実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

「片野鴨池」をいつまでも守りたい!!

2013年12月31日 | 日記

隊員NO.2ゆきちで~す

加賀市観光ボランティア大学で教えていただいた 片野鴨池は水鳥の宝庫

-坂網猟とラムサール条約-」についてレポートを続けてきました。

水鳥たちの楽園「片野鴨池」は、地元加賀市のいろんな人びとの手によって、

その環境が守られています。カモたちがシベリアから飛来する前の8月下旬、

坂網猟の猟師さんたちは鴨池の草刈り・周囲の山の間伐・池の水の管理などを

しています。とくに草刈りは、池全体がとっても深い沼地なので、中にはいると

ズブズブと腰のあたりまで体が沈み込んでしまい、大変な作業だといいます。

でも池に生えるマコモを放っておくと、池が浅くなってしまい、ヨシが生えてきて

しまいます。すると今度はハンノキが成長し、池はあっという間に森になってしまい

カモたちがやってくる環境が失われてしまうのです。

最近片野鴨池にやってくるカモの数がどんどん減ってきているそうです。池田さんに

よると、昭和40年代にはマガモだけで約5万羽、その他に雑多なカモも5万羽近く

やってきていたそうですが、現在は2000~3000程度に減ってしまったそうです。

原因は、①近くに北陸自動車道ができ、車のライトや騒音でカモが近寄らなくなった、

②航空自衛隊小松基地の飛行機が上空をかすめて飛び、その音にカモがおびえて

いる、③鴨池周辺の江沼平野や福井県あわら市・坂井市などに狩猟禁止区域が

増えて、カモが分散するようになった、など複合的なものだと考えられています。

片野鴨池」は1993年6月10日にラムサール条約の登録湿地に指定されました。

指定された理由は、人間が鴨池に手をふれずに守るのではなく、鴨池を利用する

多くの人びとのかかわりをうまく生かしながら、「Wise Use」(賢い利用)してきた

からなのです。

今から17年前に坂網漁師の方の協力で始まった「ふゆみずたんぼ」は、鴨池

やってくるカモたちがエサをとりやすい場所を増やすためのとりくみです。そして

カモのフンが肥料となり、とてもおいしいお米がとれる「ふゆみずたんぼ」のお米は

加賀のともえ米」として販売され、その収益の一部が鴨池保護の資金として

使われています。

片野鴨池」を守っていこうというとりくみが地道に続いています。加賀市民みんなで

鴨池坂網猟のことを知って、このようなとりくみに協力したいと思います。

みなさん、いつも「実高ふれ愛隊日記」への応援ありがとう

ございます。来年も頑張りますので、よろしくお願いします。

それでは、よいお年をお迎え下さい

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「坂網鴨」がおいしいのはなぜか?

2013年12月30日 | 日記

隊員NO.2ゆきちで~す

昨日に引き続いて、坂網猟ベテラン猟師・池田豊隆さんに教えていただいことを

もとにご報告します。

片野鴨池の「坂網猟」で獲れたカモを「坂網鴨」といいます。いまや、橋立漁港で

とれる「加能ガニ」とならんで「坂網鴨」は、加賀の二大食材とよばれています。

映画『武士の献立』で話題になっているように、加賀には昔からゆたかな食文化が

あることも坂網鴨」を今に伝える大きな要因なのかもしれません。

わたしたちの顧問の先生は「オレ~、12月3日に大聖寺のばん亭であった『酒楽の会』

っていう集まりに入れてもらって、坂網鴨の串焼きと治部煮食べたんや。

治部煮に出てきた鴨肉には片栗粉がまぶしてあって柔らかくって、わさびつけて

食べたら絶品やったわ。久しぶりに鴨肉食べたんやけど、本当にうまかった。」って

言っていました。わたしは、まだ坂網鴨を食べたことがないので、どんなにうまいのか

知らないのですが、片野鴨池坂網猟ガイドブック』(加賀市片野鴨池坂網猟保存会編)

