実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

「大聖寺藩士」は江戸時代「松飛様御家中」と呼ばれていました!

2012年11月15日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^_^)v/

11月8日(木)に行われた加賀市観光ボランティア大学第15回講座

大聖寺藩いいとこ つかみどり」で、江沼地方史研究会の伊林永幸先生から、

大聖寺藩にかんするおもしろいお話をたくさん教えていただきました。

←伊林永幸先生から大聖寺藩のことをたくさん教えていただきました!

さて、伊林先生のお話を聞いてビックリしたのですが、わたしたちが「大聖寺藩」、

「前田」、「薩摩」、「長州」なんていうぐあいに、当たり前に使っている「」という

言葉は、江戸時代には全く使ってなかったのだそうです。ですから、江戸時代に

大聖寺に住んでいた人々は、「大聖寺藩」とか「前田」という言い方を一切して

いなかったのです。

」が行政区分の呼び名として使われるようになったのは、実は明治時代になって

からだそうです。1868(明治2)年に明治新政府が没収した土地のことを、大名の

住んでいた所の地名をもって「××」と呼ぶようになったのが、そのはじまりです。

←大聖寺の陣屋があった現錦城小学校

それでは、江戸時代まで、「大聖寺藩」のことは何と呼ばれていたのでしょうか?

大聖寺藩の初代藩主利治(としはる)の父は、金沢藩三代藩主利常で、母は珠姫です。

そして母の珠姫は二代将軍徳川秀忠の娘ですから、利治は将軍秀忠の孫なのです。

その関係から前田家には「松平」の姓が授けられていました。ですので、江戸時代の

人々は、大聖寺の殿様を「前田」ではなく、「松平」の殿様と思っていたのです。

また当時は大名の名前を呼ぶ場合、姓と「官名(受領名)」がセットで使われていました。

「官名(受領名)」とは、朝廷が幕府を通じて大名に与えていたもので、大聖寺前田家は

歴代「飛騨守(ひだのかみ)」や「備後守(びんごのかみ)」を授かることが多かったようです。

(従四位下に相当する官名だそうです。)

そのことから、ふつう大聖寺藩の歴代藩主は、松平の一字「松」と飛騨守の一字「飛」を

合わせて、「松飛様」と呼ばれていました。また、大聖寺藩士たちは、

松飛様御家中(まつひさまごかちゅう)いわれたのです。

みなさん、「大聖寺藩」の武士たちが、「松飛様御家中(まつひさまごかちゅう)

と呼ばれていたことをご存じでしたか?

わたしたちがあたりまえと思っていることが、実はあたりまえでないことって多いんですね。

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「大聖寺藩いいとこ つかみどり」

2012年11月14日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^_^)v/

11月8日(木)1930分から加賀市民会館を会場に、加賀市観光ボランティア大学

15回講座 大聖寺藩いいとこつかみどり-たった1時間であなたは歴史通に-」

が開かれました。

  

講師は江沼地方史研究会の伊林永幸先生でした。

伊林先生は現在、大聖寺町民館長として、大聖寺町史を編さんされていて、大聖寺

詳しいお話しをしていただきました。先生、本当にありがとうございました。

伊林先生は、今回わたしたちのために、「幕末の大名石高表」の資料を準備してください

ました。廃藩置県直前の1871(明治4)年に、わが国にあった藩は全部で270藩前後。

その中で、われらが大聖寺藩十万石は、何と表高(幕府が認定していた石高)で

53番目、実高(実際にとれた石高)で70番目で、270前後あった藩の中でも、上位ランク

だったのです。わたしたちは、お隣の金沢藩が103万石もあるので、大聖寺藩って

小さい藩だってイメージがありますが、大聖寺藩は、実は日本を代表するほど

大きな藩だったのですよ。

同規模の藩でいうと、小田原(現人口19.5万人)、弘前(同18.1万人)、

富山(同42.1万人)大垣(同16.1万人)、高崎(同37.2万人)です。全国にあった藩の

ほとんどが、3万石以下の小藩だったといいますから、大聖寺ってすごかったんですね。

関ヶ原の戦いがあった1600(慶長5)年から1871(明治4)年までの間には、527の

藩が存在したそうです。すなわちそれは、527の城下町があったということです。

そのうち、廃藩となったのが、247藩。ですから、江戸時代にあった藩のうち、最後まで

生き残ることができた藩は、半分しかなかったことになります。

大聖寺藩って、いろんな苦難を抱えながらも、どっこい最後まで生き残った藩

なんですね。最大の外様大名加賀前田家の支藩として、大聖寺藩はどんな歴史を

歩んだのでしょうか。伊林先生から教えていただいたことをもとに、隊員NO.2りかが

レポートしますので、よろしくお願いしま~す!

