隊員NO.2りかで~す(^_^)v/
11月8日(木)に行われた加賀市観光ボランティア大学第15回講座
「大聖寺藩いいとこ つかみどり」で、江沼地方史研究会の伊林永幸先生から、
大聖寺藩にかんするおもしろいお話をたくさん教えていただきました。
←伊林永幸先生から大聖寺藩のことをたくさん教えていただきました!
さて、伊林先生のお話を聞いてビックリしたのですが、わたしたちが「大聖寺藩」、
「前田藩」、「薩摩藩」、「長州藩」なんていうぐあいに、当たり前に使っている「藩」という
言葉は、江戸時代には全く使ってなかったのだそうです。ですから、江戸時代に
大聖寺に住んでいた人々は、「大聖寺藩」とか「前田藩」という言い方を一切して
いなかったのです。
「藩」が行政区分の呼び名として使われるようになったのは、実は明治時代になって
からだそうです。1868(明治2)年に明治新政府が没収した土地のことを、大名の
住んでいた所の地名をもって「××藩」と呼ぶようになったのが、そのはじまりです。
それでは、江戸時代まで、「大聖寺藩」のことは何と呼ばれていたのでしょうか?
大聖寺藩の初代藩主利治(としはる)の父は、金沢藩三代藩主利常で、母は珠姫です。
そして母の珠姫は二代将軍徳川秀忠の娘ですから、利治は将軍秀忠の孫なのです。
その関係から前田家には「松平」の姓が授けられていました。ですので、江戸時代の
人々は、大聖寺の殿様を「前田」ではなく、「松平」の殿様と思っていたのです。
また当時は大名の名前を呼ぶ場合、姓と「官名(受領名)」がセットで使われていました。
「官名(受領名)」とは、朝廷が幕府を通じて大名に与えていたもので、大聖寺前田家は
歴代「飛騨守(ひだのかみ)」や「備後守(びんごのかみ)」を授かることが多かったようです。
(従四位下に相当する官名だそうです。)
そのことから、ふつう大聖寺藩の歴代藩主は、松平の一字「松」と飛騨守の一字「飛」を
合わせて、「松飛様」と呼ばれていました。また、大聖寺藩士たちは、
「松飛様御家中(まつひさまごかちゅう)」といわれたのです。
みなさん、「大聖寺藩」の武士たちが、「松飛様御家中(まつひさまごかちゅう)」
と呼ばれていたことをご存じでしたか?
わたしたちがあたりまえと思っていることが、実はあたりまえでないことって多いんですね。