京の話題

12000年以上続いた「平安京」の文化・寺社仏閣・お祭り等を紹介します。

京の話題(平安京その299)銀色でないのに・銀閣寺?の謎

2012-07-27 00:10:12 | 京の話題

「金閣寺」「銀閣寺」とも世界文化遺産です。

「金閣寺」(鹿苑寺)は室町幕府将軍「足利義満」が造営しました。http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120220そしてその孫、八代将軍「足利義政」が東山の「月待山麓」に「銀閣寺」(慈照寺)を祖父が造営した「金閣寺」を摸して造営しました。「銀閣」というのは、寺院のなかのひとつで、「観音殿」のことです。ではなぜ「金閣寺」は金ピカなのに「銀閣寺」は銀色でないのでしょう?

この八代将軍「足利義政」の妻は、かの有名な恐妻「日野富子」です。この時代になると、室町幕府の権威は地に落ち、地方の豪族や武士が力を持ち、その後の「応仁の乱」の幕開けに結びついていきました。「義政」は政治には無頓着になり、隠棲地を「岩倉」や「嵯峨」あたりを探しました。そしてついにここ「浄土山」の山麓に定めました。しかし、財政難から初めから銀箔などは塗る気は無かったのです。たった四畳半の茶室が有れば十分と考えました。

造営は文明14年(1482年)から始まりました。ここ参道を入ると小さな山門が有ります。

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結局、義政はこの建物の完成を見ずして延徳2年(1490年)に中風のために死にます。

「観音殿」(国宝)。一切銀色と関係ないです。(一応、銀箔が貼れるように、表面は「黒漆」になっていますが、その為に何百年の歳月が経ても綺麗な表面で保っています)※銀箔を貼るためにしたかは定かでないですが。

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「東求堂」(国宝)

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「義政」の遺命により「東山殿」がお寺となり「相国寺」http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120329から住持を迎えて「義政」の法号から「慈照寺」となずかられました。

庭のやまの頂きから眺める「銀閣寺」(観音殿)です。

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「銀閣寺」と呼ばれるようになったのは、この「銀沙灘」(ぎんしやだん)や「向月台」(こうげつだい)で、ここに月光が反射すると、「観音殿」は銀色に輝くようになっています。

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そのため、後年「金閣寺」に対して後に「銀閣寺」と通称呼ばれるようになりました。(あくまでも銀閣寺はニックネーム)

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ですから初めから「足利義政」はポケットマネーで造営したこの建物に銀など塗る予算は初めから無く、「金閣寺」にまねた、静かな隠棲地(恐妻から逃げる)を求めていたにすぎないと言うのが定説です。観光に来られた方が銀色で無く、ガッカリされますが、むしろこの「銀閣寺」こそ室町東山文化の最後の結晶と言っても過言ではないと思います。(ちなみに、「義政」の恐妻「日野富子」はこの造営に一切お金を協力しなかったとう事です。「義政」の気持ちも分かります)

左京区銀閣寺町2

(たわごと) 祇園祭の伝説

長刀鉾がいつも「くじ取らず」の先頭に巡行するのは何故でしょうか。

現在の祇園祭の「くじ取らず」の鉾や山は(大船鉾を入れて)九基有ります。昔は、先を争って少しでも「八坂神社」(昔は八坂神社に向かいました)に行く事を競いました。ではなぜ「長刀鉾」がいつも先頭か?それは簡単な事です、今は四条通は(以前は市電が二車線走っていました)広いですが、その当時は四条通は狭く、前の鉾を追い越す事が出来なかったのです。

その為、一番八坂神社に近く建っている「長刀鉾」が先頭を行かざるおえなかったという事です。