあるのですね。とっても奥が深いです。「不易流行」って、大事にしたい言葉ですね。

 (ブログ作成にあたっては、西島明正著『芭蕉と山中温泉』を参照させていただきました)

石川県ブログランキングへ


「加佐ノ岬倶楽部」でおいしいランチ!!

2013年10月25日 | 日記

隊員NO.7ゆっこで~す

10月23日(火)の課題研究の時間に、橋立町の加佐ノ岬を散策した後、

わたしたち実高ふれ愛隊の7人は加佐ノ岬倶楽部」でランチを楽しみました。

店内にはアンティークな品物がたくさん飾られ、照明や音楽もとっても落ち着いて

いて、じっくりとランチを楽しむことができました。(トイレもすごくおしゃれでしたよ!)

ドイツ製の古いピアノもあって、隊員NO.4まこが、お得意のピアノの腕を発揮して、

実高の校歌を演奏して、みんなは拍手喝采です。

さぁ、ランチメニューのご紹介です。わたしたちが注文したのは、全部で5種類。

ナシゴレン」・・・インドネシアの代表的なスパイシーなピラフ。とっても大人の味でした。

あんかけやさいどんぶり」・・・体にいいやさいがたっぷりでした。

赤カレー・黒カレー」・・・とっても辛いけど、クセになる味の「赤カレー」と、はじめは甘く

              だんだんスパイシーになる「黒カレー」の組み合わせ。

パスタ」・・・トマトソースとカルボナーラの2種類から選べます。

おまかせワンプレートランチ」・・・日替わりで、この日はトンカツとカボチャのサラダがメイン。

そしてすべてのランチメニューにアイスとケーキがついていました。

アイスは紫いも・きなこ・マロン・チョコレートの4つの味。ケーキはさつまいもとかぼちゃの

2種類でした。とってもおいしいだけでなく、お値段もすごくお得感がありました。

加佐ノ岬倶楽部」のカフェがある建物は、ダムに沈む予定だった山中町我谷の古民家を、

オーナーの宮本昭夫さんが移築して使用されたそうです。もとは、「硲伊之助(はざま いのすけ)

美術館」のギャラリーでした。美術館が吸坂町に移された後、現在の加佐ノ岬倶楽部カフェ

として使われることになりましたそして驚いたことに、壁にはあのピカソの作品がたくさん

展示されていました。オーナーの宮本さんのお話では、「素描だけど、もしピカソのサインが

あれば、ビックリするほど高価なものになるだろうね。」とのことでした。

みなさんも、ピカソを鑑賞しながら、加佐ノ岬倶楽部」でおいしいランチをお楽しみ下さい!

石川県ブログランキングへ


学校を飛び出して、加佐ノ岬へ!

2013年10月24日 | 日記

隊員NO.5いくので~す

わたしたち実高ふれ愛隊の7人は、10月22日(火)の課題研究の時間に、

学校を飛び出して、加賀市橋立町の加佐ノ岬にやってきました!!

とってもキレイな白亜の灯台、「わぁ、これって180度水平線?」っていうくらい

伸びやかな日本海のパノラマ。少し風は強かったですが、加賀市だからこそ味わえる

秋の日本海の景色を楽しみました。

加佐ノ岬は越前加賀海岸国定公園の一部で、遊歩道が整備されていて、多くの人々が

訪れる観光名所です。加賀海岸は約35kmにわたって平坦でおだやかな長い砂浜が

続くのが特徴ですが、この加佐ノ岬は加賀海岸の南西端にあって、加賀海岸の中では

最も日本海に突き出た岬になっています。昔の加佐ノ岬には、かつて「橋立」という地名の

由来となる400mもつづく突き出た岩の崖「梯立」があったのだそうです。きっと、

日本海の荒波によって削られてしまったのでしょうね。今では海食によって軽石質砂石が

侵食された20~30mの断崖が続き、周囲には小さな岩島が海面から顔を出しています。

また、海を見渡せば、福井県の雄島や小松市の安宅海岸まで見ることができます。

顧問の先生は、わたしたちを集めて、「お夏のガン洞」の話をして下さいました。

とっても悲しいお話ですね。

「お夏のガン洞」のはなし(←クリックしてお読み下さい!)

