京の話題

12000年以上続いた「平安京」の文化・寺社仏閣・お祭り等を紹介します。

京の話題(平安京その303)薩摩藩の祈願所・大黒寺

2012-07-31 00:21:23 | 京の話題

初めは、「真言宗」のお寺で「長福寺」と言う名でした。

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元和元年(1615年)、薩摩藩主の島津義弘の守り本尊「出生大黒天」に因み、薩摩藩の祈願所として、大黒天を本尊に寺名を改名しました。

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山号は「円通山」と称する、「真言宗東寺派」のお寺です。別称は「薩摩寺」

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元和元年は「関ヶ原の合戦」から、たった15年後の事です。いかに、この後「薩摩藩」が新政権の「徳川幕府」に、見かけは、従順になったのか、このお寺一つ見ても分かります。

伏見区鷹匠町

(たわごと) 薩摩隼人の優しさとたくましさ、と、ロンドンオリンピックの柔道

今日の記事で、薩摩藩が関ヶ原の合戦後たったの15年で、堂々とこの伏見の地に勅願寺を設け徳川幕府に従順した(表向きは)のち、約260年後に徳川幕府を倒したしたたかさ。

薩摩の国(江戸時代の国は、倒幕派で国名を変えても、一応その国(県)のエリアや県庁所在地の場所や名前は変わっていません。薩摩はそのまま鹿児島県(市)、土佐は高知県(市)・肥前は佐賀県(市)等いい例です。長州毛利藩は長門国だけでなく一部周防国も領地で有ったため二つが統合され山口県となりました)いかに、明治新政府の薩長土肥の力が強かったかが分かります。(ちなみにJRの県庁所在地で本線が通じていないのは「山口」だけです。山陽本線の支線で山口線です、これも不思議な事です)勿論、「沖縄県」はJRは有りません。

薩摩の国(鹿児島県)はあまり大きな産業の無い所でした。私も長い経験で一度だけ、鹿児島県に出張しましたが、お客さん(ユーザー)が上や下へのおもてなしをして頂きました。良い所で、人柄も良い方ばかり、しかしお酒が強く無いとネ。

ロンドンオリンピックで柔道のジュリー制度と今の他国の柔道を見て。

恥ずかしながら、私も、中学生の時は柔道部で二年半位しごかれました。暴力事件でクラブは潰れましたが(勿論、私は関係していません)高校の時は、他に柔道をする人あまりはおらず、体育の柔道の授業は怖いもの無・敵はいませんでした。しかし、昔の柔道は、「一本」か「技あり」だけ。(勝負がつかなければ判定は有りましたが)柔道は、日本の武道です。(もっとも、明治になって「嘉納治五郎」が武道の「柔術」からスポーツとして創技したものですが)他国の、オリンピックに出場している方達は、道着が乱れて、帯から出ていても、ちゃんと直さずだらしの無い姿でしているのを見ると、柔道の真髄は何処へ行ったのかと思います。単なるスポーツで無く、武術としての精神が無い、今の世界の柔道。日本人の柔道家は武術として、その精神で戦っています。


京の話題(平安京その302)美しい社殿しかし歴史有る・御香宮神社

2012-07-30 00:08:11 | 京の話題

「御香宮神社」の創建は、貞観4年(862年)境内から清泉が湧きだし、良い香りが周囲に広がりました。そして、この水を飲むと病がたちどころに治ったところから、清和天皇から「御香宮」のなを賜りました。

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御祭神は「神功皇后」「応神天皇」他9柱を祀っています。

度々の兵火で衰微しましたが、「豊臣秀吉」の伏見城築城のさいし、城の東北の鬼門を守るため「大亀谷」に移されました。「豊臣秀吉」は朝鮮出兵にあたって、この宮に戦勝祈願し、社領といまの社宝となる「金慰斗太刀」(きんのしのたち)を寄進しました。

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また、「徳川家康」は伏見城滞在中、徳川三家の藩祖となる、尾州「義直」紀州「頼宣」水戸「頼房」などの「産土神」となり、旧地に戻し社殿を造営しました。

