実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

日本一のオオサンショウウオ(荒谷町)

2013年07月31日 | 日記

隊員NO.4まこで~す(^_^)v

レポートが遅くなりましたが、わたしたちは7月16日(火)の課題研究の時間に

重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)・山中温泉加賀ひがしたに地区・荒谷町の

石川県内水面水産センターを訪問し、日本一のオオサンショウウオを見学させて

いただきました。同センターのオオサンショウウオはこれまでは日本で二番目

でしたが、5月24日に国内最大だった城崎マリンワールド(兵庫県豊岡市)の個体が

亡くなったため、日本一になったのです。

昨年7月29日の測定では、全長136.0cm、体重18.86kg。年齢は不詳、

オス・メスの判別も不明で、すごくミステリアスな生物です。夜行性で目は全く見えない

そうですよ。

今回わたしたちの講師をしていただいたのは、同センター職員の海田潤さんでした。

わたしたちがご挨拶すると、海田さんは、早速手にアミを持って、「カエルを探しましょう!」と

おっしゃいました。何でもオオサンショウウオ大好物はカエルだそうで、それはそれは

迫力のある食べっぷりをするのだそうです。海田さんはわたしたちにオオサンショウウオ

食事の様子を是非見せたいと一生懸命にカエルを探して下さいましたが、適当なカエルは

見つかりませんでした。「ざんね~ん!」

オオサンショウウオは世界最大の両生類として有名で、1952(昭和27)年には国の

特別天然記念物に指定されました。加賀市のオオサンショウウオは、1973(昭和48)年に

大聖寺川鶴仙渓で保護され、センターずっと飼育されているそうです。

保護されたときは大暴れして、全身から粘液を出し、山椒(サンショウ)のような強烈なにおいを

出したそうですよ。それから40年、このオオサンショウウオは、センターの皆さんに愛されながら、

のんびりと生活してきたんですね。

一見グロテスクにみえますが、近くでよく見ると、かわいい手足でっかい口など、

とってもユーモラスで愛嬌がありました

オオサンショウウオさん、いつまでも長生きして下さいね!!

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まんが「敷地物狂(しきじものぐるい)」は楽しいですよ!

2013年07月30日 | 日記

隊員NO.3ゆかぴで~す(^_^)v

先日、能『敷地物狂(しきじものぐるい)』実行委員会の坂下和成さんから、

まんが「敷地物狂」というとてもかわいらしいプリントを分けていただきました。

これは、「敷地物狂」のお話を子どもたちにもわかりやすく説明するために、

加賀市在住のあべゆみこさんが作成された物だそうです。

子どもたちはもちろん、大人の方々も楽しく見ることができます。

10コマにまとめられたお話を掲載させていただきます。どうぞ、下の写真を順番に

クリックしながらマンガをお楽しみ下さい!!

まんが「敷地物狂」のはじまり、はじまり~!

①  ②  

③  ④  

⑤  

⑦  

⑨  

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能『敷地物狂』・580年の時空を超えて復活!

2013年07月29日 | 日記

隊員NO.7ゆっこで~す(^_^)v

実高ふれ愛隊が「菅生石部神社」のことを調べていることをお知りになり、

能『敷地物狂(しきじものぐるい)』実行委員会の坂下和成さんが、

わざわざわたしたちに資料を提供して下さいました。

坂下さん、ありがとうございました!