ところで皆さん、この加佐ノ岬が今パワースポットとして注目を集めていることを

ご存じですか?この加佐ノ岬は、白山、木曾御嶽山、富士山という3つの霊山を一直線上

に結んだライン上に位置しています。またその先は、太平洋側の神奈川県真鶴(まなづる)

半島につながっていて、この半島もまた、パワースポットなんだそうですよ

加佐ノ岬に立つと、朝日が白山からのぼり、夕日が日本海へと沈む幻想的な風景を

両方とも拝むことができます。パワースポットは大地の力がみなぎる場所という意味ですから、

人に勇気や元気を与えてくれるはずです。日頃お疲れのみなさんは、加賀市の加佐ノ岬

パワーを充電されてはいかがですか?

石川県ブログランキングへ


山中温泉「芭蕉の館」・芭蕉の資料がいっぱい!

2013年10月23日 | 日記

隊員NO.3ゆかぴで~す

10月19日(土)の加賀市観光ボランティア大学14回講座 「秋の山中、恋路旅」で、

わたしたち実高ふれ愛隊7人は、山中温泉ガイド体験をさせていただきました。

この日、わたしたちが山中座・菊の湯につづいてご案内したのが、ここ「芭蕉の館

です。ガイドはNO.2ゆきちが担当しました。

「ここは芭蕉の館です。明治34年に建てられた旅館を改修し、平成16年11月6日に

オープンしました。庭がとても美しいこの館は、奥の細道で山中を訪れた松尾芭蕉

資料や人間国宝・川北良造さんの作品など、山中漆器の名品が多数展示されて

います。入り口には、奥の細道でずっと二人旅をしてきた芭蕉と曽良がこの山中

で別れる場面の石像や陶板が飾られています。」

この建物は、芭蕉が泊まった泉屋のすぐ横にあった扇屋という旅館の別荘でした。

そして扇屋は、芭蕉が山中に来たときに泉屋の主人だった久米之助(桃妖)の奥さん

の実家でもあるそうです。

この日わたしたちは館内には入りませんでしたが、中はかつての山中温泉の老舗

旅館の別荘だっただけに、漆塗りの天井・広々とした床の間などは、それはそれは

すばらしいものだそうです。そして日本庭園もとてもキレイなのだそうです。

今回のガイド体験を前に、顧問の先生が「芭蕉の館」の写真を撮ってきて下さい

ましたので、ご紹介します。

昨年わたしたちの先輩が「芭蕉の館」を訪問させていただいた際には、職員の

荒谷清子さんに「山中節」をご披露いただきました。

これまでわたしたちは「松尾芭蕉と山中温泉」についてお伝えしてきましたが、

もっと詳しくお知りになりたい方にとって「芭蕉の館」は必見です。鶴仙渓の紅葉を

楽しまれる際には、是非みなさん、お立ち寄り下さい!!

石川県ブログランキングへ


山中名物「きんとんパイ」・実高ふれ愛隊のイチ押しです!!

