実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

加賀の一向一揆の背景・寛正の大飢饉(1461年)

2012年11月25日 | 日記

隊員NO.4にいなで~す(^_-)/

11月20日(火)の課題研究の時間に、「加賀の一向一揆と蓮如」をテーマに、

講師の家山勉先生から教えていただいたことをもとにレポートします。

1400年代の中頃(室町時代の中期)は、室町幕府の弱体化がはっきりとして、国内の政治は

とっても乱れました。そしてこの時期を生きた人びとは、つねに死と隣り合わせでした。

大風、洪水、兵乱、餓死、干ばつ、大地震が次々とおこり、加賀でも多くの人びとが親や兄弟、

子どもたちを失っていました。

とくに1459年(長禄3年)からは3年続けて、大雨による水害と干ばつが交互に訪れ、さらに虫害と

疫病も加わって飢饉が全国に拡大します。朝廷は、あまりにも不吉なことが多いので、

12月に元号を「長禄」から「寛正」に改めたといいます。しかし、翌年の1461寛正2)年には、

さらに事態が悪化します。これを「寛正(かんしょう)の大飢饉」とよぶそうです。

国中の人の半ばは死に絶え、西日本地方では死人の肉どころか、生きている者同士が殺し合って

肉を食べたといいます。また都があった京都には、村を捨て(逃散というそうです)、

京へさえたどり着けばなんとか生き延びられるのではないか」と、はかない望みを託して

大量の流民が全国から流れ込みました。

しかし、この京都では飢餓と疫病によって、寛正2年の最初の2ヶ月だけで8万2千人もの

死者が出たと言われています。京都を流れる有名な鴨川の河原には、死体がうずたかく積まれ

ついには川の流れはせきとめられてしまいました。そして今の京都駅の近くでは、毎日3,000体の

遺体が穴に埋められましたが、いつになっても遺体がなくなることはありませんでした

北陸の状況も同じで、越前国坂井郡の人びとが半分死に絶えたという記録が残されています。

このような地獄の日々が続いているのに、室町幕府の8代将軍足利義政は何にもしませんでした。

それどころか、この最中に花の御所を改築しようとして、多くの負担を人々に負わせました。

こうした混乱が、その後「天下の大乱」応仁の乱(1467~1477)へとつながっていくのでした。

こんな時代ですから、加賀の農民たちも困り果てました。「どう生きていけばいいかわからない」のに、

政治は何もしてくれないのです。

家山先生は、「今の時代と、とってもよく似ていませんか?」とおっしゃいました。

たしかに昨年3月11日の東日本大震災と原発事故で、16万人もの人々が家にも帰れない状況なのに、

国政は大混乱して、何も解決していませんよね。

このような時代背景の中で、加賀の人々は、一揆をおこし、自分たちの生活を守っていこうとしたのです。

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