大聖寺という町は、大聖寺藩14代藩主・前田利鬯(としか)公が大変に長けていた

こともあって、今でもとても能楽の盛んなところです。小松が歌舞伎の町だとすれば、

大聖寺は能楽の町ということができます。そんな大聖寺の町で、今持ちきりの話題と

なっているのが、能『敷地物狂』の帰郷公演です。

『敷地物狂』は加賀国江沼郡菅生の菅生石部神社の境内(敷地)を舞台とするお話です。

創作者は、世阿弥(1364~1443年)の娘婿で猿楽師や能作者として有名な

金春禅竹(こんぱるぜんちく、1405~1470年頃)であるとされます。

物語は加賀国江沼郡出身で、946(天慶9)年に天台宗第15代座主になられた

延昌(えんしょう)というとってもえらいお坊さんをモチーフとして描かれています。

天台宗座主という位は、当時の日本においてそれはそれはすごい地位だったそうです。

加賀国江沼郡からこれほどすごいお坊さんが出ていたなんてビックリです。

能『敷地物狂』の主な内容は次の通りです。

主人公は菅生殿の子息松若です。松若は12歳の春、書き置きを残し、家を出ます。

そして比叡山に登り必死に勉強をして、とっても偉いお坊さんになりました。

偉くなった松若はお供を従えて、生まれ故郷の菅生へ帰りましたが家も家族もありません

地元の人びとに家族の消息を聞くと、松若が家を出た後、母親も松若を探しに家を出て

家族が散りぢりになったといいます。

松若は自分が家を出たのと同じ春、敷地の宮で行方知れずの家族をしのび、涙ながらに

説法をします。すると親子の情を説く松若のもとに一人のみすぼらしい姿をした老婆がやってきます。

松若の話にとても感動した老婆は、松若にお供え物として菰(こも)を差し出しました。

するとその菰から一通の書状がこぼれ落ちます。

実はその書状こそが、松若が家を飛び出すさい、家に残した書き置きだったのです。

そうです。その老婆は松若の母親だったのです。

松若と母親は奇跡の再会を果たしたのでした。

この『敷地物狂』は江戸時代に一度失われましたが、1997年に関西の観世流能楽師である

大槻文蔵師の手によって、復曲能として蘇りました。

そして能『敷地物狂』は今年の9月29日に菅生石部神社の境内で帰郷上演されます。

とっても楽しみですね!!

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菅生石部神社・珠姫さまが心から崇敬されていました!!

2013年07月28日 | 日記

隊員NO.2ゆきちで~す(^_^)v

現在、加賀市美術館で「加賀國二之宮菅生石部神社の文化財展」が開催されています。

この文化財展には大聖寺藩初代藩主・前田利治公の母・珠姫さま菅生石部神社

奉納された多数の品々が展示されています。

珠姫さまといえば、前田利家の死後すぐに起きた「慶長の危機」(1599年に徳川家康の

謀略により、加賀征伐が行われるおそれが出た出来事)のおり、芳春院(利家の妻まつ)が

人質として徳川家康に差し出されたのと引き換えに、加賀藩3代藩主になる前田利常と

政略結婚することになった女性(徳川秀忠の娘、後の天徳院)です。彼女は2代将軍になる

徳川秀忠の妻お江の生んだ子供ですから、絶世の美女といわれた織田信長の妹

お市の方のお孫さんになります。珠姫さまもさぞお美しい方だったのでしょうね。

珠姫さまは1601(慶長6)年わずか3歳のとき金沢へお輿入れされました。

お輿入れの際、江戸から金沢までの東海道や橋が整備され、一里ごとに茶屋がつくられた

そうです。また幼い珠姫が飽きないよう狂言師や諸芸人もつき従いました。前田家は、

藩主の利長がわざわざ手取川まで珠姫一行を迎えに行ったそうですよ。

珠姫さまのお輿入れには、絢爛豪華な婚礼調度が用意されたといいますが、実は

その婚礼調度の一切合切が珠姫さまによって菅生石部神社に寄進されているのです。

何でも珠姫さまは、安産祈願の御利益があった菅生石部神社を心から崇拝され、

自らも何度か菅生石部神社に足を運ばれているだろうと考えられています。

ですから、今回の文化財展で展示されている婚礼調度は前田家と徳川家の融和を図る

歴史的にもとっても貴重なものなんです。

↑「黒塗葵紋散し蒔絵雛道具」と「葵紋双鶴図鏡」

桃山時代の大変素晴らしい品物で、「つのだらい」の金具・「耳だらい」の彫金細工・

鏡台の足の部分などはとっても精緻な造りになっています。

↑「眉箒・鶴に松梅図眉箒と「雛人形用稲妻模様着物」

この眉箒(まゆはき)を使って、毎日愛する夫・利常公のためにまゆのお手入れをしていたの

でしょうか?これ以外にも、武家の婚礼の慣しとして必ず調度品とされた貝桶を包んだ

「葵紋に雲龍模様布」なども見物です。貝桶には、360個の貝があり、片貝180片ずつ入り、

左右の片貝がきちんと合う、別の片貝には決して合わないことから一度嫁したら貴方しか

合わないという意味を込めて贈られていたようです。

3歳でお輿入れされた珠姫さまは14歳で結婚、その後10年間に3男5女を立派に出産されました。

夫・利常とは政略結婚であったにもかかわらずとっても仲の良い夫婦だったといいます。

珠姫さまは利常公の妻として、また将軍秀忠公の娘として前田、徳川両家の融和のために心を尽く

され、1622(元和8)年春、8番目のお子様を出産後亡くなられました。わずか24歳の若さでした。

戦国時代という荒波に翻弄された女性・珠姫さまの心の拠り所が、大聖寺の菅生石部神社だった

なんて、何かすごいですね。

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菅生石部神社の文化財展(作見町・加賀市美術館)

