京の話題

12000年以上続いた「平安京」の文化・寺社仏閣・お祭り等を紹介します。

京の話題(平安京その146)嵯峨天皇が遊猟で駅舎を宿所とした・離宮天満宮

2012-02-29 00:24:43 | 京の話題

この離宮八幡宮の「離宮」とは、河陽離宮(かやりきゅう)の旧地に建てられた事にちなみます。

Dsc00503

平安京と西国を結ぶ中継地として山崎には、旅行や通信のために駅馬や人夫をそなえ、また駅舎や食糧を提供する「駅」が設けられていました。

Dsc00505

嵯峨天皇は遊猟のさいに、この駅舎を駅舎を宿舎として使い、後に、河陽離宮とされました。

Dsc00509

創建は、貞観元年(859年)に僧行教が、いまの大分県にある宇佐八幡から分霊を石清水八幡宮へ勧請するとき、いちどこの地にその神霊がとどまったことによります。

Dsc00510

そのため石清水八幡宮との関係はふかく、内陣をともすための灯油をここ離宮八幡宮の神人たちが奉納しました。

Dsc00518

離宮八幡宮の神人たちは油座を結成して、大量消費地の京都の販売権を独占しました。

これは水陸交通の起点である山崎の地が、中四国からの原料の仕入れ、製造された灯油の出荷にも適していたからです。

Dsc00519_2

この逸話を考えると、若いころ読んだ、司馬遼太郎氏の「国盗り物語」を思い出します。幼少は「法蓮房」から「松波庄五郎」と次々と名前を変え、この灯油商から美濃一国の領主となった、蝮の道三と言われた「斎藤道三」になるという話です。(若いころは、司馬遼太郎の本を次々と読んだことが懐かしいです)

明日からきわどい所?を散策します。

乙訓郡大山崎町大山崎西谷21-1


京の話題(平安京その145)ここを制する者は天下を・宝積寺

2012-02-28 00:50:16 | 京の話題

ここ天王山はその麓に桂川・宇治川・木津川を流し、東国と西国を結ぶ一筋の西国街道の要塞で、ここを制することが戦いの勝者となります。(山崎の合戦より)

Dsc00527

最も有名な戦いは、本能寺の変を知るや毛利軍と休戦し、急きょ上方へ、山崎で迎え撃つ明智光秀との合戦です。

Dsc00528

天王山を登り、そこに有るのは「浄土宗知恩院派」に属する「大念寺」の石段を右に見て、勾配のきつい坂道をさらに登ると大黒典のが幡上に見え、宝積寺の仁王門と「聖武天皇勅願所」の石碑がみえます。

Dsc00536

Dsc00553

Dsc00555_3

仁王門の先に本堂、右に慶長9年(1604年)の建造の三重の塔が朱色を残して建っています。

Dsc00561

このお寺は、「宝寺」とも言います。桓武天皇が神亀年間(724年~)僧行基に命じて開創させたといい、「宝」のつく寺名は、同天皇が龍神から授かった打出の小槌をこのお寺に収めたことによるとの伝承があります。

Dsc00551_2

その後、お寺は荒廃しましたが、長徳年間(995年~)寂照が再興して天台宗としましたが、今は、真言宗智山派の天王山と号します。

Dsc00529_2

お寺は、時代とともに宗派を変え生き延びていきます。(ご本尊で一概に宗派は決められません)

乙訓郡大山崎大山崎銭原1


京の話題(平安京その144)高所恐怖症には・山崎聖天

2012-02-27 00:05:22 | 京の話題

静かな樹木に囲まれて、庫裏まで石段を約150段、さらに仁王門まで56段、ちょっと怖い感じです。

Dsc00593

山崎聖天は正式には「妙音山観音寺」と称す真言宗の単位寺院です。

Dsc00586_2

寺伝によると昌秦2年(899年)宇多天皇の勅願寺として創建したと言う事ですが、詳細は審らかでは有りません。

そのズート後、延宝年間(1672年~)以空上人が夢告によって寺を中興1し聖天堂を建てて歓喜天を祀りました。(歓喜天は略して聖天ともいい、事業の成功を祈る仏教の護法神です)

それが京・大阪の商人(住友・三井・鴻池等)から信仰を集め大いに栄えました。

ここも撮影OK、おおらかです。

Dsc00582

その為、ご本尊の観音さまより聖天さまということになり、聖天さまの名前のほうが有名になりました。

私は、なにかこの山門の仁王様がとても気に入りました。(どのお寺を散策しても、このような仁王様に迎えられると、何か、力が湧いてきます。不思議なものです)
Dsc00570

Dsc00571

しかし、元治元年(1864年)の禁門の変にまきこまれて全山が焼失しました。現在の諸堂は明治以降のものと言う事です。

乙訓郡大山崎町大山崎白味才62


京の話題(平安京その143)乙訓郡の突き当たり・小倉神社

2012-02-26 00:07:30 | 京の話題

創建は、養老2年(718年)と言う事で、平安遷都少し前になります。

Dsc00598

平安遷都にさいして、御所の鬼門除けとして祈願されたと言います。

Dsc00600_2

私のお気に入りはこの静かな参道です。

文徳天皇の時代には「生一位小倉大明神」の称号をえて、さらに延喜式に列せられました。

Dsc00609_2

天正10年(1582年)山崎の合戦では、秀吉が家臣を遣わして戦勝を祈願しました。

参道の右手の少し高い所に龍王・稲荷・天満の各社を祀り、割拝殿の間をくぐると、古色な檜皮葺の三間社流造本殿が建っています。

Dsc00610

Dsc00616

Dsc00614

何か、ここに参拝すると、人っ子ひとりいない神社は古代にタイムスリップした観があり、たいへん風情が有ります。

乙訓郡大山崎町円明寺鳥居前83


京の話題(平安京その142)寝殿造の様式・宇治上神社

2012-02-25 00:16:15 | 京の話題

まず、石橋を渡ります。

Dsc00404

Dsc00402

Dsc00381

祭神は、一神稚郎子皇子の桐原日桁宮(きりはらのひけたのみや)です。

その正面に拝殿が有ります。通常、神社の拝殿は高床式で四方が明け放れたものと思いますが、この神社のそれは平安時代の寝殿造の様式を取り入れた、優雅な貴人の住宅のようなものです。

Dsc00382

しかし、なんといってもこの神社の白眉はは拝殿奥の本殿です。平安期、日本最古の神社建築です。左右の優美な曲線はまことに繊細な造形です。

Dsc00384_2

Dsc00378

また、蟇股(かえるまた)の枯淡なしつらえも平安時代の様式をあらわしていると言う事です。

Dsc00399_2

境内には京の名水のひとつ桐原水が湧いています。来週は死ぬ思いがしたお寺を紹介します。生きてて良かった(来週ですよ!!!)

宇治市宇治又振37