2013年10月22日 | 日記

隊員NO.2ゆきちで~す

10月19日(土)の加賀市観光ボランティア大学で、山中温泉ガイド体験をさせて

いただきました。とても緊張しましたが、受講生の皆さんがあたたかく拍手を送って

下さって、すごくうれしかったです。みなさん、わたしたちのガイドはいかがだった

でしょうか。

ガイド体験が終わった後、顧問の先生が、「今日は本当にご苦労さん。何かごちそう

せないかんな!どこ行く?」と言われたので、みんなで声をそろえて、

「金森商店のきんとんパイが食べた~い」と答えました。「よし、いってみよ~!」

わたしたちは山中温泉「ゆげ街道」のちょうど真ん中にある「金森商店」さんに、

お伺いして、「きんとんパイ」を注文しました。「金森商店」の金森由紀子さんは、

いつもわたしたち実高生にやさしくしてくださいます。

実はわたしたち情報ビジネス科3年のクラスでは、9月にあった「聖実祭」・文化祭で

模擬店を開き、金森さんにお世話いただいて「きんとんパイ」を販売したのです。

そのときも、「きんとんパイ」は売れ筋NO.1でした。

金森由紀子さんは、「実高の卒業生はいい子ばかりで、よくうちに買いに来てくれるよ。」

って、おっしゃっていました。

加賀市では、昔からどこの小中学校でも、学校給食で必ず「きんとんパイ」が出るので、

加賀市民の中には大好きな人が多いはずです。そして山中の子どもたちにとっては、

1個80円でおこづかいで買うのにちょうどいい金森商店の「きんとんパイ」は人気です。

(不思議なことに石川県内でも学校給食で「きんとんパイ」が出されるのは、加賀市だけ

だそうです。そして山中には「きんとんパイ」を扱っているお店がたくさんあります。

なんででしょうか?

きんとんパイは、さつまいもの餡をパイ生地で包みカラっと油で揚げたスイートです。

観光客の皆さんも、ファーストフードとして街で食べ歩きができる人気のおやつです。

みなさん、山中温泉にお越しの際は、ぜひ「きんとんパイ」をお買い求め下さい。

実高ふれ愛隊のイチ押しで~す!!

石川県ブログランキングへ


山中温泉でガイド体験をしました!!

2013年10月21日 | 日記

隊員NO.1いぶで~す

10月19日(土)の加賀市観光ボランティア大学14回講座 「秋の山中、恋路旅」で、

わたしたち実高ふれ愛隊7人が、ボラ大受講生や河南小学校5年生のみなさんを

前にして、山中温泉ガイド体験をさせていただきました。

わたしたちのガイド体験にご配慮いただきました竹本利夫学長はじめボラ大の

みなさん、あたたかく見守っていただき、本当にありがとうございました!!

当日は予定より少し遅れて、まずは山中座のご案内からスタートしました。

まずは、わたしが「山中座」のご紹介をしました。

「ここは山中座です。山中座の建物には、山中漆器の職人の技が集められています。

天井は蒔絵技法やシルクスクリーンによる作品で埋められ、柱や壁は拭き漆技法で

仕上げられています。定員180人のホールでは、檜造りの舞台で、毎週土曜日には、

山中節の歌や踊りが鑑賞できます。LADY KAGAとして活躍されている若手芸妓の

小乃葉さんは、わたしたち実高の先輩です。」とご説明しました。とても緊張しましたが、

わたしのガイドを聞いて、受講生の皆さんは大きな拍手を送って下さいました。

山中座のホールでは、座席の肘かけ一つひとつが、漆で仕上げられており、また

山中温泉の湯本十二軒だけが使用できたマークの入った提灯が館内を彩っています。

このあと、わたしたちは時計台の14時を告げる人形が唄う山中節を合図に、

7人そろいのハッピを着て、菊の湯前からガイドをスタートしました。

森光子一座記念館→泉屋の跡→芭蕉の館→あやとりはし→芭蕉の句碑→川床→

采石厳→こおろぎ橋→ゆげ街道→栢野大杉→医王寺の順に、7人が順番にガイドを

務めさせていただきました。

あやとりはし」では、かんたんな「道明が淵の龍伝説」のお芝居をご披露しました。

そして栢野大杉では、以前、課題研究の時間に食べてとってもおいしかった「栢野大杉

草だんご」を実際に、参加者の方々に食べていただけるように工夫させていただきました。

ボラ大受講生の皆さん、わたしたちの山中温泉ガイドはいかがでしたか?