2013年07月27日 | 日記

隊員NO.6れいなで~す(^^)

先日顧問の先生が、わたしたちが今回調べている菅生石部神社の歴史資料の

取材のため、加賀温泉駅前にある加賀市美術館を訪問されました。そして

7月21日から開催されている「加賀國二之宮菅生石部神社の文化財展」を見学して

おいでました。この展示会は、近年復曲を果たした幻の謡曲『敷地物狂』が580年ぶりに

里帰り公演されるのに合わせて開催されています。今回の展示会では菅生石部神社

伝えられている代表的な文化財がたくさん公開されています。

先生が、加賀市美術館学芸員の洞口寛さんから解説をお聞きするとともに、

特別に写真撮影の許可をいただいて、多くの写真を撮って下さいましたので、ご紹介します。

まずは、加賀市指定文化財「足利義持禄書(ろくしょ)」(1413年)です。これは加賀市内に

残る唯一の中世文書として貴重な物で、現在の柴山町周辺の土地が、菅生石部神社

寄進されたことが記されているそうです。

次は「白紋繻子地(じゅすじ)水仙唐花丸紋模様縫小袖(ぬいこそで)」です。

やはり加賀市指定文化財で、大聖寺藩5代藩主利道の娘で、加賀藩11代藩主前田治脩

の正室となった法梁院(1764~1810年)が寄進された物です。

そして京都の四条派画師・吉田公均(こうきん)作の「田園四季農耕図絵馬」(1846年)。

この絵の裏側には、この絵を神社に寄進した当時の十村4人や頭肝煎の名前が書かれていて、

この地における農村の支配構造を知る上でもとっても貴重です。

その他にも、徳川家から加賀藩に輿入れした珠姫(天徳院)が菅生石部神社に寄進した

数々の品物や三十六歌仙額、能面も多く展示されていて、とても楽しく鑑賞できる

展示会になっているそうですよ。この土・日に見学をされてはどうですか?

加賀國二之宮菅生石部神社の文化財展」は8月26日(月)まで開催されています。

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「蝶の舞」を見てきましたよ!!(菅生石部神社・天神講)

2013年07月26日 | 日記

隊員NO.1いぶで~す(^_^)v

わたしは7月25日(木)の午後、隊員NO.2ゆきち、NO.3ゆかぴと3人で、

菅生石部神社へ行って、「蝶の舞」を見てきましたよ!!

とってもきれいな衣装を着た男の子たちが優雅な舞を披露してくれました。

蝶の舞」には3種類ありました。それは「扇の舞」「鈴の舞」「蝶の舞」の3つです。

←扇の舞

←鈴の舞

←蝶の舞

ゆったりとした動きの中にも変化があって、男の子たちが一生懸命頑張ってました。

わたしたちは、神社の神門を入ったところに置かれた茅の輪をくぐりました。

「左→右→左」の順に茅の輪をくぐることにより、自身をお祓いし、元の浄い体に戻れる

のです。そして、ゆかぴは3人を代表して「人形(ひとがた)」にチャレンジしました。

人形」に名前と年齢を書き、「人形」に息を吹きかけます。そして「人形」で全身をなで、

人形」を袋に入れてお納めしました。これできっと、この半年間にゆかぴの体についた

罪・穢れが取り除かれたことでしょう。今日の「湯の花神事」でゆかぴの「人形」は

お祓いをしていただきます。ニューゆかぴの誕生で~す!!

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菅生石部神社には全国の斎藤さんの氏神様がいるんです!

