京の話題

12000年以上続いた「平安京」の文化・寺社仏閣・お祭り等を紹介します。

京の話題(平安京その334)周山街道の奥、見所満載・常照光寺ー2

2012-08-31 00:08:38 | 京の話題

このお寺「常照皇寺」の正式な寺名は「大雄山万寿常照皇禅寺」で「臨済宗天龍寺派」に属するお寺です。また別には、「天台系」の「成就寺」という廃寺を再興したという説もあります。

「志納」をお支払い(入山料?)して参拝します。広い方丈のお部屋です。

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開創、北朝の「光厳天皇」は第93代「後伏見天皇」の皇子で、元弘の乱(後醍醐天皇が鎌倉幕府転覆の企て)の後、皇位につきますが、形勢は逆転、建武の中興で廃位させられます。しかし、「後醍醐天皇」の新政は二年半で崩壊して、のちに、南北朝時代が訪れます。

「光厳天皇」は弟の北朝第2代「光明天皇」の時代に院政として復活しますが、その後、「足利氏」の内紛により南朝が優勢になり、再び幽閉の身になります。

庭の向こうに見えるのは「勅使門」です。

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いかにも禅寺の庭という感じがします。

前記の「光厳帝」は、「夢窓疎石」を崇拝して「禅宗」に帰依しました。河内天野の金剛寺から晩年は伏見に隠棲し、その後、この地に草庵を結んで、すべての世俗からのがれ禅の道を深めました。

方丈の、天井hからもこのような「仏像」が安置されています。

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やはり、禅寺の雰囲気は独特のもので、庭も心洗われる気持ちです。

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このお庭お眺めながら、このお寺の「開山堂」に向かいます。

右京区京北井戸丸山町14

(たわごと) 20数年前に長期、ベトナム出張に行った、思出-8

前記で少し書きましたが、宝くじの事。田舎の町でお酒を飲んでいると、6歳位の女の子が何か買ってくれて。よくよく通訳してもらうと「宝くじ」です。一枚5000ドンです。これが当ると何百倍になるって。買いましたよ。その後、この女の子が「宝くじ」の番号の控えを何処か持って行きました。10分位後、女の子か、ニコニコして言いました。「当って無いよ」て、なんのこっちゃ、初めから、この「宝くじ」は空くじ?ふーん、ベトナムの「宝くじ」てこんなもんかいな、別に腹は立ちませんでした。けなげな女の子このアルバイトです。

あるお土産屋の不思議なこと、なんと「伊藤博文」の千円札が、75000ドン位で売っていました。確認しました、透かしも、本物です、日本円で750円位、千円札がですよ。当然有るだけ買って帰りました。日本では、当然1000円で通用、もうけ、もうけ。

帰りの、ホーチミン空港の免税店での事。ウイスキーを買いました。良く見るとお釣りがかなり足りません。こちらは日本語であちらはベトナム語で押し問答。結果、私の言い分が通り、ちゃんと返してもらいました(社会主義国の公務員てこんなものです)

空港内のレストランでの事。ウエイトレスを呼ぶと、両手をポケットに入れて、こちらにだらだらと来ます、商売気は全くなしです。考えられないです、客商売なのにあの態度(社会主義国の公務員てこんなものです)

悪口ばかり書いていますが、良いとこは一杯有りますが、記憶に鮮明な事を、たわごと、として羅列しました。

しかし、アオザイを着た店員は綺麗でした。次は、最終回です。

ベトナム螺鈿細工の額。

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仏教のルーツと日本神仏一体・その1

2012-08-30 20:29:53 | うんちく・小ネタ

すこし、ここでティタイム。

「平安二宗」の事を中心に記していますが、たまには「仏教」のルーツを。

日本で「釈迦如来」として祀られている「釈尊」について。「釈尊」は間違いなく紀元前6~5世紀の北インドに実在した人物です。

「釈尊」は尊称で本名は「ゴーダマ・シッダールタ」です。現在は「仏陀」・「釈迦牟尼」(むに)・「釈尊」の尊称でよばれています。

釈尊(釈迦)は、シャカ族皇家の国王長男として、紀元前563年、誕生したとされています。生まれながらに裕福な家庭でした。釈迦は出家を望みましたが、父のシュードーダナ王は王子の出家を望まず、自分の国を強くし、立派な王になるようにのぞんだという事です。

「釈尊」は16歳で「ヤショーダラー」を妻をむかえ、、後、17歳で最愛のお妃となる貴族の娘「ゴーバー」を妻にしました。その後、もう一人の妻をもちました。三人の妻を持つ贅沢な生活をおくる「釈尊」は幸福そうに見えましたが、「釈尊」はこの生活を捨てて苦行僧になります。