によると、坂網鴨おいしい理由は、次の3つだそうです。

(1)餌づけをせず、穀類を主食とした完全に天然の鴨であり、肉と脂のバランスが良く、

野生のものだけが持つ独特の旨味がある。

(2)鴨は、昼間はエサを食べない。猟師のほとんどが夕方に鴨を捕獲するため、鴨の

内臓に何も残っていない。これが数日後でも内臓からの腐りがなく、くさみが発生しない

所以だ。

(3)鴨は坂網にかかったあと、ほとんどが周囲の松の枝などに引っかかる。このため

無傷で、血を流さずに捕獲される。また、すぐに首をしめられるのでバタバタして傷つく

こともない。肉に血がまわらないことから、肉の味を損なうことがないので、くさみがない。

今年の2月、池田さんは、東京で開かれた坂網猟天然鴨料理 加賀の晩餐会」という

催しで、坂網猟坂網鴨のおいしさの秘密を説明されたそうです。会場は世界的にも

有名なシェフで、加賀市三谷地区でとれた食材を使われていることでも知られる成澤由浩

さんがやっておいでる東京南青山のフレンチレストラン「レ・クレアシヨン・ド・ナリサワ」

でした。この会では、坂網猟には歴史的文化的なストーリー性がある。坂網鴨の味覚は

素晴らしい。」と賞賛を浴びたそうです。この会には女性の著名人も多数招かれていて、

NHK元アナウンサーの山根基世さんは、池田さんが「坂網猟は"五感"をつかって行う

です」と説明されたところ、「東京では"五感"という言葉はもはや死語になっています

坂網猟って素晴らしいですね」という感想を述べられたそうです。また富山県出身の

『女性の品格』の著者として有名な坂東眞理子さんや笛吹雅子さん(日本テレビアナウンサー

で、親が福井県出身)は、池田さんの話される言葉に「北陸を感じます!」って言われて、

坂網のおいしさに舌鼓を打たれていたそうです。

かつては大聖寺の魚屋さんで当たり前に売られていたという「坂網鴨」も、今では

年間200羽くらいしか獲れない幻の食材になっています。

加賀ブランドとして坂網鴨」のおいしさを多くの人びとに広めていきたいものですね!!

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「坂網猟」は世界に誇る無形文化財だと思います!

2013年12月29日 | 日記

隊員NO.2ゆきちで~す

昨日に引き続いて、坂網猟ベテラン猟師・池田豊隆さんに教えていただいことを

もとにレポートしま~す。

片野鴨池で一年のうち、もっとも日没の早いのが12月10~20日頃で、4時30分過ぎ

には日が暮れます。それが2月になると6時になります。そんな中、11月15日~2月15日

までのわずか3ヶ月間が「坂網猟」のシーズン。猟師さんたちは、カモが風に向かって

飛んでくる夕闇の一瞬に坂網を投げ、勝負しているのです。

昭和30年代ごろは、全国いたるところで、おいしいカモの狩猟が行われていたそうですが、

現在では、伝統的な猟法でカモを捕っているのは、ここ片野鴨池の「坂網猟」と

宮崎県佐土原地区の「越網猟」の2つだけなのだそうです。

「群れて飛んでくるカモの1羽だけをねらうんやわ。マガモのオスはメスに比べて1割5分ほど

デカい。ヤツらかって、少しでも早く安全にエサ場に行きたいさけ、一直線で谷あいを越えたいん

やろけど、風が強けりゃ、山ぎわを飛んだり、山を越えていくときもある。そやけど、高いとこ

飛ぶとタカにねらわれるし、低いとこ行くと人間が待っとるのを学習するんやわ。10月に来た

鴨池のカモらは1ヶ月もすると、わしらのことを警戒するようになるんや。そやさかい、

わしらの猟ちゅうのは、風向きやらカモの習性やらを考えて、やらんなんのやわ。」

池田さんはホワイトボードに鴨池周辺の絵を描いて、わたしたちに坂網猟の様子を話して

くださいました。

カモを狩猟する場所(坂場)は、毎年11月の初めに猟師さんたちが、くじ引きをして決めるそう

です。カモがもっともよく飛んでくる場所を「オヤバショ」、可能性が低い場所を「カズキバ」と

呼ぶそうですが、その日の天候状態によって、「オヤバショ」に当たったからといって、すぐに

カモが獲れるとは限らないそうです。北風が吹けば、大割新場坂・中坂、南風の時は前山・

鷹打坂、東風・西風が吹けば油木落坂・切明坂でよくカモが獲れるそうです。

「鳥獣保護地域やのに、猟が認められとる所なんて、世界的にも珍しいそうです。」

カモを一網打尽にするのではなく、間引き程度に自然と共生しながら続いてきた「坂網猟」は、

加賀市が世界に誇る無形文化財だと思います!!

