この離宮八幡宮の「離宮」とは、河陽離宮(かやりきゅう)の旧地に建てられた事にちなみます。
平安京と西国を結ぶ中継地として山崎には、旅行や通信のために駅馬や人夫をそなえ、また駅舎や食糧を提供する「駅」が設けられていました。
嵯峨天皇は遊猟のさいに、この駅舎を駅舎を宿舎として使い、後に、河陽離宮とされました。
創建は、貞観元年(859年)に僧行教が、いまの大分県にある宇佐八幡から分霊を石清水八幡宮へ勧請するとき、いちどこの地にその神霊がとどまったことによります。
そのため石清水八幡宮との関係はふかく、内陣をともすための灯油をここ離宮八幡宮の神人たちが奉納しました。
離宮八幡宮の神人たちは油座を結成して、大量消費地の京都の販売権を独占しました。
これは水陸交通の起点である山崎の地が、中四国からの原料の仕入れ、製造された灯油の出荷にも適していたからです。
この逸話を考えると、若いころ読んだ、司馬遼太郎氏の「国盗り物語」を思い出します。幼少は「法蓮房」から「松波庄五郎」と次々と名前を変え、この灯油商から美濃一国の領主となった、蝮の道三と言われた「斎藤道三」になるという話です。(若いころは、司馬遼太郎の本を次々と読んだことが懐かしいです)
明日からきわどい所?を散策します。
乙訓郡大山崎町大山崎西谷21-1