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鴨池の主と娘のおはなし

2012年11月13日 | 日記

隊員NO.1あさので~すm(_ _)m/

 鴨池観察館」の地下1Fフロアに、片野鴨池にまつわる昔話が紹介されていました。ナカノユキコさんの

すてきなイラストがあって、「鴨池のぬしとむすめ」というお話を楽しく読むことができます。

(1)(2)(3)

むかしむかし、白山の麓あたりに、牛首次郎左右衛門という長者がいました。次郎左右衛門の家は、

二階まで馬車であがるほどの大きな家でした。次郎左右衛門には、年頃の若い娘がいました。

そして娘の所に毎日通ってくる若者がいたそうです。

ところが、この若者には謎が多く、娘は若者がどこに住んでいるのか知りませんでした。若者は自分から

しゃべることはなく、娘もあえて聞くことはしませんでした。

(4)(5)(6)

ところが、娘はどうしても若者のことを知りたくなりました。だって、二人はお互いに好き合っていたのです。

ある日の夕方、娘は帰って行く若者の後を必死の覚悟でついていきました。

そして長いこと歩き、あたりが真っ暗になった頃、気がつくと娘は見たこともないようなのほとりまで来ていました。

すると、若者は人目を気にするように、あたりを見回すと、ゆっくりゆっくりとの中に入っていったのです。

若者が腰くらいまで水に入り、娘が「やめて!」と若者を止めようとした瞬間です。若者は突如、大蛇に姿を変え、

そのまま静かに水の中に消えて行ってしまいました。

(7(8)

悲しみのあまりか、たとえ若者が大蛇であっても添い遂げようと思ったのか、娘は何かに導かれるように、

若者の後を追って池に入っていってしまいました。

この日以来、娘の姿を見たものは、誰一人としていなかったそうです。

坂網猟師が言うには、それから長い年月が経って、一人の山伏が鴨池にやってきて、池に御神酒を注ぎ、

祝詞(のりと)を捧げたそうです。もしかしたら、今でも二人仲良く、誰にも邪魔されずに、この鴨池で暮らして

いるのかもしれませんね。

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片野鴨池「坂網猟」・人と自然の共生を大切にする伝統猟法

2012年11月12日 | 日記

隊員NO.1あさので~すm(_ _)m/

片野鴨池で、江戸時代から300年以上続けられている坂網猟」についてご紹介します。

狩猟の時期は、毎年11月15日からの3ヶ月間です。しかも、実際に猟をするのは、カモがエサを食べに

飛び立つ夕暮れの、たった20分ほどの時間だけです。この坂網猟」は、石川県有形民俗文化財に指定され

ていて、現在、加賀市捕鴨(ほこう)猟区協同組合のみなさん20人余りが、伝統の技を引き継いでいます

このようなきわめて原始的なやり方で猟をしているのは、日本でも鴨池のほか、宮崎市と種子島ぐらいだそうです。

坂網猟」が始まったのは江戸時代の1688年とされます。

大聖寺藩士の村田源右衛門が、魚を捕るために使うタモ網をカモに投げ、捕獲したのがはじまりです。

以後改良が加えられ、大聖寺藩主が武士の鍛錬の一環として坂網猟」を奨励しました。

坂網猟」は、周辺の「坂場」という小高い場所から、坂網(熊手状の網)を上方に高く投げ上げてカモを

とるものです。寒い雪の降る日に、我慢づよく息をひそめ、カモが飛び立つわずかな一瞬に、集中力や読み、

すばやい動作が要求されるので、武士の鍛錬にはピッタリだったのでしょうね。

長い間、この「坂網猟」は武士にしか許されていませんでしたが、明治以降、一般人に開放されました。

←「鴨池観察館」の横にある加賀市捕鴨猟区協同組合事務所

 