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片野鴨池の「坂網猟」・頭のいいカモとの知恵比べ

2013年12月28日 | 日記

隊員NO.2ゆきちで~す

加賀市観光ボランティア大学第18回講座で、片野鴨池に伝わる坂網猟

ベテラン猟師・池田豊隆さんに坂網猟に関するとってもたくさんのことを教えていただき

ました。池田さんの加賀言葉の端々からは、「片野鴨池」を愛し、「坂網猟をいつまでも

守っていきたい!」という強いお気持ちが伝わってきました。池田さん、本当にありがとう

ございました。

現在、「坂網猟」を行っている猟師さんはわずか27人だそうです。最近になって、若い人が

6人加わって、少し若返りました。でも昭和40年代には100人を超える猟師さんがいたこと

考えると、その数は大きく減少しています。

「今年猟師になった山根さんが、始めて2回目の猟で鴨を捕ったんやわ。これってすごい

ことなんや。普通、小学生の頃から大人について行って、シメ役なんかしながら、カモの

習性を少しずつ分かるようになって、初めて獲れるもんなんやわ。動体視力、反射神経、

そして長年の勘がないと、獲れるもんでない。」と言われて、若手が増えたことを

喜んでおいでました。しかし、坂網猟で使う道具を自分でつくることができる方は10人くらい

しかおいでないそうです。

「カセという柄の部分は、クサマキやヒノキ材をカンナでけずってつくります。6尺くらいの

長さで、節がない方が、折れにくくていい。網の枠のハザオは、昔弓矢をつくるときに使った

ヤダケを使います。網は太めの絹糸(現在はナイロンも使います)。カモが網にかかると、

メタがはずれて、ハザオにかかっているコザルがシュルシュルってずれて、カモを包み込む

ようにして捕まえるんです。坂網はデカすぎてもいかんし、重すぎてもいかん。自分のお気に

入りの坂網を使うと、やっぱり一番獲れるね。」

夕闇に包まれた真っ暗な中で、カモたちが餌場に向かって飛び立つたった15~20分が

坂網猟の勝負です。カモは時速60~80kmで飛んできます。じっと集中力を保ち、息を潜め

ながら、カモたちが飛び立つときに示す一瞬のざわめきを、五感を通じて読み取ってサオを

投げるのです。時には10~12mの高さにまで坂網を投げます。

「あいつら、本当にはしかいんや。風に向かって飛ぶんやけど、決して真っ直ぐには飛ばん。

わしらの動きを感じると、上とか横とかに方向変えて飛んでいく。坂網猟はワシら猟師と

頭のいいカモとの知恵比べみたいなもんやわ。」

11月15日の坂網猟開始から獲れたカモの数は110~115羽(12月21日現在)。

今年は天気が悪い日が続いて、あまり猟ができていないそうです。獲ったカモは、

大聖寺の料亭「ばん亭」と「山ぎし」に半分ずつ卸されているそうです。

食べておいしいカモは、マガモ・コガモ・トモエガモだそうです。中でも一番おいしいのが、

マガモのメス。「本当においしいカモの味を知っとるのは、わしら猟師やと思う。」

池田さんたち猟師さんは、飛んでくるカモのくちばしの角度で、坂網を投げる加減を瞬時に

調整します。毎日の風の方向や強さ、月齢(月の大きさ)によってもカモの飛び立つ

方向や時間は違います。池田さんたちの匠の技が、300年以上伝わってきた伝統猟法

坂網猟」を支えているのですね。

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カモたちは夜、加賀市内の田んぼで食事をしています!

2013年12月27日 | 日記

隊員NO.2ゆきちで~す

加賀市観光ボランティア大学第18回講座で勉強した片野鴨池についてレポートさせて

いただいています。加賀市鴨池観察館の櫻井佳明レンジャーは、カモたちの食事に

ついて教えてくださいました。

←マガモのくちばしには、くしがたくさんあります!

マガモやその仲間たちは、食事をするとき、くちばしを水面につけ、”ぶるぶる”と

小刻みに首を震わせます。でも別に寒くて震えているわけではありません。

実は、マガモたちのくちばしには、”くし”のような突起がたくさん付いていて、これが、

エサと水の仕分けをする役割をしているそうです。

カモたちは、いったん、水の中にある水草や雑草の種などのエサを、水といっしょに

口の中に飲み込みます。エサは食べたいけど、水は飲みたくありません。そこで、くちばしを

一生懸命震わせます。そして、くちばしに付いているたくさんの”くし”のような突起は、

まるで濾過装置のように、水をうまく外に捨てさり、エサを”くし”に引っかけて口の中に

残してくれるのです(ちなみに、オナガカモなどは”ぶるぶる”しない仲間です。)

ですから、マガモは、水がないとうまくエサが食べられないのです。

それでは、池のカモたちは、一体、どこで食事をしていると思われますか?

実は、カモは夜行性の生き物で、夜に活動し、昼間はゆったりと休息しています。ですから

昼間鴨池で見るカモたちはほとんどが寝ているんですよ。そして夜になるとほとんど

その姿は見えなくなります。夕方になると一斉にお食事に出かけるのです。

食事の場所は、加賀市内いたるところの田んぼです。調査によると、トモエガモがもっとも

よく食事場所として利用しているのが、柴山潟周辺永井・瀬越地区金明地区などの

水が張ってある水田で、秋の収穫の時に田んぼにこぼれた落ち穂や二番穂のお米を

食べているのです。一枚の田んぼには平均15kgもの落ち穂があるんだそうです。

みなさん夜家にいるときに、耳を澄ましてみて下さい。ひょっとすると、近くの田んぼから、

「キンキンキン」というカモの声やパタパタと羽ばたく音が聞こえるかもしれませんよ!

