京の話題

12000年以上続いた「平安京」の文化・寺社仏閣・お祭り等を紹介します。

京の話題(平安京その89・禁門の変)蛤御門の変

2011-12-30 11:56:50 | 京の話題

元治元年7月19日(1864年)、長州藩が御所を守る京都守護職・松平容保(かたもり)らに武力衝突しました。これを俗に言う「蛤御門の変」正式には「禁門の変」です。

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大砲も投入され、激しい戦いの末、長州藩勢は敗北、尊王攘夷派の「久坂玄瑞・真木保臣」急進的指導者を失い、後退せざるおえなくなりました。

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御所に銃弾を撃った長州藩は「朝敵」となり、第一次長州征伐が行われます。この「蛤御門」を良く見ると、長州勢が撃った銃弾の跡が今でも残っています。

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薩長同盟(1866年)の前であったため、長州藩で使用した銃は旧式の火縄銃と思われます。弾痕で分かるように、丸い跡です。(新式のヤシの実弾元込め型の弾丸では無い事は確かです)また、うんちく

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京都に来られたら、一度この歴史の跡をご覧ください。次記は、この京都御苑内に有る神社を記載します。

上京区京都御苑・烏丸通り


京の話題(平安京その88)京の中心・京都御苑(御所)

2011-12-29 00:57:13 | 京の話題

もうすぐ正月です。と言う訳では無いですが、今上天皇の御長寿を祈願して、京都(平安京)最大の象徴である、京都御苑および御所を散策します。晴天に恵まれ気持ちのいい日でした。

平成23年9月9日の記事に、御所は長岡京から平安京に延暦13年(794年)に桓武天皇が遷都した詳細を載せました。(参照下さい)前記の記事のごとく最初の御所はこの地では無く、今の二条城の少し北に(大内裏・御所)が位置していました。

しかし色々な地の利が悪く、その後今の京都御苑内の御所に移されました。今は正確には京都御苑と言います(その中の一部の所が御所と称しています、しかし今上天皇は東京に座すため、正確には御所とは言えません、これは私の自論)、かたい事は抜きにして、この広大な(東西700m南北1300m19万坪)京都御苑を散策します。

京都に生まれ育ったにも関わらず、初めてののんびりしたここの散策です。拝観料もいらず冬の晴天の中で心が休まりました。

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地元の方でもあまり知られていないですが、この御苑内には三社の神社が有ります。それは、次の記事にて。

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明治2年(1869年)明治天皇と多くの公家は東京に移りました。御所の周辺の多くの公家屋敷などは空き家となり、荒廃しました。この状況を嘆いた天皇は御所保存を命じました。この御所の火災延焼を防ぐため周辺の空き地となった土地を整備したのが京都御苑です。

誰でも、散策できる帝の配慮です。

御苑内の御所の南に位置する「建礼門」です。

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まあ、なんと長い塀でしょう。この内が正式には御所となります。

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こちらの門は警備厳重です。(御苑内には、皇宮警察本部・京都護衛署が有ります,昔の近衛兵というとこですか

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御苑内は常に皇宮警察の黒パトカーが巡回しています。(この写真はNG)

余談ですが、「西南の役」にて(正確には東京を後にして故郷の鹿児島に帰るまで)、西郷隆盛は、「近衛都督」「侍従」「陸軍大将」を兼ねていましたが、ある若者が、隆盛に「西郷どんは、近衛府は、左近衛と右近衛が有りますが、どちらですか?」と尋ねたと言う事です。西郷は「そんなもんどちらでもよか」と西郷の度量の大きさを物語る、逸話があります。これは、全くの余談です。(もう少し正確には、隆盛が東京から鹿児島に帰る時は、「侍従」と「近衛都督」は辞していました)

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真冬というのに、このような遅咲きの花も愛でることが出来ます。春夏秋冬を通じ、色々な草花を我々に楽しさせてくれる、御苑です。

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御苑内をゆっくり散策すればたっぷり一日はかかります。天気のいい日は気持ちの良いこと、この上ないです。次の記事は、有名な「禁門の変」での蛤御門を紹介します。