釈尊の誕生地はインドと思われがちですが、正確には当時の北インドで多くの国が勢力争いしていました。「釈尊」の生まれた地は正確には現在のネパールでした。

その当時は「バラモン教」が大半を占めていました。この「バラモン教」は神々の教えのままの意思にに従って過ごすという教えでした。しかし、紀元前7~6世紀にかけて、クシャトリアの勢力が急成長しました。、このクシャトリアは、もとは、バラモンの言いつけに従って、軍事や政務に従事する下役人でした。しかし、彼らはやがてガンジス川流域に王国を作り、バラモンをしのぐ権力を持つようになりました。

当然、クシャトリアから、バラモンの教えは抽象的で分かりにくいといった批判的な声があがるようになりました。この声に答えるかたちで、「釈尊」が新たなる教団を起したのです。

バラモンの教えは、ギリシャ哲学や儒教と同じく人間の行為の意味や人の心のありかたに主な関心を向ける人間中心的な学問と同じでした。

※「バラモン」はアーリア人たちがつくったカースト制度の最高位にあたり。高層位から「バラモン」「クシャトリア」「ヴァイシャ」先住民は最下層の「シュ―ドラ」と位置されており厳密な階級制度です。

万事を、ヤハウェ(旧約聖書中の唯一の神)の意思で説明しようとする「ユダヤ教」・「キリスト教」やアラ―が全てを決定するという「イスラム教」とは異なる性質をもつ、「仏教」には「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」に見られない創造主はいません。

「釈尊」は思いをめぐらすうちに、次のような問題に行き当りました。人間誰にも避ける事が出来ないものです。

・凡人は、自分も老いていくのに、老衰した他人を見て悩み、恥じ、嫌悪する。

・凡人は、自分も病むものなのに、病んでいる他人を見て悩み、恥じ、嫌悪する。

・凡人は、自分も死ぬものなのに、死んだ他人を見て悩み、恥じ、嫌悪する。

以上のことを知った「釈尊」は、若々しくて健康な自分の生活を無意味なものと考えはじめました。「釈尊」29歳の時、全てを捨てて、人として生きる意味を知るために、出家を決意して、苦行の旅に出ます。当時としては決して若く無い29歳の時でした。

以下、次記へ。(時折)


京の話題(平安京その333)周山街道、訪れる方は少ないですが見所満載・常照光寺ー1

2012-08-30 00:05:57 | 京の話題

私が参拝した時は秋も近く、「つくつくぼうし」が鳴く季節でした。まあ、なんとのんびりと、不用心なお寺と思いました。

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広々とした駐車場が有り、この幅の広い石段を登って行きます。

山門もごく小さなものでした。

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綺麗な空気と緑が、ここち良いお寺です。

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かなり石段を登ると、方丈が見えてきます。

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ここで入山料を払いますが、人は誰もいません。ただ、箱にお金がわずか入っているだけです。「志納」です。300円位お支払い下さい。なんと不用心な。さっそくこの箱(と言っても、箱のふた)に300円置いて、紙に名前を記入しました。

早々、この衝立がお出迎え。

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しかし、見所は満載です。このお寺は正式には「大雄名山万寿常照皇禅寺」といい、「臨済宗天龍寺派」に属する禅寺で、開創は北朝の初代天皇「光厳天皇」により貞治元年(1362年)とと言われています。

右京区京北井戸町丸山14

(たわごと) 20数年前に長期、ベトナム出張に行った、思出-7

ホーチミンの都市は賑やかでした。自転車やバイクのオンパレード。なにしろ、信号機の3個に1個は玉切れ。横断歩道を渡るのにも命がけ。

お土産屋の周りは乞食(この言葉はNGかな?)少女(8歳位)が幼児をおんぶして。年寄りの母親が幼児をおんぶして、我々の周りに手・手・手・手がのびます。人気有るのかな?