「割拝殿」と「五間社流造り」の本殿との間は屋根つきの廊下で結ばれ、「拝殿」「本殿」とも蟇股(かえるまた)や柱に極彩色の装飾が施されています。

「拝殿」から「本殿」まで。

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本殿の左には絵馬堂があり、社務所内には「小堀遠州出世」の石庭が再現されいます、しかし、現在は改修中で見る事が出来ませんでした。

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しかし、参道から本殿は長く、広々とした、いかにも歴史を持つ神社です。

伏見区墨染町741

(たわごと) 上記に有る、徳川御三家の事。

少し真面目に(いつも真面目ですが)徳川御三家の事。

普通、徳川御三家は「尾州家」「紀州家」「水戸家」と言われていますが、あれは全くの誤解です。御三家とは「江戸将軍家」と「尾州家」「紀州家」です。その証拠に「尾州家」と「紀州家」の最高の「階」は「大納言」で「水戸家」は黄門様で有名な「水戸家」の最高の「階位」は「従三位中納言」(じゅさんみ)です。徳川将軍は「従一位征夷大将軍」です。

その為、江戸中期から「御三卿」があり(田安家・一橋家・清水家)が大名では無いですが、補助的に、宗家「徳川将軍家」に嫡子が無い時にここから継承する資格を有しました。結果的に「尾州家」から将軍になった者は、十五代将軍中一人もいません。例外的に、「水戸慶喜」(水戸斉昭の子)が「一橋家」に入りその後、最後の将軍になりました。(紀州家からも吉宗が将軍になりました)

また、水戸黄門の「黄門」は中国の職の名前で、「中納言」を隠居した職名です。ですから「黄門」は京の公家達に多くいました。もうTVで「水戸黄門」は終わりましたが、そのなかで最後に有る言葉「このお方は先の中納言、水戸光圀公」と言っていますがあれは正しい言葉です。いわいる、「副将軍」とも言われる「水戸家」は「将軍家」を補佐する正式な職では無かったのです。(徳川家康が二家が逸脱した時にいさめるのに水戸家を作ったとされています、よって水戸家のみ江戸在府で参勤交代の義務は有りませんセした)

そのためTVで「このお方は天下の副将軍」と言うのは少し、間違った表現です。


京の話題(平安京その301)祇園祭の神事・神用水清祓式・神輿洗式

2012-07-29 00:10:35 | 京の話題

一ヶ月にわたる「祇園祭」の神事も後少しになりました。四条大橋近くの「仲源寺」(めやみ地蔵)http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20111225で神官や役員が集合します。

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28日の午前には、24日に「還幸祭」http://itodoya.blog.ocn.ne.jp/blog/2012/07/297_c266.html#commentsをを終えた御輿を清める神用水を汲み上げる神事「神用水清式」が行われました。

「仲源寺」から四条大橋への行列。

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鴨川から「神水」を汲み上げます。

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また、夜になると10日に行われた同様の行事ですが、「神輿洗奉告祭」が「八坂神社」で行われた後、大松明が道を清め、「中御座」を舁き、四条大橋にて神職が神用水にて祓を行います。

神社に還ると舞殿を一周した後、神輿庫にしまいます。

最初に「大松明」です。

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この「大松明」を垂直に立てます。

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その後、「中御座」のお御輿(祭神・素戔鳴尊)が威勢よく、四条大橋までやって来ます。

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ここで、午前に汲み上げた「神用水」で、洗い清めます。

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洗い清めた後、再び「八坂神社」に還り、「神輿庫」に収められます。

この神事は御輿以前から古い「御霊会」の形態を残すものであると言われています。

この神事が終わると、いよいよ31日、最後の「疫神社夏越祭」で「祇園祭」の幕が下ります。長くもまた短い梅雨から真夏にわたる、一か月の「祇園祭」もあと少しで終わります。(しかし、町衆は来年の用意をしています)

(たわごと) 最近読んだ超一押しの本です。(別に宣伝では無いですが)

時間があれば、政治・経済・法律・科学・歴史・芸能・文化・健康(医療)・エロ本(これはウソ)などの本をジャンルはともかく色々な本を読んで、最近「目から鱗」の本です。