「YOU TUBE」で「坂網猟」のようすを見てみました。

まわりを群青色の夕闇がおおう中、猟師さんたちが、坂網を担いで坂道を黙々と登っていきます。

しばらく歩くと、坂場という高台に到着します。猟師さんたちは、数メートルほどの距離を置いて座り、

坂網を水平に持って、カモが飛び立つのをじっと待ちます。物音を一切たてず、みんな息をひそめています。

上空から「バサッ」というカモの羽音と、鳴き声が響いた瞬間、猟師さんがいきなり網を宙に投げます。

カモと猟師さんの勝負はほんの一瞬で決まるのです。

坂網猟」で獲ったカモは、鉄砲で撃ったものと違い無傷で、肉に血が回らないため、肉の臭みがないそうです。

さらにエサ場に行く直前のカモなので、内臓がカラっぽで、肉の味も損なわれておらず、野生のカモだけが持つ

独特のうま味があるそうです。

大聖寺には、冬の間「坂網猟」で獲れた天然ガモを味わえる料亭(「ばん亭」と「山ぎし」)が2軒あり、

全国各地から食通たちがカモを味わうために訪れます。

坂網猟」では、一シーズンにわずか200羽前後しか捕獲しません。一日になおすと、ほんの数羽でです。また、

天候や風の加減では一羽も獲らない日もあります。

けっして乱獲を許さず、数百年もの間、カモと人と自然とが共生してきた「片野鴨池」。

わたしたちもいつか「坂網猟」を実際この目で見てみたいと思いました。

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鴨池がカモたちの楽園になった理由

2012年11月11日 | 日記

隊員NO.1あさので~すm(_ _)m/

片野鴨池」について、つづけてレポートさせていただきます。

鴨池観察館レンジャーの櫻井佳明さんが、わたしたちに問いかけられました。

「なぜ、鴨池がこれだけ多くのカモが集まる楽園になったと思いますか?」

 「えさが豊富だから」「海に近いから」「周りに人がいないから」など、わたしたちはいろいろ考えましたが、

櫻井レンジャーの答えは、

人が鴨池を使って生活していたから!」というものでした。

片野鴨池ができたのは、今から500年ほど前の16世紀中頃だと考えられています。すぐ近くの海岸

から日本海の強風で飛ばされた砂が谷を埋めて、水がせき止められ、池ができたのです。当時は水深が

とっても深い池だったようです。

江戸時代に入った1678年、新田開発をすすめる大聖寺藩主の命令を受けた魚屋長兵衛によって、

この池の西端にトンネルが掘られ、水が抜かれて、池はほぼ今のような姿となり、まわりに田んぼが作られました。

この工事により、池の水深もカモたちがえさをとるのにちょうど良くなり、田んぼモミがいっぱいあることから、

どんどんカモなどの渡り鳥がやってくるようになりました。

1688年には、水田に集まるカモ類を獲る坂網猟(さかあみりょう)が始まったといわれています。

この坂網猟は大聖寺藩によって行なわれ、銃ではなく、特殊なY字の網を空中のカモに投げるという独特の

狩猟方法でした。そして、それ以来鴨池では、ただ単にカモを捕まえるだけではなく、

カモを脅かすものからカモを守る営みが行われるようになりました。

明治時代になった1872年には、民間人が坂網猟を行うようになり、猟師さんたちの組合がつくられ、

より多くのカモを捕獲するために、鴨池の環境を守る活動が続けられました。

「自然を守る」というと、わたしたちは、人間が何もせず、自然に任せっぱなしにすることをイメージしますが、

実は鴨池の自然環境は人間が自然を守りながら、かしこく利用することで守られてきたのです。

地元の人たちが鴨池という自然に関わり始めてから 300年間、カモ田んぼ坂網猟という三つの持ちつ

持たれつの関係が守られてきたことによって、今の片野鴨池が存在しているのです。

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トモエガモと「ふゆみずたんぼ」・片野鴨池

2012年11月10日 | 日記

隊員NO.1あさので~すm(_ _)m/

片野鴨池には、とっても貴重な渡り鳥がいます。それは、絶滅危惧種にも指定されているトモエガモです。

鴨池ではよく見かけるカモの仲間ですが、世界的にはとっても珍しい鳥なのです。

大きさは全長37~43cmくらい。オスの顔の緑と黄色のともえ(巴)マークが特徴で、メスはくちばしの

基部にある白い斑(はん)が目印です。

トモエガモ←トモエガモのオス(ウィキペディアより)

