隊員NO.4にいなで~す(^_-)/
11月20日(火)の課題研究の時間に、「加賀の一向一揆」について学習するため、
三木地区会館とお隣の福井県あわら市にある吉崎御坊に行ってきました。
今回わたしたちの講師を務めていただいたのは、庄町にある因乗寺というお寺のご住職・家山勉先生です。
家山先生は、以前高校の社会科の先生をされていた方で、大聖寺実業高校でも教えられたことが
あったそうです。先生は、わたしたち高校生の目線に立って、とってもやさしくお話しをして下さるので、
たのしく勉強することができました。家山先生、本当にありがとうございました。
また、三木地区会館では、加賀市観光ボランティア大学の竹本学長にいろいろとお世話いただきました。
今から約650年前の加賀市の歴史を、家山先生からいただいた年表(『加賀市史』より)で見てみると、
それは「加賀の一向一揆」と関係するものばかりでした。
この時代は、室町時代(1334~1573)とよばれていますが、京都にあった室町幕府の将軍の力は
弱く、反対に地方を支配する守護大名の力が強い時代でした。ですから、1441(嘉吉元)年には、
6代将軍足利義教(あしかがよしのり)が有力大名の赤松満祐(あかまつみつすけ)に殺害されるという
とんでもない出来事も起きています。
支配者の力が弱いと、いつの時代でもまとまりがなく、とっても不安定な状態になります。
まさしく、室町時代の中期がそういった時代で、人々は社会不安の中で生きていかなければ
なりませんでした。そして、何かが起こったときに、いつも苦しめられるのが、社会の下層にいる
「百姓」たちでした。「百姓」とは農民・手工業者などさまざまな職業につく一般人のことです。
この時代には、農業生産力が大きくなり、新たな手工業もうまれてきますが(石川県の輪島塗が
はじまったのもこのころです)、かれらは社会不安の中で、自分の土地や収穫物を自分の手で
守っていく必要があったのです。
そのような背景から、登場するのが武士です。ただ武士といっても、平安時代後期の平氏や源氏の
ようなエリートたちではありません。それは「足軽」といわれる地方の地侍(じざむらい)たちの
ことです。そして、百姓たちは地侍のもと、自分たちの身を守るために協力して生きるようになりました。
そこに成立したのが、「惣村(そうそん)」とよばれる地域的な結合です。かれらは、それまでの
守護-地頭-農民とか、領主-荘官-農民という縦の関係とは違う、横の結びつきをもって、
「惣村」を「自衛」していくようになったのです。
「加賀の一向一揆」は、このような時代背景の中で歴史にあらわれてくるのです。
これからしばらく、家山先生から教えていただいた「加賀の一向一揆と蓮如」のことをレポート
させていただきますので、応援よろしくお願いしま~す!