隊員NO.4にいなで~す(^_^)v
課題研究の時間に勉強した「加賀の一向一揆と蓮如」について、ご報告しています。
私たちの講師は家山勉先生でした。
1471(文明3)年4月上旬に、蓮如が吉崎にやってきました。そして7月27日に、吉崎御坊が
建立されました。すると、それまで荒地だった吉崎はまたたく間に発展します。
吉崎御坊には加賀・能登・越中から、さまざまな人びとが、男だけでなく女までも、一目蓮如さまに
会いたいと、やってきます。史料によれば、1、2年も経つとその数は、数千・数万だったといいます。
遠くは東北地方から訪れた人もいました。加賀の人びとは船に乗って、大聖寺川を下って吉崎に
集まりました。一帯には50の坊舎や信者が参詣するための宿泊所(多屋)が200軒以上も立ち並び、
寺内町とよばれる町が出来上がりました。
吉崎の町には、多くの店も立ったことでしょうし、品物を運ぶ運送業、海運業の人びともやってきたでしょう。
これまでまるで虫けらのように扱われ、「罪深い人間」として、従来の仏教から見放されてきた人びとが、
「仏教は人々を差別しない。阿弥陀如来を信ずる人は、みな平等に救われる。」という蓮如の言葉に励まされ、
いきいきとした顔で吉崎の町を歩いた姿が想像できます。海や山で、そして水田で、毎日の苦しい生活を
通じて鍛えられてきた人びとが一つの信念に結ばれ、声を掛け合いながら、吉崎御坊(御山)への
急な坂道を登っていったに違いありません。
蓮如は、近くの村々へ積極的に出向き、「講(こう)」とよばれる寄り合いを作りました。そして「講」は、
生まれにこだわらず、同じ信念で結ばれた者同士が、蓮如から仏の教えを学ぶ場になりました。
蓮如のもとには、「蓮如さん、わたしたちの村(講)にも来てください」「わたしたちにもお話下さい」
といった手紙が届きます。講師の家山先生は、これをスターへのファンレターに例えられました。
蓮如はこれらのファンレターに対し、仏の教えをわかりやすく、短いながらも、とてもやさしい言葉で
書き綴った返事をたくさん書きました。これを「御文(おふみ)」(御文章)といいます。
この御文を受け取った人びとは、これを宝物のように書き写し、次から次へと周りの村(講)に伝えたと
言います。
蓮如によって始められた「 講 」という寄り合いは、楽しく明るいもので、一体感に満ちあふれていました。
村人みんなで声を合わせてお勤めをします。お勤めの後には、みんなで食事や酒をとりながら、情報交換を
します。時には、その年の米のとれ具合や年貢の多い少ない、領主の良し悪しなども話し合われたはずです。
「講」がさらに大きくなり集会場として設けられた特別の場を「道場」といいます。また道場がさらに大きくなった
ものが、のちに「寺」となっていきました。
このようにして加賀の地は、あっという間に「真宗王国」になり、「わたしたちのご主人様は阿弥陀様だけだ!」
と考えた人びとは、支配者に対して公然と反旗をひるがえすようになっていきます。