トモエガモは昔、東アジアでもっともポピュラーなカモでした。しかし、乱獲や生息地の減少により、

その数が急激に減少し、最近では日本で5~8,000羽程度しか見られなくなってしまいました。

そのうちの1,500~2,000羽が鴨池にやってきていて、鴨池はトモエガモにとって日本最大の越冬地である

わけです。トモエガモは3月になると、中国とロシアの国境やアムール川を経由して、6月のはじめに

ロシア最北部の北極圏に帰っていきます。だから、トモエガモの保護には国際的な協力がとっても

重要になってきます。

←カモのくちばし

昨日ご報告したように、トモエガモなどカモの仲間は、食事をするとき、水がないとうまくエサを食べること

ができません。

トモエガモも他のカモたちと同じように、夕方鴨池を飛び立ち、加賀市内各所のたんぼに行って、

稲刈りの時に落ちたモミや二番穂を食べています。以前、トモエガモに電波発信機をつけて調査した

ところ、約11km離れた柴山潟周辺の田んぼに多くが集まっていることが分かったそうです。

また、永井・瀬越地区や金明地区でもトモエガモが確認されています。

そこで鴨池観察館では、カモのえさ場を増やすために、農家のみなさんに協力いただいて、

ふゆみずたんぼ”を広めています。ふつう、多くの田んぼは冬の間は水を抜いて乾燥させていますが、

冬でも田んぼに水をためて、カモが食事をしやすい場所を作るとりくみです。

実際、ふゆみずたんぼ”には、たくさんのカモたちがえさを食べにやってきています。

ふゆみずたんぼ”がもっと増えるといいですね。

 

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片野鴨池・「カモってどんな鳥?」

2012年11月09日 | 日記

隊員NO.1あさので~すm(_ _)m/

みなさん、鴨池にやってくるカモって、どうやって食事をしているか、ご存じですか?

11月6日(火)の課題研究の時間に「加賀市鴨池観察館」の櫻井佳明レンジャーから

教えていただきましたのでお伝えしま~す!

←マガモのくちばしには、くしがたくさんあります!

マガモマガモの仲間たちは、食事をするとき、くちばしを水面につけ、”ぶるぶるぶるぶる”と

小刻みに水を震わせます。別に寒くて震えているわけではありません。

実は、マガモたちのくちばしには、”くし”のような突起がたくさん付いていて、これが、エサと水の仕分けをする

役割をしているのです。

カモたちは、いったん、水の中にある水草や雑草の種などのエサを、水といっしょに口の中に飲み込みます。

エサは食べたいけど、水は飲みたくありません。そこで、くちばしを一生懸命震わせます。

そして、くちばしに付いているたくさんの”くし”のような突起は、まるで濾過装置のように、

水をうまく外に捨てさり、エサを”くし”に引っかけて口の中に残してくれます

わたしたち、カモの食事の仕方をはじめて知りました。(なお、オナガカモなどは”ぶるぶる”しない仲間です。)

だから、マガモは、水がないとうまくエサが食べられないのですよ。

 

それから、鴨池のカモたちは、一体、どこで食事をしていると思われますか?

実は、鴨池カモたちは昼間は鴨池にたくさんいますが、夜になるとほとんどその姿は見えなくなります。

どこへ何しに行ったかというと、お食事タイムで、加賀市内いたるところの田んぼに行っているのです。

カモは夜行性の生き物で、夜に活動します。だから、食事も夜にとります。

そして昼間は鴨池でゆったりと休息をしているのです。

みなさん夜家にいるときに、耳を澄ましてみて下さい。ひょっとすると、近くの田んぼから、

「キンキンキン」というカモの声やパタパタと羽ばたく音が聞こえるかもしれませんよ!

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片野鴨池が大切に思われている理由は何か?

