残念ながら、2020年の「オリンピックは」トルコのイスタンブールに「決まらず、不肖「日本の東京」に決定しました。私しの考えでは、史上初のイスラム圏での「オリンピック」良いかと思っていましたが。
それはともかく「トルコの」世界遺産のカッパドキア」で日本の22歳のうら若き乙女が殺害されました。別に、日本に「オリンピック」が決定した腹いせでも無いですが、世界中で最も安全なこのところで、このような悲惨な事がおこるとは。観光産業にも影響は大です。
「嫁はんが数年前に行って写してきた”カッパドキア”」
![Photo Photo](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/0e/c2e028fb23d55346f83bb17dde5d6ad6.jpg)
凄い、自然の景観だそうです。
それはそうと、不肖、我が嫁はんも数年前に「カッパドキア」に一人で行きました、なんと無事に帰国しました。亡くなれた方の御冥福をお祈りします。
以下、いかに「トルコ」が日本国との友好がある国と記載した焼きなおしですが。
2020年のオリンピックは何処の都市なるか?東京かトルコのイスタンブール。私はイスラム圏初のイスタンブールでも良いと思っています。しかし、毎日首都の「イスタンブール」では公務員を巻き込んで大変な デモが発生しています。IOCの印象が気になるとこです。
あまり日本人には知られていない事ですが、日本の外交の歴史で、これほどの美談が他に有ったかと思います。明治23年に和歌山県串本町沖で沈没したオスマントルコ軍艦「エルトゥールル号」の遭難事件です。日本人はこの事件を知るものは少ないですが、トルコでは社会科の教科書に必ず記載されている有名な事件です。120年の時を経た今もトルコの国民に記憶されています。
明治23年に特使の「エミン・オスマン・パシャ提督」率いる使節団が日本国に派遣されました。使節団は宮中で歓待を受け、明治天皇に「オスマントルコ皇帝」からの親書と勲章を献上した後、横浜港を出航し、本国トルコを目指しました。
沈没前のオスマントルコ海軍「エルトゥールル号」
![Photo_5 Photo_5](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/32/912324e62545591263948f3490545f50.jpg)
日本政府は、老朽化した「エルトゥールル号」に不具合が生じていたことや、台風の時期にあたることから、出航を延期するように勧めましたが、一行は本国からの通達を理由に出航してしまいました。これが運命の分かれ道となりました。
出航から二日たった九月十六日の夜半、紀伊熊野灘に差しかかった「エルトゥールル号」は、北上中の台風の中心に入り込み、紀伊大島の樫野崎付近の岩場に座礁しました。そして、船底から浸水して機関が蒸気爆発を起こして、午後九時三十分頃に沈没しました。この遭難事故で生還したのは、提督以下乗組員570名あまりのうちわずか69名のみでした。
外国船の遭難を知った地元住民は、夜を徹して生存者の救助と手当に尽力し、翌朝には地元の村長が関係官庁に連絡して、医師の派遣を要請、さらに各戸一名の人手を出すように指示し、多くの村民たちが生存者を看病しました。紀伊大島は貧しい島で、しかも、台風の影響で漁に出られず、島民はたべるものにも困る状況でしたが、非常食として飼っていたニワトリなどの食料や、浴衣などの衣類を持ちより、遭難者たちに分け与えた伝えられています。
「明治天皇記」によると、この報せをお聞きになった「明治天皇」は大いに驚かれたといいます。天皇は即日、遭難者援助のために海軍の通報艦「八重山」を現場に派遣あそばされ、皇后は日本赤十字社を通じて医師と看護婦を随伴させられました。
「八重山」の乗組員と島民は、収容した遺体を埋葬し、墓標を建てました。その後生存者たちの体力が回復すると、「明治天皇」は軍艦「比叡」と軍艦「金剛」の二隻をオスマントルコに派遣し生存者たちを母国に送還することを命ぜられました。生存者69名を分乗させた二艦は、明治24年一月にイスタンブールに無事到着しました。盛大な歓迎を受けた事はいうまでもありません。しかも事件の翌々年には、民間で集められた義捐金が届けられました。
台風にて「エルトゥールル号」沈没直前を描いた絵画
![Photo_6 Photo_6](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/a6/b098ba2cc4facfbb21925331fa580193.jpg)
和歌山県串本町にある「エルトゥールル号」殉難将士慰霊碑
![Photo_7 Photo_7](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/83/6c7a0530586141b17b33ee7ea11ef922.jpg)
しかし、日本国とトルコの友情の物語はまだ続きがあります。遭難事件から95年もの月日が流れた昭和60年のこどです。イラン・イラク戦争の最中、イラクのサダム・フセイン大統領は三月二十日の午後二時以降、イラン上空を飛ぶ航空機をすべて撃墜する旨の声明を発しました。
各国は軍用機や民間機のチャーター便を派遣して自国民の保護に努めましたが、日本は自衛隊を海外派遣できなうえに、政府が日本航空に救援機の派遣を求めても、日本航空の労働組合が安全性などを理由に反対したことで、日本人の保護が出来なくなりました。そこで、イランに駐在する「野村豊」大使が困り、在イラン・トルコ大使の「イスメット・ビセル」氏に相談したところ、なんとトルコが救援機を派遣して日本人を救出することになったのです。このとき、トルコ大使は「トルコ人なら誰でもエルトゥールル遭難事件の際に受けた恩義を知っています。御恩返しさせて頂きましょう」と語ったといわれています。
そして、本当にトルコ航空の飛行機二機がテヘランに派遣され、215名の日本人は全員救出されました。トルコ経由で日本に無事帰国できました。日本人を乗せた救援機がイラン領土を抜けだしたのは、期限に一時間十五分前でした。少し遅れていたら、撃墜される可能性もある危険な飛行でした。救援機の派遣を決めたトルコの「トルグト・オザル首相」(当時)は、他国民を助けるために、自国民を危険にさらす決断をしたのでした。
これも、日本国民の古来からある「和」の精神がトルコの人の心に通じていたのでしょう。これを思うと、2020年オリンピックはトルコ「イスタンブール」にその座を譲るのも「和」日本人の精神かもしれません。(但し、今の様な首都イスタンブールでの毎日の大デモで警察が介入してきたことで大きなマイナスになる事でしょうが)