隊員NO.2りかで~す(^_^)v/
昨日は天気が良くて、白山の眺めが最高でしたね!実高から見る白山がとっても
きれいでしたよ。
↑大聖寺から見た白山(2012年11月16日)
さて、加賀市観光ボランティア大学第15回講座で、伊林永幸先生に習ったことを
ご紹介しています。
今日は大聖寺の人々が今でもこよなく愛している元大聖寺城主のお話しです。
その人の名は、山口玄蕃宗永(げんばむねなが、1545~1600年)です。
大聖寺には、「げんば通り」、「げんば堂」、「玄蕃供養祭」など山口玄蕃ゆかりのものが
たくさんあります。関ヶ原の戦いの前哨戦といわれる「大聖寺城のたたかい」で非業の
最期を遂げた山口玄蕃に対する大聖寺町民の親しみがよくわかります。
山口玄蕃は豊臣秀吉に才を認められ、一時小早川家の筆頭家老として小早川秀秋
(秀吉のおい秀俊)に仕えていました。そして秀秋の越前・加賀南部(江沼・能美)への
転封にともない、大聖寺にやってきたのでした。その後小早川秀秋は旧領に帰りますが、
山口玄蕃は秀吉の直臣に戻り、1598(慶長3)年4月、大聖寺領主として江沼郡7万石
を支配することになったのです。
その年の9月18日、豊臣秀吉が亡くなりました。日本は石田三成方(西軍)と徳川家康方
(東軍)へと分かれ、天下分け目の決戦となる関ヶ原の戦い(西暦1600年10月21日)へ
となだれこみます。
山口玄蕃は豊臣家への恩義から三成につきます。一方、金沢の前田利長は家康につく
ことになりました。いよいよ関ヶ原の戦いがはじまる直前です。1600年7月26日に
前田利長は約2万の大軍を率いて金沢城を出ます。当初、玄蕃と同じ西軍の丹羽長重がいる
小松城を攻撃するかに見えましたが、利長は戦上手で知られる丹羽長重を避けて、
8月1日に加賀の松山城に入城します。玄蕃は知らせを聞いて大聖寺城の防備を固め、
小松城の丹羽長重や近隣の西軍方の仲間に救援依頼の使者を派遣しましたが、
間に合いませんでした。翌2日、利長は使者を送って玄蕃に降伏を勧告しました。
しかし彼は利長の攻撃に憤激して勧告を拒否したのでした。その後和睦を図る動きも
あったのですが、ついに「大聖寺城の戦い」がはじまります。
大聖寺城に立てこもる山口玄蕃勢はわずか500余人。それに対して前田利長勢は
何十倍もの大軍です。前田勢は後続の軍勢もぞくぞく参戦して、2昼夜にわたり、城の
外周で激戦が展開されました。山口玄蕃の長男修弘は果敢に出撃して、前田勢に
被害を与えましたが、前田勢の鉄砲隊の一斉射撃を受けて、やむなく城内に退却します。
前田勢の猛攻撃に対し、玄蕃父子が率いる軍勢もひるまず反撃しますが、
数の差はいかんともしがたく、ついに玄蕃は塀の上から降伏の意思を伝えました。
しかし、800人もの戦死者が出た前田勢は復讐に燃え、これを許さず、城内に突入します。
8月3日の夕方、大聖寺城は陥落、山口玄蕃・修弘父子は福田橋のたもとで自害を
果たしていきます。
山口玄蕃宗永と長男修弘の墓は大聖寺の全昌寺にあります。また次男の弘定は父の
遺志を継いで大坂城に入城し、大坂の役で戦うことになったのでした。