2012年11月08日 | 日記

隊員NO.1あさので~すm(_ _)m/

11月6日(火)の課題研究の時間に訪問した「加賀市鴨池観察館」について、櫻井佳明レンジャーから

お聞きしたことをもとにレポートさせていただきます。

片野鴨池」は、北西側は日本海に面し、まわりを水田と山林が混在する丘陵に囲まれた面積約10ヘクタール、

周囲約3キロメートルほどの小さな小さな湿地です。しかし、この「片野鴨池」は、

1969年に石川県の天然記念物に指定されたほか、1993年には越前加賀海岸国定公園第一種特別地域、

国設片野鴨池鳥獣保護区特別保護地区、ラムサール条約登録湿地にも指定され、大切に保護されています。

櫻井佳明レンジャーは、まず最初にわたしたちに質問をされました。それは、

片野鴨池がみんなから大切に思われている理由は何でしょうか?」

というものでした。

みなさん、何だと思われました。その答えは、

たくさんの生き物がすんでいるからでした。

片野鴨池には、絶滅が心配されている希少な動植物がたくさん生息しています。

まずは、天然記念物でもあるマガンヒシクイなどガンの仲間です。ガン類にとっては西日本最大級の

越冬地であり、冬にはだいたい4~5,000羽がやってきます。

そして、とてもうつくしいコハクチョウのほか、オジロワシオオタカなどの猛禽類もきます

オジロワは翼を広げると2m30cmもあって、まるでたたみのような大きいものが飛んできたかと思うと、

カモを捕らえていきます。それから、トモエガモなどのカモ類がいます。鴨池はトモエガモにとっては

国内最大級の渡来地になっていて、約2,000羽ほどが羽を休めます。

植物では、紫色の花を咲かせるミズアオイや、黄色の花を咲かせるコウホネなど、希少な水辺の植物が見られ

ます。そして、普段からわたしたちが身近で見かける生きものもたくさんすんでいます。

「実は、これらの生きものが安心して暮らしていける自然が残されているからこそ、希少な生きものもやってくる

のですよ」と、櫻井佳明レンジャーは話してくれました。

「人の暮らし」と「自然の恵み」が共生しながらつくられた片野の鴨池の環境。

いつまでも水鳥の楽園であり続けるために、わたしたち加賀市民一人ひとりが活動していかなければ

なりません!

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野鳥の楽園・加賀市鴨池観察館

2012年11月07日 | 日記

隊員NO.1あさので~すm(_ _)m/

紅葉のきれいな季節になってきましたが、みなさんお元気ですか?

11月1日にUPさせていただいた「紅色に染まるドウダンツツジ・加賀市中央公園」が、

このたび「にほんブログ村」の中部注目記事第2位にランクインしました。

いつも、たくさんのみなさんに閲覧していただき、本当にありがとうございます。

実高ふれ愛隊、これからも頑張りますので、応援よろしくお願いしま~す!

さて、11月6日(火)の課題研究の時間にトモエガモやヒシクイがいよいよ飛来を始めた「加賀市鴨池観察館

を訪問させていただきました。現在、鴨池にはシベリアからやってきた約2,000羽のカモたちが羽を休めています。

そして、レンジャーの櫻井佳明さんから、鴨池観察館のこと、伝統猟法・坂網猟のこと、

”ふゆみずたんぼ”のことなど、たくさんお話しをしていただきました。櫻井レンジャーありがとうございました。

レンジャーの櫻井佳明さんは名古屋出身で25歳。大学を卒業してすぐに日本野鳥の会の職員になり、

加賀市鴨池観察館」にやってきました。とっても元気で、説明もわかりやすかったです。

なぜかクロックスを履いていて、靴下をしていませんでした。隊員NO.5あやかが「どうして?」ってお聞きしたところ、

「いつもそうです。でも雪が降ったときには、失敗しました」と頭をかいて説明してくださいました。

とてもチャーミングな方で、独身だそうですよ。

トモエガモやヒシクイのこと、櫻井レンジャーにいろいろと熱心に説明していただいたことを、

これからご報告させていただく予定ですので、よろしくお願いしま~す!

そして、みなさん加賀市鴨池観察館」に足を運んで、カモたちのウォッチングをして下さいね!

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旧上新保村があった石川県県民の森

2012年11月06日 | 日記

隊員NO.4にいなで~す(^_-)

