京の話題

12000年以上続いた「平安京」の文化・寺社仏閣・お祭り等を紹介します。

京の話題(平安京その208)一条戻橋の名が付いた恐ろしいいわれ

2012-04-23 00:10:34 | 京の話題

ここの橋は不思議な、逸話が多く有ります。今は、堀川一条に架かるコンクリーで造られいますが、昔は木橋しで粗末なものでした。

元々は木橋で、一条の堀川に延暦13年(794年)に架橋されたもので、現在の物は、平成7年(1995年)コンクリート製で建てられたものです。

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延喜18年(918年)文章博士(もんじょうはかせ)である三善清行(みよしきよつら)が亡くなった時、父の死を聞いたその子の淨蔵が紀州熊野から京都に急いで戻り、ちょうど、その葬列はこの橋を通っていました。淨蔵は棺にすがって泣き悲しみ神仏に熱誠を込めて祈願したところ、不思議にも父清行は一時蘇生しました。この父子の物語の逸話から「戻橋」と名付けたと言われています。

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「太平記」剣の巻によれば、その頃、源頼光の四天王の一人であった「渡辺綱」が深夜この橋の東詰で美しい女子にやつした鬼女に出会い、一刀のもとで鬼の片腕を切り落とした話も有名です。

また、中世になると、この橋は罪人のさらし場所になります。処刑場まで引き回しの道となり、処刑された罪人は、この橋を渡って来世に生き返る事を願ったのでしょう。

また、罪人をさらし鋸引きにしたことや、千利休は、豊臣秀吉によって切腹させられて、その首をさらされた事でも有名です。

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戦時中は出征兵士は、出征時に、この橋を渡る習慣が有りました。生きて戻れるようにと。

また、花嫁は式列でこの橋を渡る事は避けました、「戻る」と言う事から、出戻りすると言う忌言葉から来ました。

短い橋です、ケンケンでもすぐ渡れますよ。

たわいも無い名前の橋ですが、その名には数知れずのいわれが残されています。

(たわごと)

東京都知事の尖閣諸島を購買するニュースが、賑わっていますね。今の、日本は領土問題が有ると思いますか?そんなもの一切ありません。れっきとした日本領土です。東京都民は東京の税金で「尖閣」を買うのは、とケチっていますが(大多数の都民は賛成です)、今、全国から寄付が殺到しています。都知事は来年の予算で購買と言っていますが、本年度の臨時予算で、本年中に実行します。購買価格?10億円とも20億円とも言われています。

くそずるい、中国が、以前に350億円で買いに行ったという事ですが、さすが地権者、バーンとはねつけたのはさすが日本を愛する国民、感心します。もう、多くの寄付の希望者が殺到しています。あっと言う間に20億円位は集まり、税金の負担はほとんどなし。情けない、民主党政府は後追いごっこ。はっきり、はっきり言っておきます、領土問題は一切有りません。(日本の教育方針に問題が有ります、自国を愛する教育をしていない国なんてありませんよ。国家・国旗なにおか言わんです)

難癖付けて、横取りしようとしているのは、中国や韓国(竹島)。それとロシヤ、しかし北方問題は、ロシヤがすでに実行支配している為、これは難しいです。


京の話題(平安京その207)京都御所の鬼門を守る猿

2012-04-22 00:54:43 | 京の話題

一部、夢遊病の様に記載した記事は、汗顔のいたり、情けなく、削除します(情けない)出来ればこちらにコメお待ちしています

昨夜、べろべろやったのにどこが気を改めてか?まあ、それはそうとして、京都人でも知らない故事を。

京都御苑に入り、中にひときわ綺麗な壁が囲われています。この中が、正式には「京都御所」となります。

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この、京都御苑内の御所を一周しますと、何か不思議な角有ります。

南側の両角と北西の角はちゃんと直角です。

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しかし、北東の角(鬼門)は不思議にも、こんな造りです。

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ここが「猿ヶ辻」と言われ、ここに「烏帽子」を被り「御幣」(ごへい)担いだ木彫りの猿が祀られています。これが「猿ヶ辻」と呼ばれる所です。

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歴史で言われる「猿ヶ辻の変」です。文久3年(1863年)五月二十日の深夜に、青年貴族「姉小路公知」(きんとも)が朝議の帰りに刺客に襲われて殺されます。公知は過激な尊王攘夷派でしたが、「勝海舟」らに賛同して開国派に転向しつつあった為に、刺客に殺害されたと言う事です。

