グレートノーザン鉄道

アメリカのグレートノーザン鉄道の実物(歴史、資料等)と鉄道模型(HO:レイアウト、車両)に関するプログです。

「Wood's Book」翻訳:第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー (その1)

2005年08月09日 | Wood's Book翻訳
 1889年のグレートノーザンの創立と1893年の太平洋岸への大陸横断の完成との間の数年間には、セントポールとシアトルとの間のファーストクラス列車のネーミングについてはほとんど考えられていなかったようである。実際、この時期、James J. Hillは、プレステージのある旅客列車にはあまり興味は無く、それよりも主に、移民、農産物、材木、鉱産物、製品等を輸送することに興味があったことを、多くの証拠が示している。1892年には、モンタナ州ビュートまでモンタナエキスプレスが走り、更に北には、本線がロッキーに延びるのに従って各駅停車列車が走っていた。鉄道完成後に走っていたのは、グレートノーザンフライヤー、グレートノーザンエキスプレス、そして、単に列車番号が付いた列車だった。1890年代終盤、ユーコンのゴールドラッシュがブームとなり、シアトルに出入りする多くの列車や船が金を求める人たちでごったがえしていた頃には、アラスカリミテッドも走っていた。
 1905年1月、本線が開通してから12年後に、オリエンタルリミテッドが、グレートノーザンの名のある列車として走り始めた。多分、この名前は、James J. Hillが長年温めていたものだろう。カナダの彼の家を離れてから、太平洋までの道のりを建設し、そして東洋へと向うことが、少年時代からの夢であった。1,800マイルもの、平原、山岳を走り、海へと到る列車にこの名前はふさわしくないと思われるかもしれないが、James J. Hillのビジョンは、線路の終点のはるか先まで届いていた。実際、太平洋の東岸の港まで、7,000マイルにわたって伸びていた。利益の大きい東洋との貿易は主にカリフォルニアの港で扱われており、毎年増大していた。Hillは、この貿易にGNを参画させようと数年前から動いていた。
 1896年に、彼はCaptain James Griffithを日本に送り、日本郵船(NYK)との交渉に当たらせた。その結果、同年後半にはセントポールで契約調印にこぎつけた。1896年8月31日、蒸気船三池丸がエリオット湾に入り、その日、その到着を盛大なパレードで祝った。シアトルにとって最初の太平洋航路の蒸気船である三池丸は、シアトルの貿易港としての優位性を際立たせた。GNは今や、セントポールから世界の半周に渡る定期貿易路を持つに至ったのである。小麦粉、綿、木材、鋼材、そして製品が、シアトルまでGN鉄道で運ばれ、更にそこから日本の船で東洋へと運ばれた。
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