ベストセラーですので、御存じの方もおられる思いますが、「空腹が人を健康にする」(南雲吉則Dr著・サンマーク出版)の本です。今まで、常識をくつがえす内容でが、納得も納得しました。

戦前までの日本人は「メタボ」「糖尿病」「癌」「アレルギー」「うつ病」「高血圧」等は少なかった。今の、「抱食」の人間は多くの「病魔」が待ちうけているという内容の本です。結論は、

①一日一食(または一汁一菜)

②野菜は葉ごと皮ごと根っこごと、魚は皮ごと骨ごと頭ごと、穀物は全粒で。

③睡眠は夜の10時から夜中の2時までのゴールデンタイムを含むように。

詳細は、この本を。絶対「目から鱗」です。100歳まで肌がつやつやでウエストがくびれている秘訣の本です。めったに無い「盲腸癌」が末期で発見されて「大腸」の1/3を切除して元気に生きている私の経験から読んだ本です。絶対、納得しますョ。


京の話題(平安京その300)祇園祭のルーツ・神泉苑

2012-07-28 00:11:52 | 京の話題

ジャーン。平安京300回記念です。これを記念して、「祇園祭」のルーツの「神泉苑」を参拝します。

「祇園祭」のルーツは、貞観11年(869年)京の町に疫病(コレラ)等が流行した時「神泉苑」に当時の国の数(66ヶ国)の分の66本の矛(ほこ)を立てて、祇園社の神を祀り、御輿を出して、疫病退散を祈りました。これが「祇園御霊会」(ぎおんごりょうえ)と呼ばれ「祇園祭」の始まりとされています。

これがその当時「神泉苑」に立てた「矛」(鉾)のルーツです。

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よって、ここ「神泉苑」は「八坂神社」よりもより古い「祇園祭」に関係した所です。この「神泉苑」は寺院で、「東寺真言宗」御本尊は「聖観音」で開祖は「弘法大師」(空海)、創建は天長元年(824年)別称は「ひでさん」と言います。

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元は平安京大内裏(平安遷都時の御所)http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20110909に接して造営された禁苑(天皇のための庭園)でした。境内に「大歳神・歳徳神」(としとくじん)を祀る毎年大晦日の晩に恵方に祠の向きを変える点が他の神社仏閣と異なる祠が有ります。(日本で唯一ここだけに見られる祀り方であると伝えられています)

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この、祠を観察すると360度回転できるようになっている事が分かります。

後に、「桓武天皇」が行幸し、延暦21年(802年)には雅宴が催されたとあり、この頃から「神泉苑」は天皇や廷臣の宴遊の場になりました。

「法成就池」

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中世以降は荒廃しましたが、慶長8年(1603年)、「徳川家康」が二条城をhttp://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120522造営した際には神泉苑の敷地の大部分が城内に取り込まれて著しく規模を縮小しました。

「本堂」(聖観音・不動明王・弘法大師像)

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天明の大火天明8年(1788年)で、堂等社殿を焼失し、現在に至っています。

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寺領(社領)内は静かで、今、祇園祭の真っ盛りと思わない時間が過ぎていくような所です。

中京区御池通神泉苑町東入門前町166

(たわごと) 祇園祭の「町衆」のパワーのすごさ。

京都三大祭りは御存じのとおり、「祇園祭」「葵祭」「時代祭」です。http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120517

「葵祭」言うまでも無く、公家のお祭りです。6世紀平安京が遷都される前に、五穀豊穣を祈願して行われたのが起源とされています。

「祇園祭」は貞観5年(863年)のに「祇園御霊会」としてその後、貞観11年(869年)に「素戔鳴尊」(牛頭天王)を祀り疫病退散を祈り、これが起源とされています。

「時代祭」は比較的新しく明治28年(1895年)に始まりました。

「葵祭」と「祇園祭」は応仁元年(1467年)の未曾有の内乱(応仁の乱)で多くの建物や宝物等が焼失して、中断を余儀なくしています。

しかし「祇園祭」はこの難関を切りぬけて、町衆の力でたった33年後、明応9年(1500年)に山鉾33基が復興して、祭りが再開されました。しかし、公家の祭り「葵祭」の復興は、明治17年(1884年)まで、417年もかかっています。なんと京の町衆のパワーの凄い事。(公家の力では、明治の行政の力を借りなくては、復興は出来ませんでした)