2013年07月25日 | 日記

隊員NO.4まこで~す(^^)

7月20日(土)の加賀市観光ボランティア大学第8回講座

「城下町発見!大聖寺ブラブラさんぽ」で、大聖寺敷地町にある菅生石部神社

見学させていただきました。わたしたちに、菅生石部神社のことについて、

いろいろと教えて下さったのは、権禰宜(ごんねぎ)を勤めておいでる野根さんです。

野根さん、たくさんお話をしていただき、本当にありがとうございました。

菅生石部神社はとっても由緒正しい神社です。神社のいい伝えによると、神社の歴史は、

1400年以上にもなります。敏達天皇の頃、加賀地方で流行していた疫病をしずめるために、

用明天皇の即位の年(585年)にあわせ、宮中でおまつりしていた神々をこの地にお遷し

したのがはじまりです。その後越前国の三ノ宮に、さらに823年6月加賀国ができた後は

加賀国二ノ宮に列せられました。そして室町時代までは年に2度の天皇の使いがやってきて

神宝が捧げられるほど朝廷の崇敬もあつかったといいます。

くわえて中世、菅生石部神社があった場所を福田の庄といい、京都北野天満宮の所領と

なったこともあって、この地は天神信仰の中心になりました

そして菅生石部神社はここ加賀国の人々だけでなく、お隣越前国の人々からも

崇拝を集めていったのです。

そんな越前国に、鎮守府将軍という役職をつとめた藤原利仁(としひと)という有名な武人が

おりました。そしてその子・叙用(のぶもち)という方は武人としては異例の起用で、

伊勢神宮祭祀の象徴的存在である「斎宮頭(さいぐうのかみ)」という役職に任ぜられました。

「斎宮頭」は、数百人規模の斎宮寮という役所の長官で、皇室にとってもきわめて重要な

役職でした。普通は公卿しかつけない役職に就いたので、叙用はこの役職を誉れと

考えたのでしょう。宮の原」略して「斎藤」と名乗ることにしたのです。そして藤原叙用は

菅生石部神社の天神様を篤く崇敬し、一族の氏神としました。その後斎藤氏は美濃国の

目代に任ぜられ、今の岐阜県に居を構えたときに、菅生石部神社の神様のお御霊分けをし、

新たに菅生天神を作ったのだそうです。そして斎藤氏の氏神をまつる菅生天神が美濃国に

17社もできたそうです。ですから、この藤原叙用という人こそが、現在では全国に約57万人

いるとされる全国の斎藤さんのご先祖様にあたるのです。そしてここ大聖寺の菅生石部神社

こそが全国の斎藤さんの氏神様になるんですよ。みなさん、ご存じでしたか?

全国の斎藤さ~ん、一度菅生石部神社を訪問されませんか?

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菅生石部神社・いよいよ今日から「天神講」です!

2013年07月24日 | 日記

隊員NO.5いくので~す(^_^)v

わたしは7月20日(土)の加賀市観光ボランティア大学第8回講座

「城下町発見!大聖寺ブラブラさんぽ」で、隊員NO.4まこと2人で

大聖寺敷地町の菅生石部神社を見学させていただきました。

菅生石部神社は大聖寺だけでなく、南加賀地域の歴史や文化を考える上で、

とっても大切な神社です。「菅生石部神社を見ずして、大聖寺を語る事なかれ!」

というくらい貴重な史料や無形文化がたくさんあることを知り、ビックリしました。

さて、今日から3日間にわたって、大聖寺の皆さんがとっても楽しみにしている

天神講」が始まり、3つの神事が執り行われます。

・「茅の輪神事」(24日10時)・・・真菰(まこも)でつくられた大きな輪(茅の輪)を

左→右→左とくぐり、罪、穢れを祓いおとします。

・「疫神塚神事」(25日10時)・・・真菰(まこも)でつくった籠のような塚に罪、穢れ、

災難や厄などを封じ込めます。

・「湯の花神事」(26日10時)・・・釜に湯を沸かしその湯をもって清めることで本来の

姿へともどします。この3日間に、人の形をした紙に自らの罪、穢れ、災難や厄などを

込めて納めていただきお祓いします。

3日間にわたってこのような特殊な神事を行う例は全国的に見ても大変珍しいそうです。

この「天神講」は、創祀以来1400年余りも続く、とっても歴史あるもので、江戸時代には

大聖寺藩の藩祭として、藩主をはじめ藩内全住民がお参りしたといわれます。

そして見学に訪れられる皆さんの、最大のお目当ては「蝶の舞」と呼ばれる

かわいい男の子たちの稚児舞です。蝶の舞」には「扇の舞」・「鈴の舞」・「蝶の舞」の3つが

あって、 加賀地方では、ここ菅生石部神社だけで見られる貴重な舞です。

今年は、この蝶の舞」が24日17時、25日16時、26日17時の3回行われるそうです。

まだ一度もご覧になっておいでない方は必見ですよ。わたしたち実高ふれ愛隊も明日

いぶとゆきちが見学させていただく予定です。ちょっとしたら、皆さんと菅生石部神社

お会いできるかもしれません。2人に声をかけてくださいね!