加賀市観光ボランティア大学第14回講座「九谷焼のルーツと東谷地区を訪ねて」に参加させていただき、

上新保町にある「石川県県民の森」を訪問しました。

石川県県民の森」は1979年に開設されました。キャンプやバンガロー・ログハウス・ケビンなどを利用した

宿泊体験や、渓流遊びができます。あたり一面には、針葉樹の森独特の、神々しいまでの冷気が漂い、

高くそびえる樹齢100年以上のスギ林や、イワナやヤマメが棲息する「清流」杉ノ水川があります。

また健脚にはうってつけの、大日山、白山、日本海が遠望できる標高560mのパノラマコースもあり、

「新保の森」では屏風岩も見学できます。

残念ながら、雪が早くに降ることから11月に入って閉鎖され、3月末までは冬休みになっています。

『山中町史』によると、ここ石川県県民の森」は、かつて上新保村という所でした。

上新保村は、1889(明治22)年に東谷奥村の大字となり、昭和30年山中町の町名となりました。

明治22年には13戸94人が住んでいましたが、1877(明治10)年頃から過疎化が進み、

1896(明治29)年に大洪水の被害を受けたことから、政府のすすめもあり、

全住民が北海道へ移住して廃村となりました。

上新保村にあった白山神社は、無住地となったことから、杉ノ水町の吉備社に合祀されたそうです。

「新保の森」にある屏風岩には、昔この土地で暮らした人々が北海道へ移住することになった時に、

祖先の苦労をしのび、彫った蹟が残されています。また、この上新保村には一つのエピソードが残されています。

この集落の住人は元々は福井県の平泉寺に住んでいたのですが、一向一揆の時に、難を逃れるため、

現在の石川県小松市新保町の奥に移り住みました。しかし元住民とのいさかいによりそこも追われ、

上新保村に住むことになったというのです。

山がちな地形の日本では、かつて狭い土地を有効に使うため、山奥に人びとの生活拠点が置かれました。

わたしたちは、わが国の歴史をみていくとき、高度経済成長とともに、忘れ去られがちであった山村の人々の暮らしを

見つめ直す必要があります。

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複雑な思いで「辻政信」の石碑を見る・今立町

2012年11月05日 | 日記

隊員NO.4にいなで~す(^_-)

今立町に破天荒な生涯をおくった人物の石碑が建っていました。そしてこの人物について語るとき、

地元の加賀市民はとっても複雑な思いに包まれます。

Tuji Masanobu.jpg←辻政信(ウィキペディアより)

その人の名は、辻 政信(つじ まさのぶ、1902年10月11日生まれ、1961年に行方不明)。

日本の軍人、政治家で、軍人としての階級は陸軍大佐でした。第2次世界大戦後、衆議院議員(4期)、

参議院議員(1期)などを歴任しました。

辻政信は今から51年前、参議院議員在任中にラオスで消息を絶ちました。

辻政信は、アジア太平洋戦争のさい、参謀本部で対米主戦論を繰り広げ、1941年の対英米戦開戦と同時に

始まった東南アジアへの快進撃などで、マスコミに「作戦の神様」とたたえられました。

その一方、独断専行ぶりも知られ、ノモンハン事件、シンガポールでの華僑虐殺、ガダルカナル島の戦いなどでは、

陸軍の汚点ともいえる歴史的事件に関わったという指摘があります。

その才能と行動力が高く評価される反面、戦後においてもGHQから「第三次世界大戦さえ起こしかねない男」

と危険視された人物です。

 ←辻政信の生家

辻政信は、いまの今立町で父亀吉、母もとの間に、4人兄弟の次男として生まれました。

お父さんは炭焼きで生計を立てていました。辻少年は荒谷尋常小学校、山中高等小学校を主席で卒業しました。

その後苦学の末、陸軍士官学校に入学し、ここも首席で卒業したといいます。とても秀才だったんですね。

 

タイで終戦を迎えたは、僧侶に姿を変え、中国から日本へと潜行します。そして1950年に戦犯を免れると、

その間の手記を『潜行三千里』として出版し、一躍ベストセラー作家になりました。1952年には衆院選に

旧石川1区から立候補し、4回連続当選します。当時の地元民衆は辻政信を熱狂的に支持したといいます。

七尾市出身で直木賞作家の杉森久英(1912~97年)は、伝記『辻政信』の中で、衆院議員になった後の辻に

直接取材した時の印象を記しています。 

「僕の身体の中には、世界の五カ国の弾が入っています。最初は上海事変で中国の弾・・・

次はノモンハン事件でロシアの弾…」

数多くの戦場を踏み、弾丸をかいくぐってきたことを誇る辻に対し、杉森はその豪胆さを率直に認めつつも、

そのよどみない話しぶりに違和感を覚えたそうです。

「その時私の気になったのは(中略)、レントゲン写真を取り出してくる手際のよさであった」

戦場での勇気に不足はなく、戦後も戦友の遺族に金を送るなど、情に厚い面もある。

でも、それを人に黙っている男でもない。杉森久英はそのように辻政信を評したのです。

渡航先のラオスで行方不明となった辻政信は、半世紀以上経っても、多くの史家や作家がその実像を追う「怪人物」です。

美しい山里・今立で生まれた少年は、なぜこのような希有な人生を送ることになったのでしょうか?