なお、この日は石川テレビと加賀テレビのカメラマンの方にわたしたちのガイド体験を

取材していただきました。石川テレビでは、11月23日の『ウィークリーいしかわ』という

番組で、加賀テレビでは今週のウィークリーニュースで、わたしたちの活動を紹介して

いただけるようです。みなさん、御覧下さいね!

石川県ブログランキングへ


芭蕉が見た黒谷橋・「行脚(あんぎゃ)のたのしみ ここにあり」

2013年10月20日 | 日記

隊員NO.6れいなで~す

1689(元禄2)年8月1日(新暦9月14日)、松尾芭蕉山中温泉に逗留して

5日目。この日、山中はとってもいい快晴のお天気で、芭蕉山中温泉から

四十九院の山越えをして、那谷寺・小松に通じる黒谷越え道にある黒谷橋

出かけました。現在の黒谷橋は石橋で、昭和10年に架けられたものですが、

この当時は、川の巨石に橋柱を立てた木造の橋だったそうです

芭蕉はいまも美しい黒谷橋周辺の鶴仙渓の景色を近くの平岩に座ってながめ

手をたたきながら、こう叫んだそうです。

「この川の黒谷橋は絶景の地なり。行脚(あんぎゃ)のたのしみ

ここにあり」

芭蕉堂

ですから、いまの黒谷橋の欄干には上のような陶板が飾られています。

そして黒谷橋のたもとには芭蕉堂」というお堂が建っています。この「芭蕉堂」は、

1910(明治43)年10月、正風俳諧最後の俳人といわれる金沢出身の

渡辺萎文(いぶん)が、全国の同士に呼びかけて、建てたものです。

萎文は堂を建てるのなら芭蕉が「絶景なり」と叫んだここ黒谷橋しかないと

考えたようです。 「芭蕉堂」の前には、石碑があり、次のように刻まれています。


芭蕉翁、正風を倡(となえ)、雲の流れに従い各地を遍歴した。

たぐいまれな足蹟を残して芭蕉翁が、かつて奥州からの帰途、北枝と曾良を伴って

やって来た。山中の温泉に数日くつろぎ、山中問答を著す。黒谷の勝地にあり。

奇岩層列にして、流れる水は渕にたまり、その間に橋が架っている。ここを翁、

徘徊賞心して、盤蛇石という坐りやすき石に坐してきん然と拍手して曰く。

「雲に遊ぶこの楽しみ、まさにここにあり」と。

山中の名は、翁によって有名となり、はや二百有余年になる。山河は当時のまま

であるが、人の世の出来事だけが日々変っている。その中でただ正風のみが

輝いている。凡(おおよそ)翁の足蹟や堂宇樹石などは、永く滅びないことを乙い

願うものであるが、この地に一つ欠けたものがあると思われる。

それであるから、萎文久しく全国の同志に呼びかけて、芭蕉堂を創建した。

これは実に明治43年10月の事である。のち、この堂で遊ぶ者は、芭蕉来遊の

当時をしのび、風流を聴き、渓を聴き、林恍(りんこう)を聴いて拍手し、世のわずら

わしさに思いなげかず、また文等を尊ぶ者の志を、長く伝えるべきである。

 明治43年10月             五香屋休哉嘉撰(ごこうやきゅうさいかせん)

                         渡辺萎文 謹著

芭蕉堂の横にある参道を5分ほど上がると、木地師の祖神・惟喬(これたか)親王を

お祀りする東山神社もあります。秋の散策にもってこいの黒谷橋に是非お越し下さいね!

