京の話題

12000年以上続いた「平安京」の文化・寺社仏閣・お祭り等を紹介します。

京の話題(平安京その20)大文字山は地図にも載っている立派な山。

2011-09-30 11:47:41 | 京の話題

前記にて一部「左大文字山」載せましたが、「五山の送り火」で有名な「大文字山」を紹介します。

今度は少し趣向を変えて、「大文字山」を紹介します。八月十六日に「五山の送り火」が有りました。五山とは「大文字山(如意ケ岳)」。「妙」「法」は松ヶ崎の西・東山。「舟形」は西賀茂の船山。「左大文字」は衣笠山。「鳥居形」は嵯峨鳥居本の曼荼羅山です。

この五山の送り火の起源は審らかでは無いです。(史実では平安時代からあったともいわれています)しかし江戸時代の初期にはこの史料が見られるので、このころにはすでに行われていた事は間違いないです。

五山の中でも特に有名なのは大文字山の「大」です。「大」の字の大きさは横が80m、左右が160mと120mです。この火床は75も有って、木を組んで土台を造り松明りをその上にのせます。他の、四山とは格段に大きいです。

よって、この「大」の字は国土地理院の地図にもちゃんと載っています。25000分の1の地図で「大文字山」466mと記載されています。そしてその横に「如意ガ岳」が載っています。ですから「大文字山」は独立した山と言う事になります。

他の四山は10000分の1の地図にも載っていません。不思議な山です。

昼間の「大文字山」です。(電柱が少し邪魔です)

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先月紹介した八月の送り火です。(この山のみ、ちょうど午後八時に点火します)

他の山は順次遅れて点火します。

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「妙」と「法」で一山となります。学生のころ、この「妙」の点火の時に立ち会わせてもらいました。点火の前に懐中電灯をつけて、えらい怒られた事を覚えています。(点火の合図と間違うからだそうです、これも貴重な思い出です)以下の写真は「妙」です。

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西賀茂の「船形」です。

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「大」が有れば必ず左右のバランスで衣笠山に「左大文字」が有ります。西大路通りの北からはっきり見えます。残念ながらこの山も地図には有りません。

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神事や仏事には必ずバランス良く二対有ると言う事です。「狛犬」や山門の仁王さん、祇園祭の「北観音山」「南観音山」、「船鉾」も今は休んでいますがこれに対して「大船鉾」。東北三大祭りの「ねぶた祭り」は青森市ですが、これに対して、弘前市に「ねぷた祭り」が有ります。(ちょっちと飛躍しすぎ?) 

詳細「五山の送り火」は八月の記事に紹介しました。(八月十六日の記事を参照下さい。しかし不思議な事でこれだけ山に火をつけても山火事になった事は一度も有りません。(神事やからかな~)

これだけは、またまた言っておきます。決して「大文字焼き」とは言わないでください。(何処かのアナウンサーもテレビで言っていました)たこ焼きやタイ焼きと違います。もう季節は秋です、しかし来年の「五山の送り火」に向かって、ちゃくちゃくと準備がされています。

「五山の送り火」です。そう言って下さい。


京の話題(平安京その19)北の蓮台野の墓守、上品蓮台寺

2011-09-29 20:27:15 | 京の話題

平安時代、庶民は飢餓や天災で死んだ死骸を、西の「化野」と東の「鳥辺野」に捨てたと前項に手紹介しました、あと一つの北は「蓮台野」です。

東の「鳥辺野」の管理寺は「珍招寺」ですが、この「蓮台野」は前項にて詳細に説明しました「千本ゑんま堂」です。

京都市の紫野の西南に小高い丘が有ります。これが船岡山です。「五山の送り火」の「左大文字山」が近くに見える観光地です。

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これは一般的に言われる、「大文字山」では無く、西に位置する「左大文字山」です。この地は、「清少納言」も「枕草子」で「岡は思いつくなか船岡山が一番いい」と称しています。

古来、「船岡山」は神が宿る山で邪気から都を守る霊山として崇められていました。しかし、平安期も後半になると、この山の奥も「蓮台野」と言う埋葬の所となりました。そして、他の西や東と同様に死骸が捨てられる所になってしまいました。

古くは聖徳太子の創建で「香隆寺」と称しましたが、天徳4年(960年)宇多法皇の勅使により、寛空僧正が再建し、「上品蓮台寺」(じょうぼんれんだいじ)と改めました。しかしその後、応仁の乱の戦火で焼失し後、文禄年間に紀州根来寺の「性盛上人」(1592~98年)が真言宗智山派に改め、この寺院が復興しました。

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それが今に至る「上品蓮台寺」です。本尊は延命地蔵菩薩を祀っています。境内は大通りに面しているにも関わらず、中に入ると静寂な雰囲気を醸し出しています。

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「性盛上人」(しょうせいしょうにん)の像です。

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まるで、街中の喧騒がうそみたいです。

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この寺院も、「蓮台野」つながる墓守の寺であったと言われています。

この項目にて平安京の三大埋葬地を紹介して終わります。次回をお楽しみに。

最近、全然ギャグ無やな~


京の話題(平安京その18)仏教の宗派

2011-09-28 09:53:53 | 京の話題

仏教が伝来したのは「日本書紀」により飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)です。しかし、現在では「聖徳太子伝記」では538年(戊午年、宣化天皇3年)に仏教が伝来したと考えられていま前記記事に、色々な宗派を紹介しましたが、ややこしので概略を、簡単にまとめてみます。

日本の仏教には多くの宗派が有ります。以下、簡単に宗派の系図をまとめてみました。(一般に、十三宗五十六派)