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片野鴨池を守った村田安太郎とオースチン博士

2013年12月26日 | 日記

隊員NO.3ゆかぴで~す

第2次大戦後のGHQが日本を占領統治していた時代、水鳥の楽園であった

片野鴨池大変な危機が訪れていました。アメリカ軍の軍人がいきなりやってきて、

300年近く人間と鳥たちが共生してきた片野鴨池で、鉄砲によるハンティングを

始めたのです。しかも、1949(昭和24)年の冬、横浜から2回にわたってハンティングに

やってきたウォルトン・ウォーカー中将とは、2度の大戦で戦功をあげたアメリカ陸軍の

英雄で、日本占領支配の中心にあったアメリカ第8軍司令官という超大物だったのです。

占領下、アメリカ軍の命令は戦前の天皇の命令と等しいと言われていた時代、

たとえ禁漁区"片野鴨池"におけるウォーカー中将ら狩猟行為が違法であったと

しても、それに異を唱えることは不可能だと誰もが思っていました。

そのような中で、単身東京丸の内のGHQ天然資源局に乗り込み直訴したのが、

江沼郡捕鴨組合組合長だった70才の村田安太郎だったのです。

「あんたのような年寄りの来る所じゃない。」と安太郎は門前払いされたそうです。

しかし、「わしゃ、大事なお願いがあって大聖寺から来たんや!担当者に会わせてもらう

までは、一歩も動かん!」安太郎は門前に座り込んだといいます。

そんな村田安太郎の気迫がきっと通じたのでしょう。安太郎GHQ天然資源局

野生生物課長・オースチンとの面会を許されました。これは運命的な出会いでした。

オリバー・L・オースチン博士。彼はハーバード大学で鳥の研究で学位を取得した

第一号で、鳥類保護に熱心な気鋭の鳥類学者だったのです。彼は、1946(昭和21)年、

来日した際に「日本は山や森が多いのに、なぜこんなに野鳥が少ないのか?

このままでは日本の緑は害虫によってなくなってしまう!」と発言したそうです。

オースチン日本に「愛鳥週間」を創設し、「カスミ網猟」を禁止するなど、わが国の

野鳥保護に尽力した人物でもあります。

「アメリカ軍人による狩猟の違法性」「坂網猟保護の重要性」等についてしっかりとした

筋道で話す村田安太郎の主張は、きっとオースチン博士の心をとらえたのでしょう。

オースチン博士はGHQ上層部に働きかけ、アメリカ軍における片野鴨池での

鉄砲を使った狩猟禁止が周知されることになりました。

村田安太郎の勇気ある行動とオースチン博士の存在が危機的な状況にあった

片野鴨池水鳥たちや伝統猟法"坂網猟"を守ったんですね。

←『片野鴨池と村田安太郎』(時鐘舎刊)

【ブログ作成にあたっては、時鐘舎新書『片野鴨池と村田安太郎』(加賀市片野鴨池

坂網猟保存会編)を参照させていただきました。】

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昭和23年冬、「片野鴨池」に銃声が鳴り響きました。

2013年12月25日 | 日記

Merry Christmas(たのしいクリスマスになりますよ~に

隊員NO.3ゆかぴで~す

加賀市観光ボランティア大学18回講座で 片野鴨池は水鳥の宝庫-坂網猟と

ラムサール条約-」をテーマに勉強しました。

現在、水鳥たちの楽園として有名な片野鴨池とても重大な危機に陥ったとき

があります。それは日本が第2次世界大戦で負け、GHQの占領統治下にあった時です。

昭和23年11月11日。カモたちがいっぱい鴨池に飛来し、この年の“坂網猟”も

始まっていた頃です。GHQの将校2人がやってきて、カモやガンをハンティングします。

長年鉄砲による狩猟が禁止されてきた片野鴨池でハンティングを行ったのは、

ジープに乗ってやってきた福井軍政部の米軍兵士2人でした。彼らは片野鴨池カモや

ガンの仲間がたくさんいることを聞きつけ、やってきたのでした。

そして12月21日。冬の朝まだ5時頃だというのに、突然「バババーン、バ-ン」という

すごい音が鴨池周辺で鳴り響きました。鴨池から4~500m離れたところにある

今の片野町の人たちもこの音にビックリしたそうです。「どうしたんや~?」

人びとが空を見上げると、ゴーというすごい響きとともに、黒い巨大なかたまりが

渦を巻くように上空を横切り、日本海の方へと動いていきました。そうです。この黒い

かたまりとは、けたたましい銃声に驚き、逃げていくカモやガンの大群だったのです。

そしてこの日一日中狩猟を行ったのは、京都にあったアメリカ第8軍第1軍団司令官

スイング少将という人でした。

鴨池の危機はさらに拡大していきます。翌年(昭和24年)1月10日に今度は、

当時のGHQによる日本占領支配の超大物で、横浜にいたアメリカ第8軍司令官の

ウォーカー中将が、戦前の皇室専用列車を接収し使用していた「オクタゴニアン号」で、

大聖寺駅に降り立ち、鴨池で狩猟を行ったのです。彼はハンティングが大好きで、

同じ年の2月28日にも鴨池にやってきて、銃声を響かせたのでした。

「このままじゃ、鴨池にカモやガンが寄りつかなくなってしまう。なんとかやめさせな

ければ!」しかし、相手はGHQの超大物。石川県や金沢にある地方の軍政部に

抗議をした程度では、止めさせることはできないのです。

そのような中、鴨池の危機的な状況を救うために立ち上がった一人の男がいました。

それが、村田安太郎という人です。当時江沼郡捕鴨組合の組合長を務め、戦前には

大聖寺町の助役をしていた70才の村田安太郎は、禁漁区におけるアメリカ軍人の

違法行為を止めさせ、坂網猟を継続させるため、東京のGHQに直談判に行ったの

でした。安太郎は、GHQに向かう際、家族と「水杯(さかずき)」を交わしたといいます。

←『片野鴨池と村田安太郎』(時鐘舎刊)

【ブログ作成にあたっては、時鐘舎新書『片野鴨池と村田安太郎』加賀市片野鴨池

坂網猟保存会編)を参照させていただきました。】

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「片野鴨池」の歴史・鴨池はどうやって生まれたのか?