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魯山人寓居跡いろは草庵(山代温泉)

2013年07月23日 | 日記

隊員NO.5いくので~す(^_^)v

 

いぶ・ゆきち・ゆかぴの3人が加賀市観光ボランティア大学第7回講座

魯山人の愛した山代温泉」で北大路魯山人について勉強しました。

そして次の週・7月16日(火)の課題研究の時間に、今度は実高ふれ愛隊

7人全員で、山代温泉の「魯山人寓居跡いろは草庵」を訪問させて

いただきました。とても急な訪問だったにもかかわらず、加賀市総合サービス職員の

寺山薫さんから、わたしたちは「いろは草庵」や魯山人のことを教えていただきました。

外はとっても暑かったのに、建物の中はひんやりとして快適でした。

天井は思いのほか低く感じました。当時の日本人の身長が今よりも

低かったからでしょうか。そして欄間(らんま)がとても立派でした。

魯山人が制作していたスペースには、篆刻看板を彫る机が再現されていました。

展示室で魯山人の数々の作品を鑑賞した後、とっても素敵な中庭を観ながら、

「加賀棒茶」と金箔が入ったこんぺいとう・「金(きん)平糖」のサービスをいただきました。

お茶はひんやり冷たく、お菓子は甘くて、きれいなお庭をながめながら、幸せな

一時でした。その中庭は春にはスイセン・キショウブが、秋にはキンモクセイ・、もみじが

美しいそうです。わたしたちが使わせていただいたお茶碗は4代目須田青華さん作

のものとあって、すごくぜいたくに感じました。庭から見える土蔵の壁に貼られた板は、

火事に備えていつでも取り外しできるよう工夫されているそうですよ。

帰り際には2階の書斎も見学しました。なにか大正時代にタイムスリップしたかの

ようでした。今日もとってもいい勉強ができたなぁ!

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北大路魯山人・ひたすら美を追究した芸術家

2013年07月22日 | 日記

隊員NO.3ゆかぴで~す(^_^)v

 

わたしは7月11日(木)の加賀市観光ボランティア大学第7回講座

魯山人の愛した山代温泉」で講師の加藤大二さんから、北大路魯山人

山代温泉について教えていただきました。

北大路魯山人は篆刻(てんこく)家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家など

いろんな顔を持っていました。「観ること、味わうこと、書くこと、彫ること、焼くこと」

すべてにおいて、とことんまで美を追究することにこだわり続けた芸術家だったのです。

魯山人の作品を愛好するファンは今でも全国に多くいます。

魯山人のとっくりとぐいのみで一杯やりたい!」なんて方も多いそうですよ。

また魯山人は「無駄を出すのがキラい」だったそうで、焼き物では一度失敗した作品に

もう一度銀や金を塗って焼き直したそうです。ですから、魯山人の作品は全国各地に

約20万点近くもあって、それが展覧会のたびに「今度は何が出てくるのかなぁ」と

ファンの好奇心をくすぐる魅力もあるそうです。最近、4mもある桜や、2mの富士山を

描いた漆絵がポルトガルで新たに発見されて、とっても話題になったそうですよ。

魯山人の芸術作品に対する評価は高く、吉野屋の篆刻看板はTV『何でも鑑定団』で、

600万円の評価を受けています。

魯山人にはれっきとした師匠はいませんでした。生後6日目に里子に出されてから、

彼独自の美意識を追い求める旅が始まったのです。また師匠がいなかったことで、

彼の個性は縛られず、その才能が花開いたのかもしれません。

また彼は生涯弟子を持たずの人で、一途に自らの創作活動に力を注いだといいます。

北大路魯山人は、冬になると何度も山代温泉を訪れたそうです。今の加賀市には

北大路魯山人のお宝がたくさんあるのかもしれませんね!