しかし、土産物屋の中には絶対入って来ません。一人あげると皆にあげないと心鬼にして。不思議な事に、白人には絶対寄って来ません。我々、黄色人種だけに寄って来ます。これだけはベトナムの名誉のために、今は、そんな風景は絶対有りません。戦後の日本も同じ様でした。(この、日本の戦後は私は知りませんが。母に聞いただけ) 

働く子供は、多くいました。「靴磨き」寄って来ます、スニーカーはいているのに。ヤシの実売りの女の子、元気です、天秤棒の両方に山ほど担いでついてきます、逃げても、横断歩道を渡ったら、不思議に同じ女の子が、ニコニコして待っていました。元気な子。ヤシの実を仕方なく買いました、ストローで、あまり美味しく無いでした。

その他、食べ物の事。やはり、中国の影響が有るかと。中華料理店の多い事。しかし、ベトナムの「春巻き」jは美味しかったです。「スプリングロール」と言えば、ちゃんと通じます。

レストランでの事。二人で、ビールは飲むは食べるわ腹一杯で、お勘定。見ると0がずらりと並んでいます。「なんぼ?払えるの?」良く見ると「385000ドン」日本円に換算すると「3850円」安い!!!これだけ豪華料理を食べて、飲んで。(今は、多分このお値段ではありませんが)

日本人の事。ベトナムの中間層の方と話すと、我々は台湾人?中国人?韓国人?日本人と言うよりも、彼らの知識では日本は当時は存在していませんでした。現在でも、我々、アフリカ諸国が正確に解からないと同じで、当時は、日本人はほとんどいなかったみたいです。

日本紙幣のこと。三度め初めて関西空港から直行便がでました。ようやく、日本円が直接現地のベトナムドンに為替交換可能。一万円札を出しました。あちらの方は初めて日本の一万円を見るみたい?。見本の写真と見比べ、すかしたり、なぜたり10分はかかりました。「別に偽物と違うで」ようやく交換。出てきたベトナム紙幣は百万ドン以上の札束です。ドート大金持ちの気分、ルンルン。

ベトナム製螺鈿細工の額(前記で記載したものとは別です)

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暫く、政治の事は言いたく有りませんでしたが、昨日の、野田総理に対する「問責決議案」まるで、民主党と自民党の子供の喧嘩やんか。そんな状態では、日本国中国大使車の「日本国国旗」を略奪されても、手も足も出ない日本政府。世界的に前代未聞の大事件なのに。(大人の日本人対応?)あいつらは無法な輩。(あと5~10年で内部崩壊する国ですから)一党独裁の弊害が出ます、シリアの二の舞にか?天安門大虐殺事件は決して過去のものでは無いです。あんな事すれば、日本国民は一致団結して、右よりになるのが解からないのか。ガンダムの偽造は可愛げが有りますが、中日国大使の公用車を襲った、狂った車のナンバーも偽造でした。何でも偽造の国。


京の話題(平安京その332)周山街道の奥に鎮座する延喜式内社・山国神社

2012-08-29 00:13:39 | 京の話題

この神社の名前「山国」は、昭和30年に周山町他、四村が合併する時までのこっていた「山国村」のことで、中世には禁裏御料(皇室の土地)の山国荘でありました。この「周山」の地名は、「明智光秀」が名ずけたと言われています。(広々とした神社です、まるで野中の一軒屋?周りは田んぼだらけ)

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この「山国神社」は山麓を流れる桂川の川原にあります。三明谷川にかかる橋は「魁橋」(さきがけばし)と言う名であって、「山国隊」で知られる橋です。「山国隊」は、新政府軍と旧幕府軍との間で戦われた官軍(新政府軍)にいち早く参戦し、江戸上野では彰義隊と戦い、その後、東北の旧幕府軍との戦いに行きました。

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戦勝後、「有栖川宮」の凱旋行進で、錦の御旗を守り、鼓笛隊があの有名な「宮さん宮さんお馬の前で」の曲を演奏しました。京都の、三大祭りの「時代祭り」の行進で「維新勤王隊」として先頭を行進しています。

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創建は古く、宝亀年間(770~780年)第49代「光仁天皇」の創建です。

御祭神は「大己貴命」(おおなむらのみこと・大国主命)・「崇道天皇」「伊予親王」「藤原吉子」「橘逸勢」「文室宮田麻呂」「吉備真備」「藤原広嗣」「菅原道真」といったそうそうたる柱です。

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平安遷都のおり、この地が材木の御料地となり、「山国神社」として造営されました。勿論この歴史ある神社は「延喜式帳」に記載されています。

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神社の最高位である「正一位」を賜りましたが、幾多の戦火で焼失し、現在の社殿は元文2年(1737年)に再建されたものです。

右京区京北鳥居町宮の元1

(たわごと) 20数年前に長期、ベトナム出張に行った、思出-6 まだまだ続きます。

さあ、少し落ち着いて明日から仕事。内容は省略しますが。日本から木枠で梱包されてきた、「制御盤」は雨ざらし。6基中まともに使えるのは2基だけ。良いとこどりで、なんとか4基使い物にして、3週間後、修理部品を日本にとりに帰りました(国際便で送れば3ヶ月以上かかります、社会主義国ですから輸出検査に時間がかかります)。また、入国(出国は一度経験すれば簡単なものです、社会主義国てこんあものかな?)