 (ブログ作成にあたり、西島明正著『芭蕉と山中温泉』を参照させていただきました。)

石川県ブログランキングへ


芭蕉が詠んだ山中の美しい情景

2013年10月19日 | 日記

隊員NO.4まこで~す

山中温泉といったら、「こおろぎ橋」ですよね。

「時と季節のせせらぎに こおろぎ橋は いつもやさしい」

この付近は岩石が多く、越前(いまの福井県)に向かうときにとっても「行路危(こうろぎ)」

場所で、またこの周辺で、秋の夜、可憐になく蟋蟀(コオロギ)の声が多く聞かれた

ことから、こおろぎ橋」と名付けられたといいます。

松尾芭蕉は、山中逗留4日目の1689(元禄2)年7月30日(新暦9月13日)に

こおろぎ橋」の上流の河原へ行って、一句よんでいます。この付近は高瀬と呼ばれ、

その昔鮎漁のよき漁場として賑わっていた所で、かがり火を焚いて魚をおびき寄せる

漁師の舟がひしめきあっていたそうです。

いさり火に かじかや波の 下むせび

(清流の小石に身を伏せているかじかを漁り火で追っているのであろう。さやさやと

聞こえてくる瀬の音は、かじかがつかまるのを怖がって、川底でむせび鳴いている声

であろうか。)

この句でよまれている「かじか」は、”むせび”という一字からみても、鮎やウナギでは

なく、小エビかゴリ(オコゼ)であったろうと考えられますたいまつの火で魚を追う里人、

そしてじっと川の底にかくれているかじか。

当時はごくありふれた情景だったのかもしれません。それが、小さな魚に感情移入する

芭蕉のこまやかな句を通すと、とっても美しい山中温泉の一場面が目の前にあらわれて

くるようですね。

現在、この場所には「高瀬大橋」が架けられ、「ろくろの里」として有名な奥山中の

菅谷町に向かう重要な役割を果たしています。

 

(ブログ作成にあたっては、西島明正著『芭蕉と山中温泉』を参照させていただきました。)

石川県ブログランキングへ



松尾芭蕉と山中温泉・道明(どうめい)が淵

2013年10月18日 | 日記

隊員NO.4まこで~す

加賀市観光ボランティア大学第13回講座 『奥の細道』-芭蕉と山中温泉-」で、

講師の西島明正先生から教えていただいたことをもとにレポートをつづけます。

松尾芭蕉山中温泉に滞在して3日目・1689(元禄2)年7月29日(新暦9月12日)の

ことです。芭蕉は、宿泊先の泉屋の当主・久米之助に、自分の俳号である「桃青」の

桃の一字を与えて桃妖(とうよう)」と名付けました。当時久米之助はまだ14歳でした

が、芭蕉はこの若き久米之助に、俳人としての大いなる可能性を見い出したのです。

そして、芭蕉は鶴仙渓の中でももっとも美しい場所の一つとされる

道明(どうめい)が淵において、次の句を詠みました。

   加賀山中桃妖に名をつけ給ひて

 桃の木の其葉ちらすな秋の風  芭蕉 『泊船集』

(今日から俳諧の道を歩もうとする若々しい桃妖よ、どうかそのすばらしい才能を

伸ばして大成してくれよ。)

