隊員NO.2りかで~す(^_^)v/
今日は、加賀市観光ボランティア大学第15回講座 「大聖寺藩いいとこ つまみどり」で、
伊林永幸先生からお伺いした城下町・大聖寺のことをお伝えします!
みなさん、江戸時代の大聖寺城下町に一体どれぐらいの町人が住んでいたかご存じ
ですか?残念ながら当時の戸籍のようなものは残っていないので、人口は不明です。
しかし、1786(天明6)年にあった町方の戸数が865軒、そして86年後の1872
(明治5)年に大聖寺全体の戸数が2,058軒あったことが分かっています。1872年の
軒数には武家の戸数も含まれていますので、幕末の時点では町人の家はざっと
1,000~1,500軒程度であったと考えられます。
ですから、江戸中期から後期にかけて、大聖寺城下町には周辺の農村からとっても
多くの人々が流入し、大聖寺の人口が急増し、町の数がどんどん増えていったことが
分かります。そして農村からやってきた人々が城下町の町末に居住し、下層民として
大聖寺を支えていた様子が感じ取れます。
大聖寺に最初にできた町人の町は、いまの京町でした。京町は山口玄蕃が統治した時代
に、都から招かれた町人たちが核になってできたものです。そして本町や最初は旅籠町と
いわれた山田町にも有力商人が住んでいました。また、文字通り片側は荒地だった片原町、
紺屋町といわれた寺町、鍛冶職人が集住してできた鍛冶町、親方層と職人達が混住して
いた福田町などもできました。
その他にも魚類の振売商人が集住した魚町や当初は町名を持たなかった町並に、中町、
関町、下新町(いまの荒町)、木挽・大工が住む五軒町という町ができていきました。
財政難であった大聖寺藩にとって、大きな収入源となった商品作物は、茶・絹・紙の3つでした。
このような産物をもとに町の商人たちが納める運上銀は藩にとって大変重要なものだった
のです。元禄期以降、武家社会が充実してくると、武家の奉公人である小者・草履取・中間と
呼ばれる人々が不足がちとなり、農村から1年契約で奉公人を雇い入れるようになります。
農民にとって、武家での奉公は大変な仕事でしたが、ご飯が食べられ、少ないながらも給金が
もらえるので、農業に比べればはるかに楽なものでした。そこで武家に奉公する農民が増えて
いきます。そして年季が明けると農村に帰ることなく、今度は町屋に奉公し、そこから才覚次第
で給金を貯めて商人になったり、あるいは地子町に家を建てて城下町の町人となる者も
続出しました。
このような小商人、職人の居住する地が、魚町の南側や荒町(下新町)の末端、越前町、
大聖寺川を越えた道路沿いの敷地や新町、相生町を築き、大聖寺の町は拡大していったようです。
このような町は、農村から出てきた人が住みついた町なので、「在郷町」と呼ばれていたそうです。
大聖寺藩は、先進諸国で貨幣経済に転換しつつあった時代になっても、農民の年貢に頼った
しくみをとっていたので、農民の生活は困窮していたようです。そのことから、元禄期以降、
農民の階層分化がすすんだこともあって、農民の大聖寺城下町への流入が増えていったようです。
村に残った農民たちも、都市向けの商品作物を作るようになります。また、山中村と山代村が
温泉地として湯治客を集客したり、海に近い村では製塩、そのほかに真綿、蚕種を生産して
利益を上げる村がでました。
貨幣経済の浸透は大聖寺藩に大きな変化をもたらすことになったのです。