2013年12月24日 | 日記

隊員NO.3ゆかぴで~す

12月21日(土)に行われた加賀市観光ボランティア大学18回講座

 片野鴨池は水鳥の宝庫-坂網猟とラムサール条約-」で、櫻井佳明レンジャーから

教えていただいたことをもとにレポートさせていただきます。

さて、全国的にも有名な水鳥の楽園「片野鴨池」はどうやって生まれたのでしょうか?

その誕生にはいくつもの歴史があります。

今から500年ほど前、今の片野鴨池あたりは谷地形でした。それが海岸部に日本海の

潮風による砂丘が発達したことで、水がせき止められ、大きな池ができ上がりました。

それはそれは水深の深い池だったそうで、今でも鴨池周辺の山には、水が貯められて

いた痕跡が見られるそうです。江戸時代になり、大聖寺藩は食糧を増産するために、

新田開発を進めていました。そんなことから1678(延宝6)年、藩主の命により

大聖寺藩士・魚屋長兵衛がこの池の水を抜くため、西端にトンネルをつくり、

今の片野鴨池ある大池の原型ができたのです。すると、この大池にはたくさんの

カモたちがやってくるようになりました。

1688(貞享5)年、一人の大聖寺藩士がそんな大きな池でカモを捕らえます。その男の

名前は、村田源右衛門(げんえもん)。片野海岸に魚釣りに行った帰り、池の近くを通り、

あまりに多くのカモが飛び立つのを見て、タモ網を上に投げたところ、見事にカモを捕まえた

のです。これが、"坂網猟"のはじまりだそうです。その後、大聖寺の藩士たちによって、

カモを捕らえるための"坂網"の工夫がされていきました。そして大聖寺藩が武士の鍛錬

の一つとして、カモ猟を奨励したことから、この"坂網猟"が定着していったのです。

当時カモはとっても貴重な食べ物でした。大聖寺藩がとれたカモを金沢の本藩や

江戸幕府に贈っていたという記録も残されています。また、片野村には「田地水溜料」が

藩より支給され、鴨池の保護が行われ、鉄砲による狩猟はずっと禁止されてきました。

明治時代に入って、一般の人びとにも"坂網猟"をすることが認められるようになりました。

人びとは組合を作って、「坂場」(カモを狩猟する場所)の使い方をはじめとする"坂網"を

続けていくために必要なルールを設け、鴨池を守っていったのでした。

このような片野鴨池の歴史において、とても重大な危機だったのが、第2次大戦直後の

GHQ占領時代です。GHQの中で、スポーツハンティングの場所として片野鴨池

注目を集め、鉄砲による狩猟が行われるようになったのです。「このままでは、鴨池

環境の変化にとっても敏感なカモたちがやって来なくなります。」"坂網猟"を行っていた

地元の猟師さんたちは、「GHQにものを言うなんて、とんでもない」といわれていた時代

だったにもかかわらず、片野鴨池守るため勇気ある行動に出たのでした。

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片野鴨池は水鳥たちの楽園です!!