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北大路魯山人・「山代の別荘はどんな様子かね」

2013年07月21日 | 日記

隊員NO.3ゆかぴで~す(^_^)v

 

わたしは7月11日(木)の加賀市観光ボランティア大学第7回講座

魯山人の愛した山代温泉」で講師の加藤大二さんから、山代温泉

北大路魯山人の関係について教えていただきました。加藤さん、

本当にありがとうございました。

北大路魯山人は76年の生涯に5回結婚して5回離婚しました。

また10人の友達のうち、9人とケンカ別れしたというほど、気性の激しい方でした。

偏屈者で、しかも毒舌。かれは72才の時、織部焼の伝統継承者として「人間国宝」に

推薦されたときも、「本当の芸術が分からんもんに推薦されたくない」と言って、

それを拒否するくらいへそ曲がりだったといいます。しかし、1915(大正4)年10月から

翌年の蕨(わらび)のでる頃までの7ヵ月間滞在した山代温泉人びととは生涯にわたって、

親交を温めあいました。

「山代の別荘はどんな様子かね」

それくらい山代北大路魯山人にとって大切な場所であり、

学びのふるさとだったのでした。魯山人は心底山代温泉を愛していたのでしょうね。

かれがまだ無名で、福田大観と名乗っていた頃、長浜・木ノ本・京都・鯖江・金沢を

食客として渡り歩いていたそうです。そんな時、金沢の文人・細野燕台の紹介で、

山代初代須田青華や吉野治郎と出会い、山代温泉の旅館の看板を彫ることになったのです。

当時の山代温泉では、旅館の仕事は女将に任せられており、旦那衆はもっぱら

お茶や書・焼物などを楽しむ文化生活を送っていたといいます。

そのような中で、当時の吉野屋旅館の主人・吉野治郎は、旅館の後ろに別荘を建て、

そこは山代の文化サロンとなっていました(現在の魯山人寓居跡いろは草庵)。

そして吉野治郎はその別荘を福田大観に提供し、面倒を見るうちに、北大路魯山人

才能を見抜いたのです。

「この男ただ者ではない!」

北大路魯山人は、その後、陶芸や書、絵画などで才能を開花させ、同時に、美食家としても

名をはせます。北大路魯山人の原点はまさに山代温泉にあったのかもしれません。 

北大路魯山人山代で彫った看板は、現在山代に7枚残っているそうです。

そしてその中の一枚が九谷焼窯元「須田青華」の玄関先に今も掲げられています。

みなさん、山代温泉にお越しの際は、一度ご覧下さいね!

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がんばれ!寺口先生・高校野球日本代表アシスタントコーチ

2013年07月20日 | 日記

隊員NO.4まこで~す(^_^)v

昨日7月19日、1学期の終業式がありました。わたしたち実高ふれ愛隊」も

今日から夏休みです。でも休み中も一生懸命活動しますので、応援お願いしま~す!

