実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

城下町大聖寺の基礎をきずいた溝口秀勝

2012年11月16日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^_^)v/

加賀市観光ボランティア大学第15回講座大聖寺いいとこ つかみどり」で、

伊林永幸先生から教えていただいたことをもとにお伝えします。

大聖寺という名前が初めて歴史にあらわれるのは、1163(長寛元)年にできた

『白山之記』という本です。白山五院の一つとして「大聖寺」というお寺の名前が

書かれています。このお寺は、たぶん錦城山の上にあっただろうと考えられています。

大聖寺で起こった出来事が明らかになるのが、多くの侍たちが誕生し、全国を舞台に

活躍する南北朝時代以降です。『太平記』には、1335(建武2)年に敷地方天神の

神官狩野氏を中心とした郷党が、錦城山にあった大聖寺城で北条氏の残党である

名越(なごや)太郎時兼を破ったことや、2年後の1337(延元2)年に南朝方の

畑時能(ときよし)が狩野方を味方として、荻生山の津葉城を攻めて大勝利をあげた

ことなどが記録されています。ちなみに、畑時能という人は『太平記』に日本一の

大力の剛の者と書かれている人で、忠犬”犬獅子”を従えて活躍したそうですよ。

さて、城下町大聖寺の基礎を作り上げたのは、前田家だったように思われがちですが、

実はそうではなく、溝口秀勝(1548~1610年)という人です。

溝口秀勝は、尾張国中島郡西溝口村出身で、織田信長の家臣・丹羽長秀に仕えて

武功をたて、1581年に長秀の与力大名として若狭国高浜城主となり、5千石を与え

られました。1583(天正11)年の賎ケ岳の戦いでは、敦賀にあった羽柴秀吉軍に

味方して、柴田勝家を破るために大活躍しました。溝口秀勝その功績により、

1584(天正12)年8月に大聖寺城主となり、4万4千石を

与えられました。また翌年には、主君の丹羽長秀が病没したことを受け、独立した

一大名となりました。

溝口秀勝はその後15年の長きにわたって、大聖寺を治めましたが、とっても忙しかった

ようです。1587(天正15)年には、700人の兵を率いて秀吉の九州島津征伐に従軍、

1590(天正18)年には、秀吉の小田原北条攻めに北陸軍団の第一線部隊として

従軍しています。さらに、1592(文禄元)年から1598(慶長3年)まで続いた秀吉の

朝鮮出兵のさいには、肥前名護屋の本営勤務を果たしました。

このほかにも、大坂城の普請手伝い、京都東山の大仏殿造営の手伝いなど、

溝口秀勝従軍と普請手伝いに明け暮れたようです。

1598(慶長3年)4月、溝口秀勝は越後の新発田藩6万石に移封され、初代藩主に

なります。6万石といわれて新発田に乗り込んだ秀勝は、領地の大半があばれ川である

阿賀野川がつくる湿地帯だったので頭を抱えたという話です。しかし、秀勝は同じく湿地帯

である大聖寺での経験を生かして治水・排水・新田開発に努めたといいます。

溝口秀勝はその経歴をみると、土木や建築に長けた人物だったのでしょうね。

城下町大聖寺の街並みには、溝口秀勝の頃の歴史がしっかりと刻まれているのです。

石川県ブログランキングへ


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。