実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

大聖寺藩の危機・3代利直の時の出来事

2012年11月21日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^_^)v/

加賀市観光ボランティア大学第15回講座で、伊林永幸先生にお話しいただいたこと

もとに、レポートしています。

←加賀市観光ボランティア大学にて

大聖寺藩の体制は初代利治、2代利明の時期に築かれました。そしてその後を引き継いだ

のが利明の三男として江戸で生まれた利直(1672~1710)でした。利直は、1684

(貞享元)年に5代将軍・徳川綱吉に御目見得して以降、綱吉の寵愛を受け、外様大名の

立場にもかかわらず、1691(元禄4)年に奥詰に任じられ、生活のほとんどを江戸で送る

ことになった人です。

5代将軍・徳川綱吉は犬公方といわれ、「生類憐みの令」を発しました。利直が綱吉の

お気に入りであったことから、大聖寺藩は1695(元禄8)年に御手伝普請として、大久保・

中野に犬小屋の建造を命じられることになります。その仕事は半端なものではなく、なんと、

敷地16万坪の中野に、25坪の朱塗りの犬小屋を290棟、7.5坪の犬の日除場を295棟、

子犬の養育所を459ヵ所も設置しなければならないものでした。この御手伝普請により、

大聖寺藩はたちまち財政困難に陥っていきます。

また、利直がほとんど大聖寺に戻らない定府大名だったことから、藩政を家臣団に任せ

ざるをえませんでした。利直初代利治、2代利明のときの功臣・神谷守政よりも、

若い村井主殿(とのも)を重用したために、藩内で「元禄騒動」とよばれる神谷派対村井派の

権力闘争が起こってしまいます。背景には元禄バブルの中で生活に困った家臣団の不満が

あったと考えられています。

この騒動は、公金使い込みを理由とした村井主殿の切腹と神谷守政の子・守応の金沢召還

で決着しますが、大聖寺の藩政は混乱をきわめました。

さらに、利直が晩年の頃には、不幸な出来事が続きます。1709(宝永6)年、5代将軍綱吉

が死去し、奥詰を解任されます。そして弟・利昌が「采女(うねめ)事件」というとんでもない

刃傷事件を起こしてしまうのです。

利直1692(元禄5)年に父利明の後を継いだとき、弟の利昌(1684-1709)に1万石を

分与して支藩である大聖寺新田藩を作りました。この大聖寺新田藩は独自の藩庁などの

行政機関も持たず、最初は荻生村の「采女屋敷」で、のちに新町の役所で1万石分の米の

経理を行うようなものでした。

1709(宝永6)年2月15日、上野の寛永寺で綱吉の葬儀が行われました。

このとき、利直弟の利昌は中宮使饗応役を命じられましたが、同役の大准后使饗応役は

犬猿の仲であった大和国柳本藩の織田秀親(織田信長の弟織田有楽齋の子孫)でした。

翌16日に事件が起きます。利昌が寛永寺吉祥院の宿坊で秀親を刺したのです。秀親は

即死だったそうです。

凶行の前日、利昌は家臣に赤穂事件について感想を求め、家臣「内匠頭は斬らずに刺せば

本懐を遂げられた」と答えたという記録が残っています。

犯行後、利昌は女装して、現場から大聖寺上屋敷に逃げました。しかし事の重大さから宗家で

ある金沢藩が幕府に通報し、利昌は山城国淀藩主石川義孝に預けられ、18日には切腹と

なったのでした。

その後、大聖寺新田藩は廃藩となり、幕府に一旦収公されますが、すぐに大聖寺藩に1万石は

還付されました。不幸が続く中で、利直は1710(宝永7)年12月13日に永眠します。

←利直も眠る実性院の大聖寺歴代藩主の墓

桜の咲く季節、また晩秋の紅葉の頃にとっても美しい長流亭は、この利直の休息所として

1709(宝永6)年に建造されたものです。

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