芭蕉がこの句を詠んだ道明が淵には、昔から不思議な龍の伝説があります。

道明が淵の龍伝説

『ある長雨がおさまった日、一人の娘さんが、音を立て渦をまく濁流を見ていると、

巨大な龍が爪を逆立てながら現れ、娘さんを飲み込もうとしました。

そこに、一人の若者が立ちはだかり、龍の背中にまたがって、黄金の太刀で、

一瞬にして急所をつき、龍をおとなしくしてくれました。

命を救われた娘さんは、若者に「名前をお教えください」と尋ねました。

でも若者は「道明」とだけ名乗り、姿を消してしまいました。

娘さんは若者にどうかもう一度会いたいと毎日医王寺に行って、薬師如来に念じました。

すると道明の姿がかすかに現れました。娘が「あなたはどなた様ですか?」と聞くと、

「わたしは龍頭観音。龍とともに天に昇ります。わたしに会いたければ、薬師如来を

拝みなさい」と告げて姿を消しました。道明は龍頭観音だったのです。

村人たちはいつしかこの淵を「道明が淵」とよぶようになりました。』

現在道明が淵の上には「あやとりはし」という勅使河原宏氏デザインのとても

モダンな橋でかかっていて、橋の上から道明が淵を見下ろすことができます。そして

あやとりはし」から大聖寺川の上流の方をながめると、その川の流れが、まるで

龍が天に舞い昇っているかのようにみえるのです。また高さ30メートルもあり、

くねくねS字型に曲がりくねったあやとりはし」の上を歩くと、少し揺れて、まるで

龍の背中に乗ったような気分を味わえます。

いよいよ紅葉の季節が近づいてきました。みなさん、山中温泉においでの際は、

この龍伝説を思い出しながら、「あやとりはし」の上から、芭蕉さんも愛でたと

いう道明が淵の美しい景色をご鑑賞下さい!!

石川県ブログランキングへ


「やまなかや 菊はたおらじ ゆのにほひ」

2013年10月17日 | 日記

隊員NO.6れいなで~す

加賀市観光ボランティア大学第13回講座 『奥の細道』-芭蕉と山中温泉-」で、

講師の西島明正先生から教えていただいたことをご紹介します。

 

松尾芭蕉山中温泉に到着したのは、1689(元禄2)年7月27日(新暦9月11日)

16時30分頃のことです。当時の山中温泉には、湯ざや(共浴場)の周りに42軒もの

宿舎がありました。芭蕉はその中でも湯ざやのすぐ近くにある湯本十二軒の一つ泉屋に

逗留しました。湯本とは、山中温泉草創から宿舎を営む旧家のことです。泉屋は、

現在の北國銀行山中支店の所にありました。今、そこには「芭蕉逗留泉屋の跡」の

石碑があります。

翌7月28日、芭蕉は、朝からゆっくりと湯につかって疲れを癒したのでしょう。

山中のお湯は昔から、「熱くもなく、ぬるくもない、やわらかでやさしいお湯だ」と

いわれています。すっかり長旅の疲れを癒した芭蕉は、夕方薬師堂(医王寺)や町辺を

歩いています。芭蕉はきっとにぎやかな山中温泉の町中を歩き、医王寺下の楊弓場

(ようきゅうじょう)山中漆器の木地挽き物を見物したことでしょうね。

この日、芭蕉は泉屋当主の久米之助に温泉頌(しょう)の懐紙を書き与え、山中温泉

すばらしさを讃えました。

温泉頌山中の句            石川県立美術館蔵

北海の磯づたひして、加州やまなかの湧湯に浴す。里人の曰(いわく)、

このところは扶桑三の名湯の、其一なりと。まことに浴することしばしばなれば、

皮肉うるほひ、筋骨に通りて、心神ゆるく、偏(ひとえ)に顔色をとどむるここちす。

彼桃源も舟をうしない、慈童が菊の枝折もしらず。

  やまなかや 菊はたおらじ ゆのにほひ   はせを

(日本海の磯づたいに旅して、今やっと山中の湯に浴している。地元の人が言うには、

山中の湯は、日本三名湯の一つであると。なるほど何度も浴していると、体の皮肉が

うるおい、筋骨まで湯がしみわたって、心はゆったりとくつろぎ、顔の色もつやを保つ

心地がする。極楽のような所であるから、わざわざ桃源郷へ行くための船を仕立てる

までもなく、またこの湯に入っていると寿命も延びるようで、中国の故事にある菊慈童は、

菊を手折ってその花の露を飲んで、長寿延命を保ったというが、その必要もない。)

どうでしょう。松尾芭蕉は、とっても気に入り、まるでここは桃源郷(理想郷)だとして、

山中の湯を最大限の賛辞でたたえたのです。喜びに満ちた芭蕉さんの顔が目に浮かぶ

ようですね!

(ブログ作成にあたっては、西島明正著『芭蕉と山中温泉』を参照させていただきました)

石川県ブログランキングへ