さて、終業式の前に、わたしたち実高生にとって、とってもうれしいビックニュースが

発表されました。

大聖寺実業高校野球部監督の寺口結(ゆい)先生(26歳)が、このたび何と

「国際野球U18ワールドカップ」日本代表のアシスタントコーチに選出されたのです

寺口先生は今年4月から本校野球部の監督になられました。金沢桜丘高・筑波大のOB

で、石川県きっての若手指導者だそうです。

大阪桐蔭高・西谷監督の下、この夏甲子園で行われる全国高校野球大会の優秀選手

たちで結成されるオールジャパンのアシスタントコーチとして、来る8月30日から台湾で

行われる国際大会に遠征されるのです。

そこで生徒会や野球部を中心に、終業式の前に急きょ「がんばれ!寺口先生」の壮行式が

行われることになりました。

まずは、野球部主将中谷一世くんが、「僕たちの監督が日本代表として活躍されると聞き、

とてもうれしいです。寺口先生は、僕たちの誇りです。先生、日本代表として必ず優勝して

きて下さい!」と元気な激励の言葉を述べました。

それに続いて、野球部3年生女子マネージャー2人から花束を贈呈しました。

そして、野球部員を応援リーダーに、全校生徒で先生に大きな声でエールを送りました。

「がんばれ、がんばれ寺口!!」

エールの後、寺口先生は全校生徒を前に決意表明をされました。

「先日は野球の応援ありがとうございました。5回に大量失点したにもかかわらず、

みなさんの最後まであきらめない応援をベンチで聞いて、胸がジーンときました。

そして今日はこのように素晴らしい壮行会を開いていただき感謝の気持ちでいっぱいです

私は、実高の野球部員と同じように、高校時代から野球に打ち込んできました。

いま指導者になって、改めて大切だと感じていることがあります。それは『素直に人の話に

耳を傾けられる心』です。なかなか難しいことです。私も高校生の頃はその心を持てずに

いたようにも思います。でも、その心を持つことは、実高野球部員だけでなく、

実高生のみんなにとっても、きっとプラスになります。

わたしは、今回このような素晴らしい機会をいただき、みなさんに感謝しています。

日頃、実高生のみなさんから学んだことをもとに、自信を持って頑張ってきます。

そして日本代表の一員として、いろんなことをいろんな方から聞いて、実高に持ち帰りたいと

思います。残念ながら、今年の聖実祭(9月4・5日)は不在でみんなの勇姿を見ることが

できませんが、頑張って下さい。今日は本当にありがとうございました。」

寺口先生は、8月24日から国内合宿に参加し、9月8日の決勝戦にむけて活動されます。

「がんばれ、寺口先生!がんばれ、日本代表チーム!!」

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名物ガイド・加藤さんが語る「北大路魯山人」(山代温泉)

2013年07月19日 | 日記

隊員NO.3ゆかぴで~す(^_^)v

 

わたしは7月11日(木)の加賀市観光ボランティア大学第7回講座

魯山人の愛した山代温泉」に隊員NO.1いぶ・NO.2ゆきちと3人で

参加させていただきました。今回の講師は、山代温泉ガイド「ヤタガラス」の

加藤大二さんでした。加藤さんは、全国から「魯山人寓居跡いろは草庵」を

訪問される観光客の皆さんに、北大路魯山人について語られている名物ガイド

として有名な方です。そしてわたしたちが5月に行った「山代温泉ガイド体験」の

時にもお世話いただきました。加藤さん、いつもありがとうございます。

今回私たちは、古総湯の前にある「はづちを楽堂」で、加藤さんのお話を伺いました。

加藤さんは加賀市観光ボランティア大学の3期生だそうです。ずっと観光業にかかわり、

定年を迎えるにあたって、「加賀市のため、山代温泉のために活動をしたい」との思いから、

大学に入りました。そして卒業後、山代温泉ガイド「ヤタガラス」に入会されたそうです。

「ヤタガラス」での活動をはじめ、図書館などで北大路魯山人のことをたくさん勉強されました。

そしていろは草庵」の館長さんに「ボランティアでガイドさせてください」と申し出て以降

北大路魯山人について解説されているそうです。

加藤さんはまず何も見ないで、いつもいろは草庵」で話されている解説を10分程度で流暢に

お話しされました。お話を聞いていると、北大路魯山人山代温泉にいた頃の様子が

見えてくるようでした。

講義の後、駐車場まで山代温泉の街を歩きました。薬王院温泉寺や灯籠にはめられた絵が

とってもキレイでした。

このあとのブログで、加藤さんから教えていただいた北大路魯山人のことについて

お伝えしたいと思います。よろしくお願いします!!

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深田久弥『日本百名山』

2013年07月18日 | 日記

隊員NO.2ゆきちで~す(^^)/

課題研究の時間に、深田久弥山の文化館」を訪問し、大聖寺中町出身の

深田久弥のことについて中嶋肇さんから教えていただきました。

深田久弥日本百名山』(新潮社刊)で、白山についてつぎのように述べています。

「日本人は大ていふるさとの山を持っている。山の大小遠近はあっても、ふるさとの

守護神のような山を持っている。そしてその山を眺めながら育ち、成人してふるさとを

離れても、その山の姿は心に残っている。どんなに世相が変っても、その山だけは

昔のままで、あたたかく帰郷の人を迎えてくれる。

私のふるさとの山は白山(はくさん)であった。

←大聖寺から見た白山(昨年11月撮影)