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何故、この猿ヶ辻はこのように呼ばれるのでしょうか。「猿」の方位は東北に当たる事から、鬼門を守る為にこの名が付きました。そしてこの塀だけが内側に折れ曲がっているのも、角を無くすことで鬼を封じる意味となります。本当の鬼門は「南東」(裏鬼門)ですが、御所は南が北としています。(天皇は南に向き座りましら、それからして地図上では正式に、北東が鬼門(本当は裏鬼門)となります。また良い例は、地図をみると、左が右京、右が左京、逆でしょう。これも全て御所から南に向いてそう決めていたそうです)

そして、この「猿」には金網が張ってあるます。ここ御所の鬼門を守るようにと金網で封じています。この「猿」は比叡山延暦寺の日吉大社から使わされた「猿」で、毎夜、逃げ出して人にいたずらをしていたそうです。その為に金網を張って逃げないようにしたと言う逸話が有ります。

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京都御苑内の御所の塀を一回りするのには、あまり時間は要りません。是非、一周りをおすすめします。

(まめ知識)鬼門はほぼ、南東です。なぜ?その疑問は昔の和時計を見てください。十二時(0時)から、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・羊・申・酉・戌・亥とで十二時間(昔は陰暦でしたから正確には、冬の一時間と夏の一時間は少し長さが変わりますが)

鬼門の北東は、だいたい、牛と寅の方角になります。よって鬼門は丑寅(うしとら)と言われています。鬼の姿を想像してください。牛の角(つの)を付け、虎のふんどしをしています。(これが鬼の制服?)ですから、鬼は、牛と寅の化身とも言われます。

ちょうど、逆の方向は申(さる)酉(とり)戌(いぬ)となります。「桃太郎」はただのおとぎ話では無く、鬼退治に行くのに、猿・鳥・犬をお供に連れて行きました。このお供はただの意味では無く、鬼を退治する、裏鬼門の動物です。ですから、鬼を封じる為のおまじないとされています。(こんな、おとぎ話も、奥が深いのやな)

今日は、うんちく無、余りの政治の馬鹿らしさに言う事なし。アホかいな。

今、少し酔いが覚めました~。


京の話題(平安京その206)もう一度京都御苑蛤御門を確認

2012-04-21 00:25:44 | 京の話題

ここ「蛤御門」は幕末の有名な「禁門の変」でお馴染みです。http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20111230

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前記の記事で今でも弾痕跡が有ると言いました。

この門は焼けませんでしたが、この変で戦火は京都の町を襲い、三日余りにかけて燃え続けました。この大火は、鉄砲や大砲の火で発生したために「鉄砲焼け」「どんどん焼け」ともよんでいます。

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この「蛤御門」は正式には「新在家御門」(しんざいけごもん)と呼ばれ、常に閉じていることで知られていました。しかし、天明8年(1788年)の「天明の大火」で初めて開けられました。

そこで「焼けて口開く蛤御門」と言う文句が生まれ、「蛤御門」と言う名になったと言う事です。

本記事は、写真が少なくて申し訳ありません。(うんちくばっかりで)

天明の大火は、京の二大大火で、宝永の大火(宝永5年・1708年)と供に有名です。この一つの、宝永の大火は油小路・姉小路通あたりから出火して、火は西南風に煽られて、北は今出川の南、南は四条迄が類焼し、町数415町・家数10130軒・寺数50ヶ所・神社18ヶ所・西道場12ヶ所・東道場23ヶ所・土蔵に火入670余と記録されています。「宝永五年炎上記」より。

そして、約80年後のに発生したのが、桁違いの、大大惨事「天明の大火」です。この大火は応仁の乱以来の大惨事で北は、鞍馬口通や大徳寺、南は東本願寺、東は鴨川まで、西は千本通までと言うと、ほとんどの京都の九割の市街地が火の海になりました。もちろん、京都御所や二条城も炎上しました。(皆さん火の元は充分に気をつけましょう)これは「京都大火記録」「天明炎上記」などの記録にシッカリと残されています、焼失町1424・家屋36797・世帯65340・寺院201・神社37ということです。この火元は「団栗」あたりの民家の火始末からという事です。(火に元はしっかりと)

この御門を見て、心を引き締め「京都御苑」にお邪魔します。

(たわごと)