御所の定義;広辞苑では、天皇の座所、又はその居所。禁中。内裏を称します。

上京区京都御苑内


京の話題(平安京その87)あまりにも有名な・城南宮

2011-12-27 01:31:06 | 京の話題

城南宮と言えば、説明するまでも無くあまりにも有名です。(いくつにも記載したいですが、ここは短くに止めてておきます)一記事にするのはもったいない気がしますが、あえて一記事に収めます。

この神社は、諸説有りますが、一説には、平安遷都にあたり都の守護神として祀られたということです。

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祭神は、国常立尊(くにのとこたちのみこと)・八千矛神(やちほこのかみ・大国主命)・息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)と三神です。よって神紋は神功皇后の旗印にちなむ日・月・星の三光とした、いたって珍しいものです。

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この社は、都の春秋の歳時記として必ず取り上げられる「曲水の宴」と四季の花木がある「楽水苑」(らくすいえん)が特に有名です。

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残念ながら、私が散策した時期は花の見どころでは有りませんでしたが、お庭 を散策するだけでも、充分に心休まりました。庭を 眺めながらのお茶席も有ります。

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春の山、平安の庭、室町の庭、桃山の庭、城南宮も庭と五つの趣きの異なる庭をもつ「楽水苑」は「源氏物語」に登場する多くの植物が有り、みごとな庭です。

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この社の境内です。また、方除けの神でも有り、宿替えする時にはここへ御祈祷を受けお札が授与されます。

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また花の季節に、ゆっくりと散策したいものです。また、宿替えした後はこの神社に参拝しましょう。

伏見区中島羽離宮町7


京の話題(平安京その86)悪と名のつく・悪王子社

2011-12-26 00:13:59 | 京の話題

一般的には、我々は「悪」という字は「わるい」「よくない」「こわい」などを連想します。しかし昔はこの「悪」という字はそうではなく、「強い」「「勇敢」「荒魂」と言う意味でした。

全国には「○○王子」と言う地名がいろいろありますが「悪王子」とはなんと変わった地名です。

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この神社は天延2年(975年)から東洞院四条に有りました。今ではこの地を「元悪王子町」といいます。「悪王子社」の石碑が有ります。

その後、色々移転して四条大和大路に移され、さらに明治10年(1877年)に、八坂神社境内の本殿東側に移転しました。

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悪王子社は、スサノウノミコトを祀る八坂神社の摂社である、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したスサノウノミコトを称えて「悪王子」という称号を賜ったとされています。

平安期の初め京都には災害や疫病がはやり、これをすさのうのみことと同一人物とされている牛頭天王(ごずてんおう)による祟りと恐れられ。怨霊鎮めのために八坂神社では祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が行われました。これが祇園祭のはじまりで八坂神社のお祭りです。

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八坂神社内には色々の神社が有りますが、この大きな八坂神社の中には、このようないわれの有る小さな社も参拝してみたらいかがですか。(七月三十一日の祇園祭最後の行事・夏越祭も八坂神社内の神社で行われます)この記事は前記を参照を。

東山区祇園町八坂神社内


京の話題(平安京その85)目薬よりも効果・目疾地蔵

2011-12-25 00:05:43 | 京の話題

このお寺は一般的には目疾(めやみ)地蔵と言われていますが、正式には「仲源寺」(浄土宗)です。

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仏師定朝が自作の地蔵菩薩を祀った堂が有りました。安貞24年(1228年)の鴨川の洪水でこの止雨を祈願したところから霊験あらたかで、それによって勅願寺となり、雨止(あめやみ)地蔵と言われるようになったとも言われています。

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また八坂神社への参拝の人が雨に降られるところを地蔵堂で雨宿りしたので」雨止地蔵とも言われています。そこから、雨止が目疾(めやみ)たなったとも言われています。

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この地蔵像の目眼に曇りが有り、その為人々が眼病治癒を祈ったもので、目の病に御利益のある地蔵と信仰を受けたといわれています。

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四条通りに「雨奇晴好」の扁額が有ります、これは晴れでも雨でも景色のいい事をいみしていると言う事です。現在の人々は眼を遣いすぎ(私も、パソコンの使いすぎ?)、ここで眼を少し労わっては。

東山区祇園町南側585-1