白山は生家の2階からも、小学校の門からも、鮒釣(ふなつ)りの川辺からも、

泳ぎに行く海岸の砂丘からも、つまり私の故郷の町のどこからでも見えた。

真正面に気高く美しく見えた。それは名の通り一年の半分は白い山であった。・・・

・・・その加賀平野でも、私のふるさとの町から眺めるのが最上であることを、

私は自信をもって誇ることができる。主峰の御前(ごぜん)と大汝(おおなんじ)を

均衡のとれた形で眺め得るのみでなく、白山の持つ高さと拡がりを、最も確かに、

最も明らかに認め得るのは、私の町の附近からであった。・・・

・・・夕方、日本海に沈む太陽の余映を受けて、白山が薔薇色(ばらいろ)に染まる

ひと時は、美しいものの究極であった。みるみるうちに薄鼠に暮れて行くまでの、

暫(しばら)くの間の微妙な色彩の推移は、この世のものとは思われなかった。」

深田久弥は、日本百名山を選定するにあたって、「選定は神のごとく公平ではないが、

少年時代以来50年に近い登山歴が自信を持たせてくれた」といい、3つの基準を

おいたそうです。それは、(1)山の品格、(2)山の歴史、(3)個性の三つでした。

1964年に『日本百名山』が刊行されると、高い評価をえて、翌年、読売文学賞

評論・伝記の部を受賞しました。 選考委員の一人で深田久弥の山仲間でもあった

小林秀雄は同書を「山を対象にした批評文学である」「著者は、人に人格があるように、

山には山格があるといっている。 山格について一応自信ある批評的言辞をえるのに、

著者は五十年の経験を要した。文章の秀逸は、そこからきている。」と評しました。

深田久弥が『日本百名山』をめぐった時代は登山口に達するまでにもとっても大きな

苦労があったことでしょう。まだ車社会ではなく、交通手段として汽車を使っての移動、

駅から登山口に行くにも長い長い山道を歩き、いくつもの山々を乗り越え、やっとたどり

ついたことでしょう。

そして百名山を選ぶには、その何倍もの山を登っていたのでしょうね。

1994(平成6)年にNHK衛星放送で、「日本百名山」が放送されて以来、百名山ブームが

巻き起こり、中高年の登山がとっても増えたそうです。

山を愛する皆さん、「深田久弥山の文化館」を訪問すると、これまで以上に山歩きが

楽しくなるはずです。是非ともご来館下さい!!

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深田久弥山の文化館・「雪嶺に向ひて町を行きつくす」

2013年07月17日 | 日記

隊員NO.1いぶで~す(^^)/

課題研究の時間に、深田久弥山の文化館」を訪問し、中嶋肇さんから

施設についてご案内いただきました。

田久弥山の文化館」の建物は、築100年を超えるとっても立派なものでした。

もともとは1910(明治43)年に「山長」という絹織物会社の社屋としてつくられたものです。

「山長」はその当時、宮内庁に品物を献上するほどの大きな絹織物会社でした。

「大聖寺の町は昭和40年代まで織物がとっても盛んな町で、町中から

カッタン、コットンと、機織(はたおり)の音が響き渡っていたものだよ。」と先生が、

おっしゃっていました。

建物の周りには巨大な木々もいっぱい茂っています。タブノキは樹齢750年、

スダジイは700年、イチョウは600年と推定されるそうです。「山長の先代社長は、

”木の枝を切らない”主義でした。だから、こんな街中にもかかわらず、巨木が

残ったのでしょうね。」と中嶋さんは教えてくださいました。

「山の文化館」の入り口を入ってすぐ右手には立派な句碑が二つ立っています。

「雪嶺に向ひて町を行きつくす 九山」

「白山を吊(つ)り上ぐるかや寒の月 宏」

大聖寺の街並みは、街を歩く者がしっかりと白山を仰ぐことができるように作られています。

「九山」は深田久弥の俳号です。久弥は大聖寺から見る白山のすばらしさを歌にしたのでしょうね。

そして真冬の2月、白山の上に満月の月が上がると、白山が真夜中にもかかわらず、

くっきりと映し出される日があるそうです。深田久弥山の文化館」館長の作家・高田宏氏が

このような情景を歌にされたのです。この2つの句碑は、加賀白山ロータリークラブ創立15周年を

機に建立されたもので、高さ約一・三メートル、横幅約一メートル、厚さ約三十~四十センチの

自然石でできていて、とってもきれいでした。

そして、句の題字を実高の書道の先生・渡邊美和子先生がされていたのでビックリしました。

みなさん、「白山」が日本で一番美しく見える町・大聖寺で、「読み、歩き、書いた

深田久弥の心を堪能してください!!

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