昨日の二大臣の問責決議可決。他国からどう見られているのでしょうか。別に、強制力は有りませんが(総理が罷免しない限り)私でしたら、あの顔出して、よう道歩けません(私が、大臣になるわけ無いけど)。国会の多くの議案は完全に停止。原発や震災の問題もそっちのけ。今の、国会議員は国を憂いてなく、自分の事だけ憂いているのかな?アホみたい。

速報:新座市(埼玉県)の美人タレント市会議員が、選挙管理委員から当選無効とのこと。立候補者や投票権は3ヶ月以上その地区に居住していなければならないのは、皆さんご存じと思います。しかし、美人タレントでの立川あすか市議は、居住していた形跡は一切無、ガス・水道等を使用した形跡が無く、東京都内で居住していたと言う事です。地元に密着して、地元の住民に奉仕する市議の本分が全く分かっていないアホ女。ちなみに、ヨーロッパやアメリカの市議はほとんど無給のボランティア。昼間は自分の仕事をして、夜や休日に議会に出席。これがホントの地方自治の大切な所と思います。税金も無駄に議員に払う事はないし。今の、県議や市議は何を考えてるのかな?(この事安で、また、橋下大阪市長の人気UP)

速報:神社が破産宣告。青森県の弘前東照宮(国指定重要文化財)が裁判所の自己破産宣告決定。先々代の宮司が本殿を担保にし、結婚披露宴会場の経営に失敗し、自己破産。元和3年(1617年)創建の由緒正しい神社が破産、売却され競売に。法人・個人への売却は可能との事。このニュースを聞いたらhttp://itodoya.blog.ocn.ne.jp/blog/2012/04/post_c308.html#commentsで言われていた、方のぼやきが、ますます納得します。但し、国宝や外国人は購買出来ませんが。と、言っても海外人(特に中国人)が裏で日本人をかえして購買すればどうなるのかな?あとは、ご想像に。


京の話題(平安京その205)ちょっと真面目に京都御苑一周・御門を散策

2012-04-20 00:11:29 | 京の話題

先日、「島原」の「花街」の記事のあとで、ものすごく不謹慎と思われますが、以前、京都御苑(御所)のあらかたを紹介しました。この御苑の内容はこちらから見てください。http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20111229ここは京都人の癒しの場です。

京都御苑外塀をぐるっと一周する距離はいくら位と思います?ほぼ一里(約4000m)となります。これも何か計算されて、建造されているのかな?と色々調べましたが、結論は分からずでした。そして「御門」を数えてきました。何門有ると思います?

良い気持ちです、前は、真冬の京都御苑を歩きました。今回は、まず、外を一周ぐるっと回る事にします。その全ての御門を紹介します。その後に、ちょっと不思議な所へ。(後記へ)

まず南に面した「堺町御門」

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西側は北から「乾御門」

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「中立売御門」

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「蛤御門」この御門の「蛤御門の変」(禁門の変)は以前に記載しました。http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20111230

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「下立売御門」

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東側は南から「寺町御門」

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「清和院御門」

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「石薬師御門」(このあたりが、裏鬼門となります)

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「今出川御門」一番の北御門。

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そうです、全部で九門です、難問でした(これは洒落?)大人が少し早く歩いてちょうど一時間足らずです。御苑に入る前に一度外周をウォーキングして御門を見物してから、どうです。

そしてやはり「蛤御門」から入ります。「蛤御門」のうんちくは未だあります。

(たわごと)

最近、警察関係者の不祥事や犯罪が多いです。我々の安全・安心を守ってくれる、警察がこのていたらく。皆さん、全国で警察官は何人位おられるか分かりますか?25万人位です。あと、公安やインターポール・皇宮警察やその他で、27万人位かな。1億2千万人の国民の数ではこれでいいのですか?しかし、警察官の品格にも欠けるとこが有ります。難しい問題です。キャリアの問題も多く有りますが。現場の警察官、給料が安すぎます。ハードな職務にも関わらず、これも、不祥事の原因かな?

