「御香宮神社」の創建は、貞観4年(862年)境内から清泉が湧きだし、良い香りが周囲に広がりました。そして、この水を飲むと病がたちどころに治ったところから、清和天皇から「御香宮」のなを賜りました。
御祭神は「神功皇后」「応神天皇」他9柱を祀っています。
度々の兵火で衰微しましたが、「豊臣秀吉」の伏見城築城のさいし、城の東北の鬼門を守るため「大亀谷」に移されました。「豊臣秀吉」は朝鮮出兵にあたって、この宮に戦勝祈願し、社領といまの社宝となる「金慰斗太刀」(きんのしのたち)を寄進しました。
また、「徳川家康」は伏見城滞在中、徳川三家の藩祖となる、尾州「義直」紀州「頼宣」水戸「頼房」などの「産土神」となり、旧地に戻し社殿を造営しました。
「割拝殿」と「五間社流造り」の本殿との間は屋根つきの廊下で結ばれ、「拝殿」「本殿」とも蟇股(かえるまた)や柱に極彩色の装飾が施されています。
「拝殿」から「本殿」まで。
本殿の左には絵馬堂があり、社務所内には「小堀遠州出世」の石庭が再現されいます、しかし、現在は改修中で見る事が出来ませんでした。
しかし、参道から本殿は長く、広々とした、いかにも歴史を持つ神社です。
伏見区墨染町741
(たわごと) 上記に有る、徳川御三家の事。
少し真面目に(いつも真面目ですが)徳川御三家の事。
普通、徳川御三家は「尾州家」「紀州家」「水戸家」と言われていますが、あれは全くの誤解です。御三家とは「江戸将軍家」と「尾州家」「紀州家」です。その証拠に「尾州家」と「紀州家」の最高の「階」は「大納言」で「水戸家」は黄門様で有名な「水戸家」の最高の「階位」は「従三位中納言」(じゅさんみ)です。徳川将軍は「従一位征夷大将軍」です。
その為、江戸中期から「御三卿」があり(田安家・一橋家・清水家)が大名では無いですが、補助的に、宗家「徳川将軍家」に嫡子が無い時にここから継承する資格を有しました。結果的に「尾州家」から将軍になった者は、十五代将軍中一人もいません。例外的に、「水戸慶喜」(水戸斉昭の子)が「一橋家」に入りその後、最後の将軍になりました。(紀州家からも吉宗が将軍になりました)
また、水戸黄門の「黄門」は中国の職の名前で、「中納言」を隠居した職名です。ですから「黄門」は京の公家達に多くいました。もうTVで「水戸黄門」は終わりましたが、そのなかで最後に有る言葉「このお方は先の中納言、水戸光圀公」と言っていますがあれは正しい言葉です。いわいる、「副将軍」とも言われる「水戸家」は「将軍家」を補佐する正式な職では無かったのです。(徳川家康が二家が逸脱した時にいさめるのに水戸家を作ったとされています、よって水戸家のみ江戸在府で参勤交代の義務は有りませんセした)
そのためTVで「このお方は天下の副将軍」と言うのは少し、間違った表現です。