2013年12月23日 | 日記

隊員NO.3ゆかぴで~す

12月21日(土)に行われた加賀市観光ボランティア大学18回講座

 片野鴨池は水鳥の宝庫-坂網猟とラムサール条約-」で、櫻井佳明レンジャーから

片野鴨池が大切に思われている理由」について教えていただきました。

片野鴨池」は、北西側が日本海に面し、まわりを水田と山林が混在する丘陵に

囲まれた面積約10ヘクタール、周囲約3キロメートルほどの小さな湿地で、

日本にある47ヵ所のラムサール条約登録湿地の中でも最も小さい湿地だそうです。

しかし、この「片野鴨池」は、1969年に石川県天然記念物、1993年には

越前加賀海岸国定公園第一種特別地域、国設片野鴨池鳥獣保護区特別保護地区、

ラムサール条約登録湿地に指定されたほか、現在、東アジア・オーストラリア地域

フライウェイパートナーシップ参加地になるなど、とっても大切な場所なのです。

櫻井レンジャーは、「日本を含むこの地域は、南北に長い渡り鳥たちの通り道になって

います。たとえば、日本でみられるツバメの越冬地は、東南アジアのインドネシアですし、

カモたちの繁殖地は北極圏に近いシベリア地方です。水鳥たちを守るには、いろんな

国の人びととの協力が必要です。」と説明してくださいました。櫻井レンジャーをはじめ

片野鴨池観察館の皆さんは、東アジアの水鳥たちを守る重要な役割をされています。

片野鴨池には、絶滅が心配されている希少な動植物がたくさん生息しています。

まずは、1971年に国の天然記念物に指定されたヒシクイ。わたしたちが見学した時間

には、近くの田んぼに食事に出かけていて姿は見えませんでしたが、現在100羽くらい

来ています。そして絶滅危惧種"トモエガモ"。鴨池トモエガモにとっては国内最大の

渡来地で、2,000羽近い数を見ることができるのはここだけだそうです。

さらにはコハクチョウ日本にやってくる白鳥はオオハクチョウとコハクチョウの2種類

ですが、鴨池にいるのはコハクチョウです。朝の9時ころまでは150羽くらいがいますが、

10時前に食事に出かけ、夕方の5~6時頃に戻ってきます。

そして、オジロワシオオタカなどの猛禽類もいますオジロワシは翼を広げると

2m30cmもあって、カモをねらっていますが、小回りがきかないので、あまりハンティング

はうまくなく、コイなどの魚を食べることが多いそうです。櫻井さんによると、オオタカ

先日オオバンという鳥を捕まえている様子が確認できたそうですよ。

このような水鳥たちのお話を聞いていると、1日じっくりと片野鴨池観察館で鳥たちの

様子を観察してみたいなぁと思ってしまいました。

多くの生きものが安心して暮らしていける自然が残されているからこそ、希少な生きもの

やってくるのです。「人の暮らし」と「自然の恵み」が共生しながらつくられた片野鴨池

の環境。いつまでも水鳥の楽園であり続けるために、わたしたち加賀市民一人ひとりが

活動していかなければなりません!

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「片野鴨池観察館」で勉強してきました!!

2013年12月22日 | 日記

隊員NO.3ゆかぴで~す

12月21日(土)1330分から行われた加賀市観光ボランティア大学

18回講座 片野鴨池は水鳥の宝庫-坂網猟とラムサール条約-」に参加しました!!

片野鴨池観察館で本格的に勉強するのは、小学生の時以来、とても久しぶりでした。

今回は前半、片野鴨池観察館レンジャーの櫻井さんから「片野鴨池がなぜ大切だと

考えられているのか」、水鳥たちの特徴、「ふゆみずたんぼ」など野鳥保護の取り組み

などについてお話しいただいた。そして後半は、大聖寺捕鴨猟区協同組合理事長で、

長年伝統猟法・「坂網猟」の技術を受け継いでおいでた池田豊隆さんから「坂網猟」の

歴史や、五感を研ぎ澄まして行う鴨猟の醍醐味について、とってもわかりやすくご説明

いただきました。櫻井さん・池田さん、本当にありがとうございました。

片野鴨池は、とっても小さな湿地であるにもかかわらず、1993年にラムサール条約

(正式名称:「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」)に登録されて

いる日本の宝です。この鴨池は、330年以上も前の江戸時代にできた湿地です。

地域の人々は、たんぼや鴨猟によって、この湿地を利用しながら守り続けてきました。

現在、この片野鴨池には、絶滅危惧種(ぜつめつきぐしゅ)のトモエガモをはじめ、

20種以上ものカモやガンのなかまが5000羽以上やってきています。

今回、わたしたちは加賀市鴨池観察館で、生きものとのふれあいを楽しみながら、

人と鳥、伝統文化が共存して守られてきた鴨池の歴史を学ぶことができました。

自然を守るということは、人間が何にも手をつけないで、そのままの状態にすることって

いう風に考えがちです。でもこの考え方っていうのは、あたっているようで、実は違うんだ

なぁっていうことを勉強させていただいたように思います。

明日のブログから、鴨池にやってくる水鳥たちを守るとりくみや、池田さんに教えて

いただいたとっても頭のいいカモたちと知恵比べしながら行われてきた「坂網猟」のことを

ご報告させていただきます。よろしくお願いしま~す!

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「加賀の白山信仰」について

2013年12月21日 | 日記

隊員NO.4まこで~す

12月12日(木)1930分から加賀市民会館で、加賀市観光ボランティア大学

17回講座 加賀の白山信仰が開かれました。

今回の講師は江沼地方史研究会の伊林永幸先生でした。伊林先生は大聖寺が誇る

郷土史研究家です。大聖寺町史編纂委員会編集部長として、『大聖寺町史』の刊行に

ご活躍されました。伊林先生には、加賀における白山信仰について、とっても丁寧に

お話しいただきました。先生ありがとうございました。

昨年の先輩が伊林先生からお聞きしたことをもとにまとめられた記事を掲載させていただき

ます。よろしければ、下のタイトルをクリックして、お読みください。よろしくお願いします。

加賀の「白山信仰」について

(1) 「♪越の白山 仰ぎつつ♪・ふるさとの誇り『白山』」

(2) 「深田久弥『私のふるさとの山は白山であった』」

(3) 「白山は1600年前から神々の棲む山だったのです!」

(4) 「加賀市には『白山神社』が42社もあります!」

(5) 「白山の神・菊理媛(くくりひめ)って?」

(6) 「白山信仰と神仏習合・神が仏にぬりかえられた時代」

(7) 「白山信仰と本地垂迹説」

(8) 「白山三馬場・長い間、白山の頂上をめぐる争いがありました!」

(9) 「『白山信仰』の力が時代を大きく動かした事件(1176年)」

(10) 「『白山五院』のひとつ『大聖寺』」

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「加賀ふるさと検定」表彰式が行われました!