(ブログ作成にあたっては、「YOMIURI ONLINE」の『消えた参謀』(2011年11月9日)を参照しました。)

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タヌキもおでまし・里山の原風景が広がる大土町

2012年11月04日 | 日記

隊員NO.3せりかで~す(^_^)v

10月20日(土)に開催された加賀市観光ボランティア大学第14回講座で、「赤瓦と煙出しの里」加賀ひがしたに

地区を訪ねました。この加賀ひがしたに地区(荒谷町、今立町、大土町、杉水町の4集落)は、昭和中期以降、

急速に過疎化が進み、ダム建設により全体が消失する集落が多い中、独特な集落景観を残していることから、

平成23年11月に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。ですから、日本の里山の原風景が見られる

すごく美しい場所なのです。この日は、秋晴れに恵まれて最高の散策日和になりました。

わたしたちは、荒谷町、今立町を見学した後、大土町へ行きました。大土町は、加賀ひがしたに地区

4つの集落のうちでも、最深部にあります。

規模は小さいのですが、建物が散居的な配置になっていて、石垣・水路など昔の山村集落の景観を残しています。

ここには大土生水といわれるわき水がありました。手ですくって飲んでみると、冷たくてとってもおいしかったです。

この水は一年中、水温がほとんど変わらないふしぎな水だそうです。

それから、大学のみなさんと、”葉わさび”を味わいました。わたしたちは初めての体験だったので、おそるおそる

噛んでみました。天然のわさびって、こんなふうになっているんですね。

そして、なんとかわいいタヌキが木の間からひょっこりと顔を出しました。あわてて写真を撮りましたが、

「ごめんなさい!」後ろ姿だけしか撮ることができませんでした。

加賀市には「日本の原風景がたくさん残っている」と聞いていました。これまでも大聖寺町家や北前船主の家屋を

見学して、納得していたのですが、今回加賀ひがしたに地区を訪ねて、あらためて加賀市の魅力の奥深さを

実感しました。

市街地からの距離もとっても近いので、みなさん、是非加賀ひがしたに地区を見学してください!

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加賀市の星・日大ボクシング部の柏崎刀翔先輩

2012年11月03日 | 日記

隊員NO.4にいなで~す(^_-)/

10月22日(月)から11月2日(金)までの2週間、すてきな先輩が大聖寺実業高校に来校されました。

それは日本大学経済学部に在学中で、関東大学ボクシング1部リーグで活躍されている柏崎刀翔先輩です。

わたしたちの4年先輩で、2009年3月に電子機械科を卒業されました。

今回は公民科の教育実習生として、母校の教壇に立たれ、わたしたち3年生に「現代社会」を教えて

下さいました。

柏崎さんは現在、日本大学ボクシング部4年で、副主将ををつとめています。

ボクシングのメッカ「後楽園ホール」で行われる関東大学ボクシングリーグ(ライトフライ級)で活躍中です。

大学での個人戦の通算戦績は、19戦16勝3敗。4年になった今年は、団体戦、個人戦ともに全勝で

個人賞を獲得しました。

柏崎刀翔選手のミット打ち動画

(↑クリックすると、日本大学ボクシング部ブログにリンクします。)

11月22日から東京都日野市で行われる「第82回全日本アマチュアボクシング選手権大会」では、

同階級の優勝候補NO.1として出場されます。

この大会は、アマチュアボクシング界最高峰の大会で、昨年度の最高選手賞はロンドンオリンピックで

金メダルをとった村田諒太選手です。

「柏崎先輩、絶対優勝してくださいね!」

柏崎先輩は、小学校3年からボクシングを始めたそうです。小松市のボクシングジムでずっと練習を重ね、

高校3年の時には、全国インターハイや国民体育大会(少年)で、モスキュート級準優勝に輝きました。

一時は、プロ入りも考えられましたが、恩師の体育の先生から、

「プロ入りはいつでもできる。まずは大学へ行ってみないか?そして先生になって後輩を指導する道も

あるんだぞ!」というアドバイスを受けて、教職課程を目指されたのです。

柏崎先輩は、ボクサーなので、「怖い人なのかなぁ?」と思っていましたが、話をすると、とっても

やさしくて、親しみやすいナイスガイでした。

←マラソン大会で力走する柏崎先輩

先日の校内マラソン大会にも飛び入り参加されて、男子300人中第4位でした。(本当は、優勝できたけど、

後輩に花を持たせてくれたのかなって思います。)

加賀市の星・柏崎先輩、全日本アマチュアボクシング選手権で優勝してくださいね!

そしてこれからも頑張って、いつかわたしたち実高生の先生になって下さい。お願いしま~す!