天明の大火、天明8年(1788年)で焼失した、昭和の鉾「菊水鉾」の復興。そして元治の大火、元治元年(1864年)http://itodoya.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/12/で焼失した「大船鉾」http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120715の二年後の復興が楽しみです。


京の話題(平安京その299)銀色でないのに・銀閣寺?の謎

2012-07-27 00:10:12 | 京の話題

「金閣寺」「銀閣寺」とも世界文化遺産です。

「金閣寺」(鹿苑寺)は室町幕府将軍「足利義満」が造営しました。http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120220そしてその孫、八代将軍「足利義政」が東山の「月待山麓」に「銀閣寺」(慈照寺)を祖父が造営した「金閣寺」を摸して造営しました。「銀閣」というのは、寺院のなかのひとつで、「観音殿」のことです。ではなぜ「金閣寺」は金ピカなのに「銀閣寺」は銀色でないのでしょう?

この八代将軍「足利義政」の妻は、かの有名な恐妻「日野富子」です。この時代になると、室町幕府の権威は地に落ち、地方の豪族や武士が力を持ち、その後の「応仁の乱」の幕開けに結びついていきました。「義政」は政治には無頓着になり、隠棲地を「岩倉」や「嵯峨」あたりを探しました。そしてついにここ「浄土山」の山麓に定めました。しかし、財政難から初めから銀箔などは塗る気は無かったのです。たった四畳半の茶室が有れば十分と考えました。

造営は文明14年(1482年)から始まりました。ここ参道を入ると小さな山門が有ります。

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結局、義政はこの建物の完成を見ずして延徳2年(1490年)に中風のために死にます。

「観音殿」(国宝)。一切銀色と関係ないです。(一応、銀箔が貼れるように、表面は「黒漆」になっていますが、その為に何百年の歳月が経ても綺麗な表面で保っています)※銀箔を貼るためにしたかは定かでないですが。

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「東求堂」(国宝)

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「義政」の遺命により「東山殿」がお寺となり「相国寺」http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120329から住持を迎えて「義政」の法号から「慈照寺」となずかられました。

庭のやまの頂きから眺める「銀閣寺」(観音殿)です。

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「銀閣寺」と呼ばれるようになったのは、この「銀沙灘」(ぎんしやだん)や「向月台」(こうげつだい)で、ここに月光が反射すると、「観音殿」は銀色に輝くようになっています。

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そのため、後年「金閣寺」に対して後に「銀閣寺」と通称呼ばれるようになりました。(あくまでも銀閣寺はニックネーム)

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ですから初めから「足利義政」はポケットマネーで造営したこの建物に銀など塗る予算は初めから無く、「金閣寺」にまねた、静かな隠棲地(恐妻から逃げる)を求めていたにすぎないと言うのが定説です。観光に来られた方が銀色で無く、ガッカリされますが、むしろこの「銀閣寺」こそ室町東山文化の最後の結晶と言っても過言ではないと思います。(ちなみに、「義政」の恐妻「日野富子」はこの造営に一切お金を協力しなかったとう事です。「義政」の気持ちも分かります)

左京区銀閣寺町2

(たわごと) 祇園祭の伝説

長刀鉾がいつも「くじ取らず」の先頭に巡行するのは何故でしょうか。

現在の祇園祭の「くじ取らず」の鉾や山は(大船鉾を入れて)九基有ります。昔は、先を争って少しでも「八坂神社」(昔は八坂神社に向かいました)に行く事を競いました。ではなぜ「長刀鉾」がいつも先頭か?それは簡単な事です、今は四条通は(以前は市電が二車線走っていました)広いですが、その当時は四条通は狭く、前の鉾を追い越す事が出来なかったのです。

その為、一番八坂神社に近く建っている「長刀鉾」が先頭を行かざるおえなかったという事です。