2013年12月20日 | 日記

隊員NO.2ゆきちで~す

 

12月18日(水)10時から「第1回加賀ふるさと検定初級試験」成績優秀者

表彰式が、加賀商工会議所2階大ホールで行われました。

会場では今回の検定試験で合格(42点以上)された62人のみなさんを代表して

58点でトップ合格された小蔵惠一さん、56点で第2位だった山本清子さん、荒木実さん、

最高齢合格者で86歳の梶川成治さんが表彰式に臨まれました。

その中の荒木さんは、「らくやき体験工房・翠雲窯」のご主人で、9月の課題研究で

わたしたちにらくやきを教えてくださった先生です。そして梶川さんは、加賀市観光

ボランティア大学の世話人として、いつもやさしくわたしたちに声をかけてくださいます。

とってもかわいいおじいちゃん・梶川さんのことは実高ふれ愛隊全員みんな大好きです。

合格者のみなさん、本当にオメデトウございました。

今回「第1回加賀ふるさと検定初級試験」を受けられたのは、267人(男性156人、

女性94人)で、全受験者の平均点は31.2点だったそうです。そして加賀市外に

お住まいの方もなんと33人受験されたそうで、加賀市を訪ねられる方々への

"おもてなしの心"をみんなでつくりましょう!という目的で始まった1回めの

加賀ふるさと検定」は大成功だったといえます。

ところで、今回団体受験をした実高1年生111人の結果ですが、健闘及ばず、

全員不合格でした。残念!!今回、「加賀ふるさと検定」対策の練習問題を作って、

「全員合格をめざすぞ!」と意気込んでいたわたしたちの顧問の先生は、とっても

悔しそうな顔をして、「1年生は、みんな頑張っていたのに、かわいそうなことしたな。

でも合格という高いハードルを目標にして、もっともっと加賀市のことを好きになる

キッカケにしてほしいなぁ」とおっしゃっていました。ちなみに実高1年生の最高点は

33点だったそうです。

加賀商工会議所の資料によると、今回もっとも難易度の高かった問題が、

①「宇吉郎の随筆『黒い月の世界』はハワイの山」(正解率5.8%)、②「梅花庵の天井画

は吉田公均の四季草花図」(正解率15.4%)、③「適塾の塾頭となった渡辺卯三郎」

(正解率30.1%)だったそうです。

実高1年生のみんな、再チャレンジして、来年こそは合格をつかみ取ってね!!

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「最後の1%をだれかのために!」・受け継がれる真宗の教え

2013年12月19日 | 日記

隊員NO.1いぶで~す

わたしたちは、因乗寺ご住職・家山勉先生と小松市矢田野町の

グループホームやたの」にご一緒させていただき、いまに受け継がれている

浄土真宗の教えについて勉強させていただきました。

家山先生は、今回の法要の最後に、グループホームやたの」の入所者の方々、

スタッフや地元矢田野町の皆さんを前に、つぎのようなお話をされました。

「みなさん、覚えていらっしゃいますか?あの東日本大震災から12月4日で、

1000日が経ちました。1000日も経つと、わたしたちはとっても大事なことでも

忘れがちになってしまいます。今でも福島県の15万人の方は、自分の生まれ育った

場所に帰ることも許されないまま、厳しい避難生活をされています。そういう中で、

昨日12月9日、国は浪江町や大熊町などを高濃度放射性廃棄物を土中に埋める

候補地として発表しました。『ここはもう人が住めん所やから、もっとも危険な物を

埋めてしまえ!』という悲しみを持った人にムチを打つような考え方のように

思えてなりません。国は国の都合を優先させます。でも、人は自分の都合を

優先していくと、他人の苦しみが見えなくなってしまうのです。

人間誰だって、自分が一番かわいいのです。しかし、自分の都合を100%優先して

しまえば、人間はエゴイズムの固まりになってしまいます。ですから、99パーセントを

自分の都合に使ったとしても、最後の1パーセントだけは、誰かのために使う事って、

大切なことなんです。そして最後の1パーセントを誰のために使うかということで、

人間の生き方は決まっていくのではないでしょうか?