尖閣は、日本固有の島、領土問題は有りません。中国が難癖付けているだけ。しかし、石原都知事の決断でアホの政府も腰をあげるて、この一石は大きいです。(下手したら、中国に沖縄石垣まで占領されます、あの国は何でも有りですから)


京の話題(平安京その204)誤解していた京都島原の続々編

2012-04-19 00:33:03 | 京の話題

出来れば、前記の203回訂正記事を閲覧の上この欄を閲覧頂ければ、より納得できます。

昨日、「島原」お詫びのと訂正の記事を記載しました、もう一度だけ記載します。ここ「島原」は地図上には有りません。正確には「六角三筋町」となります。しかし、なぜ、ここが「島原」なったのかは定かではありませんが、この「島原」がこの地に「朱雀野」に移転騒動が寛永18年(1641年)の四・五年前に九州の島原で起きた「島原の乱」を思わせたことから、「島原」と呼ばれるようになったと言う説もあります。(あくまでも説です)

「大門」の中の住所は以下です。西神屋敷中之町です。

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このエリアは、文化財エリアです。

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「島原」の「大門」を入り、少し真っすぐに行き、左に曲がると、だだ一軒の「揚屋」の「角屋」に行きます。

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一軒だけ現存している、「揚屋」(国指定重要文化財)をもう少し、見ていく事にします。

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いかにも「花街」の通りです。

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「角屋」に入り、帳場を通り、

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気の荒い侍は、酒の上で、暴れて刃傷沙汰にならないように、必ず、この刀掛に預けるのがしきたりです。(私の愛刀・同田貫二尺五寸・居合用は後記に機会が有れば紹介します、今は年で二尺四寸五分にて、性一杯です)

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そして、「松の間」へと案内され、「松の間」から有名な「臥龍松」や重要文化財の茶室三軒を眺めます。

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新撰組の前身である、清川八郎にいっぱい食わされた、浪士隊隊長「芹沢鴨」も暗殺される直前に、この庭を楽しんだと言う事です。

「司馬遼太郎」氏著の「燃えよ剣」等で、新撰組の前身である「浪士隊隊長」の「芹沢鴨」は町人達への、目に余る乱暴、振る舞いで、京都守護職「松平容保」(まつだいらかたもり)の命により、副長・近藤勇にその殺害を密かに命じました。(実際に行動したのは土方歳三)しかし「芹沢鴨」は「神道無念流」の達人の為、近藤勇らは(天然理心流)田舎剣術、容易に殺害することができません。策を案じ、この「角屋」でしこたま泥酔させ(ここ揚屋は前記の通り宿泊できません)その夜の帰り道に、襲撃して殺害しました。そして「近藤勇」が局長となり有名な「新撰組」(松平容保預かり)が誕生しました。

ここは、「新撰組」屯所は壬生寺http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120215 に近い為よく利用したと言う事です。が、前記にて、倒幕派の「桂小五郎」「西郷隆盛」「久坂玄瑞」等もよく利用したと記載しました。しかし、ここでの衝突は無かったらしいです。それ、そこが花街のお商売、帳場で絶対に両者が顔を合わせないようにと、ちゃんと、調整したと言う事です。(お商売は難しい、特に京都の人は上手に世渡りします)

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もう一つ、誤解の無いように。「太夫」と「花魁」(おいらん)の違いは、「太夫」は舞や音曲・お茶・和歌・俳諧等の教養を身につけていました。しかし「花魁」は芸を披露しないため、歌舞音曲を必要としません。

「太夫」と「花魁」との外見上の大きな違いは、帯の結び方で、「太夫」は前に「心」と結ぶのに対して、「花魁」の帯は前にだらりと結ぶだけです。

しかし、今までの寺社仏閣の話にはこんなに力入れないで、この種の話では力の入る事、不思議です。

本来は京都所司代が有りますが、これだけでは手が回らなく、特別に、京都守護職(松平容保)がいやいや、幕府から命じられました。くろ谷http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20111223に本陣を設けました。松平容保も、少し新撰組が目障りだったそうです。(ほとんどは、正式な武士では無く、郷士・町人等の旗本に取りたててもらいたい連中でした。勿論ちゃんとした武士もおりましたが、 はっきり言ってバッタモンの殺人集団でしたので)しかし戊辰戦争ではよく働きました。ここでは記載しませんが「近藤勇」の末路は哀れな物でした。

(江戸三大道場)

神道無念流:斎藤弥九郎。北辰一刀流:千葉周作。鏡新明智流:桃井春蔵、の三大流派が幕末で有名な流派。(江戸の武士たちはこぞってこの道場に通いました)この話をすると止まりませんので、うんちくはこのへんで。

(清川八郎)

ひじょうな策士で、江戸で、尊王攘夷・倒幕の武士たちを集めて、京都は幕府軍に付くようにねがえらさせた、策士です。非常に母思いで、この「角屋」にも連れて親孝行した記録が有ります。(これも出羽国庄内藩の郷士です。玄武館の千葉周作に剣を習いました,免許皆伝で剣は達人です)