実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

大聖寺藩の新田開発と正徳の大一揆

2012年11月18日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^_^)v/

加賀市観光ボランティア大学第15回講座 大聖寺藩いいとこ つまみどり」で、

伊林永幸先生から教えていただいたことをもとにレポートを続けます。

←一面に広がる加賀平野と白山

大聖寺藩は1639(寛永16)年6月に初代藩主前田利治によって立てられました。

立藩当初は7万石、1821(文政4)年、9代藩主利之(としこれ)の時に10万石に

高直しされました。そして1871(明治4)年、14代藩主利鬯(としか)の時に廃藩置県で

なくなるまで、230年以上にわたってこの地域を治めました。

江戸時代の日本は農業国家です。大聖寺藩の約230年間はいかにたくさんお米を作る

かが、藩にとっての最大の課題でした。ですから、少しでも米の生産量を増やすために、

新しい田んぼづくり(新田開発)に力が注がれました。

加賀市の里山の山すそは、そのほとんどが「ストン」と切れ落ちているそうです。それは、

切添新田といって、大聖寺藩が少しでも水田を増やすために開発をしていた証拠です。

また、市ノ瀬用水や矢田野用水がつくられて、それまで荒れ野だったところが、次々と

水田に生まれ変わっていきました。特に、矢田野用水は、ときの家老神谷内膳が、

1673(延宝7)年11月に、自ら矢田野に引越し、総延長11.1kmの難工事わずか

6ヶ月で成し遂げたことで知られています。この矢田野用水は、いまの横北町の動橋川

から取水し、法皇山の下をトンネルで抜け、宇谷川を水路橋(28.8m)で渡り、

那谷川の下をサイフォンで潜っています。そして難所といわれた「小手ヶ谷」を通過して、

分校・箱宮の境に89mのトンネルを作って、二ツ梨・矢田野へたどりつかせるものでした。

しかし、このように苦労して完成した用水も、1675(延宝9)年6月の田植えの後、

難所「小手ヶ谷」が陥没し、昼夜兼行で改修作業にあたらなければなりませんでした。

この時、多くの犠牲者が出たといわれます。地元では、毎年蒸し暑い日の日没頃、

どこからともなく何億という白い蝶があらわれて、夜明けになると力尽きて川面を埋め

つくしたというお話しが残っています。それは、その工事で亡くなった人の霊である

言われました。

←現錦城小学校に場所に大聖寺の陣屋がありました。

大聖寺町の周辺部は、今でも地方(じかた)町と呼ばれていますが、これは大聖寺の町人の

資本で新たに開発された水田があった所です。財政が苦しかった大聖寺藩では、新田開発も

町人の力を頼る必要がありました。今の大聖寺東町(加賀体育館周辺)は、大聖寺山田町の

町人が、そして今の大聖寺西町や西栄町などは、大聖寺本町や京町にいた町人の力で

開発されたそうです。大聖寺東町周辺は、三谷川の氾濫原だったところで、何万本もの松くいが

打たれて、やっと田んぼができたそうですよ。

これらの新田開発によって、大聖寺藩は実高(実際にとれるお米の量)が8万石になった

のですが、江戸幕府から申しつけられるお手伝い普請や天災によって、慢性的な赤字に

陥っていたようです。

1712( 正徳2)年には、大聖寺藩全域で北陸最大級の一揆、正徳の大一揆(全藩一揆)が

起こっています。この年台風や塩害の影響で米が不作だったにもかかわらず、大聖寺藩

年貢の減免を認めなかったことから起こった一揆です。大聖寺藩は、財政難から、年貢の

取り立てが厳しい藩だったようです。この一揆は、15歳から65歳までの男は1人残らず、

しかも肝煎(きもいり、名主)などの村役人から水呑百姓・下人(げにん)にいたるまで、

十村以外のすべての農民諸階層が参加した惣(そう)百姓一揆の典型として、日本の歴史に

おいても特筆されるものだそうです。

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