わたしたちは3人の亡くなられた方の人生について確認しました。今、わたしたちが

行ったことは、その1パーセントにあたります。」

社会から排除される側に寄り添い続けることが真宗の教えだと先生は

おっしゃっていました。そして福島で被害に遭われ、避難生活を余儀なくされている方の

多くが、北陸出身の真宗門徒のご子孫なのだというお話もお聞きしました。

わたしたちは、「100%自分の都合だけを優先する人間にならないよう注意しなければ

ね。」って、みんなで話をしました。

家山先生、今回いろんなお話を教えていただき、本当にありがとうございました。

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「つながっていく」ということ・受け継がれる真宗の教え

2013年12月18日 | 日記

隊員NO.7ゆっこで~す

12月10日の課題研究の時間、わたしたちは、因乗寺ご住職・家山勉先生とご一緒に、

小松市矢田野町の「グループホームやたの」を訪問させていただきました。

この日は、月に1回家山先生が訪問される日です。「グループホームやたの」では、

この2ヶ月の間に亡くなられた3人の入所者の方の法要が行われることになっていました。

「ふれ愛隊のみなさん。今日は、正信偈(しょうしんげ)の後、グループホーム管理者の

岩尾さんが、亡くなられた3人の方のことをお話しされます。集まりの中で、どんなふうに

お話がされるか、聞いてみてください。」と家山先生はおっしゃっていました。

グループホームやたの」の集会が開かれるスペースには、わたしたちを含め、40人

近い方が集まりました。入所しているおばあちゃんたち、スタッフの皆さんだけでなく、

そこにはホームがある地元矢田野町の方々がたくさんおいでていました。

家山先生の正信偈始まると、参加者全員が大きな声で正信偈を合唱されました。

わたしたちもまわりの参加者の方々に励まされながら、一生懸命正信偈を詠みました。

集会スペースには、みんなの声が響き渡ります。何か不思議なことですが、その場が

一つにつながっていくような気がしました。正信偈が終わると、管理者の岩尾さんが、

今回亡くなられた3人の方ことについて静かに話しを始められました。

「Aさんは、とってもハイカラで明るい97才のおばあちゃんでした。コンピュータがお得意で、

アメリカに住んでいる娘さんとスカイプというテレビ電話でお話しすることを毎日楽しみにして

おられました。Bさんはとってももの静かなおじいちゃんでしたね。本が読んだり、外をながめる

ことがお好きでした。最期はとっても静かに息を引き取られました。Cさんは、ご夫婦で入所

されました。仲のいいお二人でしたが、奥さんが体の都合で、他の施設に移られることになり、

少しお寂しかったかもしれません。3人の方はお医者さんの往診を受けられていましたが、

最期はご家族に見守られて息を引き取られました。

日本では、8割の方が病院という白いカベの中で亡くなられているのが現実です。一方、

ヨーロッパでは、5割の方が自宅やグループホームで最期を迎えられています。

死は特別のことではなく、ごく自然に迎えるものです。尊い3人の方の命がいま全うされたことを、

みなさんとご一緒に確認させていただきました。今日はご参加いただき、ありがとうございました。」

岩尾さんのお話で、亡くなられたおじいちゃんやおばあちゃんの生前のお姿が目に浮かんで

くるように感じられました。

岩尾さんのお話の後、わたしたちはお菓子をいただきました。参加者の方々は、お菓子を

いただきながら、口々に亡くなられた3人の方のことを話されていました。

「格差社会になったといわれる今こそ、人と人がつながっていくことが大切なんですよ。」と

家山先生は話されていました。今回のグループホーム訪問で、先生の言葉の意味が

少し分かったような気がしました。

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「看取る」ということ・受け継がれる真宗の教え

2013年12月17日 | 日記

隊員NO.6れいなで~す

因乗寺ご住職・家山勉先生からお聞きした「浄土真宗とわたしたちとのつながり」に

ついてのレポートをさせていただいてます。

「"格差社会"になったといわれる日本にあって、社会から排除されようとしている

立場の人びとに寄り添い続けることが、今、わたしたち真宗の僧侶ができる社会的

とりくみだと思っています。」と家山先生は話されました。そして、

「今、わたしたちが暮らす加賀という地域の中で、もっとも社会から排除されやすい

立場に置かれているのが、高齢者だといえるのではないでしょうか?高齢者の多くが、

貧困化・単身化・超高齢化といわれる中、一人ぼっちで、誰にも顧みられることなく、

一生を終えています。そして全国で数十万人もの高齢者がついの棲み家として、

老人福祉施設で生活され、その数倍の方々が老人福祉施設に入所できないまま、

その順番を待っておいでます。

一人の人間が死を迎えるということは、『自分の人生を完成させていく』ということ。

それなのに、死んでいく人が、病院や施設という社会から隔絶された場所で、

人としての人生を十分顧みられないままになっているのが現実なのです。

ちょっとしたら、今ほど、高齢者の存在が粗末に扱われている時代はなかったかも

しれません。今、わたしたちは"看取り"ということを大切にしたいと考えています。」

加賀市には、約40の老人福祉施設があり、その人口あたりの割合は、全国的に

みると多いそうです。 家山先生が、大聖寺教区に所属する真宗大谷派僧侶の方々

とともにこの8年間地道に活動されてきていることがあります。

それは、グループホームへの月に一度の訪問です。

「グループホームのスタッフや地域の方々、入居者みんなで、一人のかけがえのない方の

人生が終わっていったということを確認する場。どんな死に方、どんな人生の送り方をされた

のかをみんなで"看取る"。孤立する高齢者と社会との関係性をもう一度つなぎ合わせる

ためにも、入居者の方が亡くなられたら絶対に法要をするよって、わたしは約束して

いるんです。」

社会の中の弱い立場の人びとの心を一つに結びつけてきたのが、真宗の教えです。

家山先生は、加賀の地域にずっと受け継がれてきた真宗の教えを今"看取り"という

行為通じて、形にされようとしているのではないでしょうか。

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