「南都六宗」は奈良仏教系の仏教で、主に「奈良時代」で発展した仏教系です。「平安二宗」は桓武天皇が平安京に遷都し、空海・最澄を遣唐使として中国に送り「密教」を学ばせました。最澄(伝教大師)は比叡山を与え「天台宗」の開祖、空海(弘法大師)は高野山を与え「真言宗」開祖で全国に広めさせました。「禅宗」は鎌倉時代、武士や貴族らが権力を奪い「臨済宗」や「曹洞宗」の二つの「禅宗」を中国からもたらしました。この宗派の代表的な開祖はhttp://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120117を参照下さい。この記事の改訂版です。

簡単ですが、以下にまとめてみました。(本当に、大雑把です)

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現在の仏教の大半は、いわいる鎌倉仏教に属している鎌倉仏教で浄土宗系(浄土真宗も含む)と日蓮宗の宗派が大きな割合を占めています。(大乗仏教)

ご存じの方は(これが本当の釈迦に説法ですが)お分かりと思いますので、無視してください。

今回は、全く写真も無で、すみません。

これを見て、寺院を散策されれば少しのご参考になると思います。


京の話題(平安京その17)東の鳥辺野へのお参り

2011-09-27 15:56:29 | 京の話題

前記にて、平安京時代、庶民が死骸を葬る三か所の一つ西の「化野」を紹介しました。もう一つ東の「鳥辺野」(とりべの)紹介します。この地を私は鳥辺山(一部の地域を指すのやな)とよんでいました。

東山三十六峰の一つ「音羽山」から「阿弥陀ヶ峰」から「東福寺」迄の所です。私がよく訪れるのは、この地の一画に菩提寺が有ります。

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観光季節は人でいっぱいですが、やはりこの地も平安時代人々の死骸を野ざらしにする地でした。その時代はこの地には人々は恐ろしくて、よりつきもしませんでした。謡曲「熊野」(ゆや)にも出てきます。

平安京といえば華やかな感じがしますが、実は汚い埃が舞い死骸があちらこちらに放置された所でした。その死骸を集めて鳥辺野で荼毘にして、阿弥陀堂を建立し供養したのが「行基」でした。そのため、この山を「阿弥陀ヶ峰」と言いました。「行基」ではなく、平安京に遷都後の「平安二宗」の一つ、天台宗の「伝教大師」かも?西の「化野」は「弘法大師」が熱心であったため。しかしここから近くに有名な平安遷都以前から歴史の「清水寺」が有ります、この寺院は「法相宗」であるためやはり「行基」が正解かな?しかし、一番は端に、やはり有名な「f東福寺」が有ります。この寺院は「禅」からの「「臨済宗」です。

まあ、難しい事は抜きにして下さい。

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私の、菩提寺鳥辺山に有る「本寿寺」です。宗派は日蓮宗。「日蓮宗」は「平安二宗の「天台宗・伝教大師」から「日蓮宗」と「浄土宗」に分かれたため。

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建立時や建立者は勉強不足です。また良く調べます。

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艶やかな平安京も、少し中心地から離れると、今は観光地でもこのようないわれが有りました。

前記で紹介した、六道参りの「珍皇寺」は地を管理して死者に引導を渡す所で、あの世とこの世の境界に建つ寺という事です。詳細は「六道参り」を参照下さい。

注:「行基」は奈良時代の僧。(宗派は法相宗・ほっそうしゅう・南部六宗の一つ)朝廷から度々弾圧されたが、民衆の圧倒的な支持を背景に桓武天皇により奈良の大仏(東大寺)の建立の責任者でもあった。これから考えられる事は、平安京が遷都される前からこの地はその様であったと思われる。難しい事はあまり考えないで下さい。


京の話題(平安京その16)化野念仏寺のお参り

2011-09-26 19:05:33 | 京の話題

もうすぐ紅葉の季節です。ちょっと先取りですが、京福電鉄に乗ったので、終点の嵐山駅から1.5Kmほど歩いて、嵯峨野の「化野」へ行ってみます。

ここも弘法大師のゆかりの地です。平安時代、貧しい庶民は、天災や飢餓が続いて多くの人が死んでいきました。道端には多くの死骸が放置され、その為、疫病が蔓延し悪循環となります。その時代は埋葬する所は三か所しか有りませんでした。東の鳥辺野、北の蓮台野、西の化野でした。庶民はこの三か所に死骸を集めて野ざらしにしました。

弘仁2年(811年)ここを訪れた弘法大師(東寺で詳細紹介しました)が野ざらしにされた死骸を憐れみ、また厄病を無くすために庶民に土葬を教えて供養の為千体以上の石仏を祀ってここに、如来寺を建立しました。

後にここが「化野念仏寺」となります。今でも多くの石仏がひっそりと並んでいます。

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本尊は阿弥陀仏坐像で、現在の本堂・庫裏は正徳2年(1712年)岡山より来たものです。ちょうど訪れた時はお彼岸法要でした。

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毎年8月23・24日にこの石仏に蝋燭を灯し、先祖の供養をします。嵯峨野の夜の何か物寂しい、しかし心優しい景色が浮かんでゆきます。(アベックにはもってこいです)有名な「千灯供養」です。

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また、出来れば来年その不思議な光景を紹介します。

注:化野(あだしの)とは「化かす」「化ける」の事でここの不思議な読み方は、「はかない」「むなしい」からきた読みで「あだしの」となります。「化野」は「この世には人が生を受けて死んでいくはかないもの、よって極楽浄土に行く事を願う」と言う昔の人々の思いが込められています。