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日本で二番目に大きいオオサンショウウオ・加賀市荒谷町

2012年11月02日 | 日記

隊員NO.3せりかで~す(^_^)v

レポートが遅くなりましたが、わたしと隊員NO.4にいなの二人で、10月20日(土)に開催された

加賀市観光ボランティア大学第14回講座「九谷焼のルーツと東谷地区を訪ねて」に参加させていただきました。

今回は、わたしたち特別研修生二人も加賀市のマイクロバスに同乗させていただきました。

大学のみなさん、ご配慮いただき、ありがとうございました!!バスから眺める東谷の風景はとってもきれいでした。

さて、今回の講座で、わたしたちがビックリしたのが、この加賀市に日本で二番目に大きい

オオサンショウウオがいたことです。 

このオオサンショウウオがいるのは、山中温泉荒谷町口にある石川県内水面水産センターです。

オオサンショウウオは世界最大の両生類として有名で、1952(昭和27)年には国の特別天然記念物に

指定されました。加賀市のオオサンショウウオは、1973(昭和48)年に大聖寺川鶴仙渓で保護されました。

それ以来、加賀市(当時の山中町)から管理を委託され、石川県内水面水産センターで飼育されています。

保護されたときは、120cm、16kgでしたが、2006年の測定では、135cm、19.2kgになり、

全長で国内タイの1位となりました。2008年の測定で兵庫県城崎マリンワールドの

オオサンショウウオに一位の座を譲りましたが、現在でも国内第二位の大きさを誇ります。

現在、当センターでは2体が保護されています。

今年7月29日に行った測定では、大きい方が全長136.0cm、体重18.86kg、

小さい方が全長120.0cm、体重17.74kgでした。

このオオサンショウウオは、年齢は不詳、オス・メスの判別も不明で、すごくミステリアスな生物です。

一見グロテスクにみえますが、近くでよく見ると、かわいい手足でっかい口など、とってもユーモラスで

愛嬌がありましたよ。オオサンショウウオエサは、魚類・両生類・エビカニ類・水生昆虫類など

ですが、特にカエルが大好物だそうです。

わたしたち二人だけでなく、大学の皆さんもワイワイガヤガヤと、オオサンショウウオを観察されて

いましたオオサンショウウオさん、これからも長生きしてくださいね!

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紅色に染まるドウダンツツジ・加賀市中央公園

2012年11月01日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^_^)v

10月30日(火)に開催された大聖寺実業高校マラソン大会の会場となった加賀市中央公園にある

ドウダンツツジご紹介します。

いま、ドウダンツツジはすっかり色づいて真っ赤に紅葉しています。見頃は11月上旬~下旬でしょうか。

この日はあまり日差しがなかったのですが、陽が当たると一層あでやかな色合いになるはずですよ。

 

ツツジ科の仲間は、秋になると葉を落とすものと落とさないものがあるそうです。ドウダンツツジは葉を落とす種類で、

秋になると、真っ赤に紅葉するのです。

←ドウダンツツジの花(ウィキペディアより)

ドウダンツツジは、春(4月中旬)には、釣り鐘状の白い小さな花を咲かせ、秋にはきれいに紅葉するなど、季節ごとに

楽しめる樹木です。さらには、強くて枝をばっさり切ってもよく芽吹き、大きさや高さをコントロールしやすいことから、

公園や道路脇の植え込み、庭木などに幅広く利用されます。

枝が細かく分かれて葉っぱが密生するので、上手に刈りこまれた株は見事です。

ドウダンツツジを漢字で書くと、「満天星躑躅」というとんでもなく難しい名前になるそうです。

漢名の満天星は古い中国の故事に由来しています。その故事とは、「昔、仙宮で霊薬を練るうち、誤ってこぼした霊水が、

この木に散って壷状の玉(ギョク)になり、まるで満天の星のように輝いた」というものです。

また、ドウダンツツジは、「灯台躑躅」とも書きます。名前のいわれは、細枝の分かれた形で結ぶ灯台

(細く丸い3本の木を緒で結び合わせ、その上下を広げ、上に油皿をおいて点火するもので宮中行事で使われたもの)

の脚に似ていることにあるそうです。「ドウダン」という読み方はこの「灯台(トウダイ)」が転じたものとされています。

みなさ~ん、加賀市中央公園を散策して、見事なドウダンツツジの紅葉を是非ごらんください!

←写真中央の緑の葉っぱは、「ヒラドツツジ」です。 

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