実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

吉崎御坊・生きる喜びと勇気を感じとった人びと

2012年11月28日 | 日記

隊員NO.4にいなで~す(^_^)v

課題研究の時間に勉強した「加賀の一向一揆と蓮如」について、ご報告しています。

私たちの講師は家山勉先生でした。

1471(文明3)年4月上旬に、蓮如吉崎にやってきました。そして7月27日に、吉崎御坊

建立されました。すると、それまで荒地だった吉崎はまたたく間に発展します。

吉崎御坊には加賀・能登・越中から、さまざまな人びとが、男だけでなく女までも、一目蓮如さまに

会いたいと、やってきます。史料によれば、1、2年も経つとその数は、数千・数万だったといいます。

遠くは東北地方から訪れた人もいました。加賀の人びとは船に乗って、大聖寺川を下って吉崎

集まりました。一帯には50の坊舎や信者が参詣するための宿泊所(多屋)が200軒以上も立ち並び、

寺内町とよばれる町が出来上がりました。

吉崎の町には、多くの店も立ったことでしょうし、品物を運ぶ運送業、海運業の人びともやってきたでしょう。

これまでまるで虫けらのように扱われ、「罪深い人間」として、従来の仏教から見放されてきた人びとが、

仏教は人々を差別しない。阿弥陀如来を信ずる人は、みな平等に救われる。」という蓮如の言葉に励まされ、

いきいきとした顔で吉崎の町を歩いた姿が想像できます。海や山で、そして水田で、毎日の苦しい生活を

通じて鍛えられてきた人びとが一つの信念に結ばれ、声を掛け合いながら、吉崎御坊(御山)への

急な坂道を登っていったに違いありません。

蓮如は、近くの村々へ積極的に出向き、「講(こう)」とよばれる寄り合いを作りました。そして「」は、

生まれにこだわらず、同じ信念で結ばれた者同士が、蓮如から仏の教えを学ぶ場になりました。

蓮如のもとには、「蓮如さん、わたしたちの村(講)にも来てください」「わたしたちにもお話下さい」

といった手紙が届きます。講師の家山先生は、これをスターへのファンレターに例えられました。

蓮如はこれらのファンレターに対し、仏の教えをわかりやすく、短いながらも、とてもやさしい言葉で

書き綴った返事をたくさん書きました。これを「御文(おふみ)」(御文章)といいます。

この御文を受け取った人びとは、これを宝物のように書き写し、次から次へと周りの村()に伝えたと

言います。

蓮如によって始められた「 」という寄り合いは、楽しく明るいもので、一体感に満ちあふれていました。

村人みんなで声を合わせてお勤めをします。お勤めの後には、みんなで食事や酒をとりながら、情報交換を

します。時には、その年の米のとれ具合や年貢の多い少ない、領主の良し悪しなども話し合われたはずです。

」がさらに大きくなり集会場として設けられた特別の場を「道場」といいます。また道場がさらに大きくなった

ものが、のちに「寺」となっていきました。

←冬への準備が整った願成寺(大聖寺鍛冶町)

このようにして加賀の地は、あっという間に「真宗王国」になり、「わたしたちのご主人様は阿弥陀様だけだ!」

と考えた人びとは、支配者に対して公然と反旗をひるがえすようになっていきます。

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