コンピュータの基盤・大きなトランジスター等電子機器の持ち込み、またこれが一悶着。トランクを開け、なんだかんだのイチャモンです。また、別室に一人になって、尋問。日本語で「あんたの国を繁栄する為に、きてんのや」と開き直り。ベトナムの入国管理もとうとう、訳がわからず、に放免してくれました(こんなものです、社会主義国?)

またまた、自動車で4時間かかって工場へ。その間、バイクの事故の多い事。我々の自動車にも「助けてくれ」と、運転手は、無視して目的地へ。

一つ不思議な、ベトナムの交通ルール。夜にヘッドライトは下に向けます。対向車が無い時は、ランプをUPします。あの国は、対向車がむこうから来ると、ライトをUP、まぶしです。不思議?

現場でのこと。宿泊は前記に載せたように工場内の「ゲストハウス」普通の海外では、その日の仕事が終わると一流ホテルへ直行。後はフリ―タイム。しかし、工場内。24時間運転、少しのトラブルでも深夜、ドアをドンドン、寝てられません、これで完璧に鬱状態。人質みたいなものです。

懐中電灯のこと。工場の現場は照明が暗い。懐中電灯を10ヶ位持って行きました。当時は貴重品、番号を付けて現場に吊るしておくと、毎日一つずつ何処かへ。現地で豆電球を買いました、三つに一つは玉切れ(最初から)買う時はてすたーでチェック。それでも点灯したらすぐに玉切れ。どこの製品や。

次記へ。ベトナムの螺鈿細工の額。

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京の話題(平安京その331)周山街道をそれて緑の中・西明寺ー2

2012-08-28 00:10:37 | 京の話題

「西明寺」の本堂に入ると、正面に御本尊「釈迦如来像」が有ります。

鎌倉時代「運慶」によって彫られた立像です。

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本堂の脇陣には、「千手観音菩薩像」が安置されています。

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「智泉法師」が別院とした時は繁栄しましたが、その後、衰微しましたが建治年間(1275~1278年)に和泉国槇尾山寺の「自証上人」が再興します。

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永禄年間(1558~1570年)の兵火で焼失し、「神護寺」に合併されますが、慶長7年(1602年)に「神護寺」の諸材をえて「明忍法師」により再建されました。

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「西明寺」の鐘楼。深秋になると紅葉が見所です。

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徳川五代将軍「徳川綱吉」の生母「桂昌院」の帰依が厚く、おおいに繁栄しました。

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現在の本堂は元禄13年(1700年)に「桂昌院」の寄進によるもので、「薬医門」もその時代の造営です。

右京区梅ヶ畑槇尾町2

(たわごと) 20数年前に長期、ベトナム出張に行った、思出-5 ポチッてネ

いよいよ工場へ到着。簡単に、通訳二人を交えて打ち合わせ。我々こんな田舎でどこに宿泊するネ?周りは、森林や、畑。工場の前にはお店が有りますが、ヤシの木やバナナの葉っぱで作った原始的なお店。

そうです、宿泊はこの工場の中に有る「ゲストハウス」です。(普通は、工場で仕事をした後、タクシーで豪華なホテルで宿泊。食事も色とりどり。工場から一歩出ると、自由の身)四六時中工場での中(まるでたこ部屋やがな。この言葉がが解かる人は相当古い人です)

お部屋へ案内されました。(普通は二人で出張しても、ダブルベットの部屋を一人づつです、贅沢な考えでした)クーラーはうるさいだけで余り効きません。お風呂は無、シャワーだけ、それも普通は水(少し濁っています)しか出ません。たまにぬるま湯が出るだけ、ここで3ヶ月も。

部屋の中で何か、何かシュ―と走りました(ネズミ?)。カーテンでも。しかし、日本で狂犬病・日本脳炎・マライア・コレラ・破傷風やら考えられる予防接種はしてました。相棒がこの不明な物体をスリッパで踏つぶし。ゴキブリかと思いましたが、なんと小さい「サソリ」ゾーと、予防接種では効きません。これで戦意喪失。明日からの仕事は思いやられます。

これはベトナム土産・仏様螺鈿細工の額。日本の仏教伝来は中国から朝鮮半島・日本に伝来した「大乗仏教」ですが、ベトナム・タイ・ラオス・カンボジア等仏教は「小乗仏教」(今は、大乗に対して小乗と言わず、上座部仏教とよんでいます。上座部仏教のため、釈尊像のお顔が日本の釈尊像と少し違っています、しかし優しいお顔です)

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