京の話題

12000年以上続いた「平安京」の文化・寺社仏閣・お祭り等を紹介します。

恐ろしい欧州の宗教戦争の連鎖 ・前記の続き

2013-05-31 06:46:35 | 我が誇れる日本国の事

宗教戦争といえば普通は、欧州における16世紀にかけて宗教改革運動に伴っておきた一連の戦争をいいます。カソリックとプロテスタント両派の宗教対立と政治対立が結びついた戦争で、国際規模の戦争にはってんします。シュマルカルデン戦争、ユグノー戦争、八十年戦争、三十年戦争など多くの、国際戦争がありました。

 欧州最後の宗教戦争と呼ばれた三十年戦争はドイツを舞台に行われた国際戦争で、周辺諸国が介入して大規模な国際戦争になりました。その名の通り長期間にわたり行われた戦争です。発端は宗教戦争でしたが、結果は列強の領土争奪戦としての性格になり、この戦争の結果、ドイツ各国の領土主権が認められ、神聖ローマ帝国は実質的に崩壊しました。

 三十年戦争は人類史のなかでも最も破滅的な戦争の一つでした。ドイツの全土が戦場となり、ドイツの人口の三分の一にあたる約600万人が命を落とし、むらの六分の五が破壊されました。これによりドイツの農業の基盤が破壊され、経済は完全な麻酔状態となって著しく停滞しました。統一国家の建設も各国よりおおいに遅れ、19世紀後半までもちこされることになるなど、どいつの発展は200年間は後退したといわれています。

 以上の戦争で兵士として戦ったのは大半が傭兵でした。ドイツ人達は戦争によって村が荒らされ、休戦中も傭兵によって略奪と殺戮が繰り返されました。ドイツの冬は寒いです。家を焼かれた農民が、寒さで次々と死んでいきました。

有名な、ジャック・カロの描いた三十年戦争における農村での虐殺(被絞首刑者生る樹)の版画絵

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当時は「ドイツ」という主権国家が有ったわけでなく、神聖ろーま帝国の一地域でした。戦争犠牲者については諸説ありますが人口の90%が犠牲になった地域も有ると言われています。

 三十年戦争のように、人口の何割もの戦争犠牲者を出す事などは、日本では一度も有りませんで市歌。日本史上最悪の大東亜戦争ですら、戦争犠牲者は4%未満であったと言われています。

 三十年戦争の最も悲惨なことは、非戦闘員を最初から虐殺する戦略でした。日本の戦争では、当時実用化されいた大砲は「城」を攻めるときのみに使用されるものでしたが、三十年戦争は最初から都市を攻撃するために使用されました。

以上の事がら、太平洋戦争の末期に、アメリカ軍が日本国土の無差別爆撃や、あのおぞましい、広島・長崎の原爆攻撃はいかに非人道的なものと分かります。


「和」の国、日本国の仏教では考えれれない、外国の悲惨な宗教戦争の歴史

2013-05-30 03:18:15 | 我が誇れる日本国の事

前記に日本国は「和」の国によって成り立っていると記載しました。日本国は「縄文時代」から宗教において悲惨な戦争はほとんど有りませんでした。また「仏教」が日本に伝来しても、以前からその土地で信仰されいた「産土神」とうまく融合して、「神仏融合」となり長く平和な宗教世界が築かれてゆきました。

少し、世界に目を向けてい見ると、世界の人類の歴史は、「宗経戦争」の歴史の連続でもありました。

中世における最も悲惨な宗経戦争は「十字軍遠征」であると考えられます。ローマ経王「ウルパヌス三世」が、聖地エルサレムを異教徒の手から戻すように号令をかけや事で、約20000人の軍隊が結成されました。「第一回十字軍遠征」のはじまりです。エルサレムは「ユダヤ教」・「キリスト教」・「イスラム教」共通の聖地で「イエス・キリスト」処刑された地です。その帰属については古代から深刻な対立が有りました。

1099年に十字軍による「エルサレム」への攻撃が始まると、イスラム側はたちまち総崩れになりました。降伏した「イスラム総督」は財産をすべて渡すことで亡命が許され、結局、総督とその警護兵を除くと、すべてのイスラム兵が殺されたと伝えられています。戦争で、敗戦国の全の兵を処刑するのは、全く尋常な事ではありません。

第一回エルサレム攻撃(写本)

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そして、エルサレムを制圧した十字軍は、エルサレム王国を建て、イスラム教徒とユダヤ教徒らを虐殺し、全ての財産を奪いました。これに味を占めたヨーロッパのキリスト教徒の諸候は、様々な経済権益を求めてイスラム世界への略奪を繰り返しました。

キリスト教とイスラム教による聖地をめぐる骨肉の争いは長らく続き、1187年にイスラムの英雄「サラディン」により、およそ90年ぶりにエルサレムがイスラム教に奪還されました。「教皇サラディン八世」は聖地奪還のため、再度の十字軍遠征を呼びかけますが、成果は上がりませんでした。

その後、神聖ローマ帝国の「皇帝フリードリヒ二世」の遠征により、1229年にキリスト教側が再びエルサレムを手中に収めましたが、1244年にイスラム側に攻撃されてエルサレムは再び陥落し、多くのキリスト教徒が殺されました。その後、エルサレムは1917年にイギリス軍がオスマン軍を破り入城するまでは、イスラム世界が支配することになります。

しかし、聖地をめぐる宗教戦争は現代まで続いているのは、誰でも知っています。20世紀初期よりユダヤ人のパレスチナ移住が増大して、1947年の国際連合総会でパレスチナをアラブ国家とユダヤ国家に分断する決議が採択されると、イスラムはその決議を受け入れ1948年に独立宣言をしました。その後も、イスラエルは周辺アラブ諸国と四度の中東戦争を経て、現在でもパレスチナ武装勢力との紛争を続けています。問題は、エルサレムの帰属があるために、いずれも宗教的な対立が背景にあります。

中東には反米の思想を持つイスラム教徒が多く、あの記憶にも新しい2003年のイラク戦争以降、反米テロが各地で起こり、現代でもイスラム教徒とキリスト教徒が対立する世界の構造になっています。(元々は、同じ、イエス・キリストからの宗教的基盤からのものでありますが)

以上の事をふまえて、いかに宗教的には「仏教宗派」は一部を除いて、平和な「和」を保って現代まで来たと感心さされます。


京の話題 (平安京その534)密教寺院に見られる「釈尊」の若き王子の姿・大日如来像のこと

2013-05-29 00:26:10 | 京の話題

「大日如来像」は密教では、「諸仏の王」とされる仏さまです。宇宙の真理を象徴するものとも言われています。

密教では、あらゆる如来も菩薩も、「大日如来」から出たもどであると説いています。「釈尊」(お釈迦さま)までも「大日如来」という真理の仏のひとつの姿にすぎないと説いています。

「京都将軍塚・青蓮院門跡別院」(大日如来像)・見晴らし(京都市内一望)のお寺で、心がなごむ気持ちのいい、お奨めのお寺です)http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120514

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日本の「密教寺院」にみられる「大日如来」は「釈尊」の王子であったお姿をかたどったものとされています。よって「大日如来像」は、若々しい・美しい男の顔をしています。密教ではこの像について以下のように説かれています。

 「大日如来はすでに悟りをひらいた仏であるが、その像は、釈尊が悟りにいたりながら自らは俗世間にあって人々を教え導く姿をあらわすものである。ゆえに大日如来は如来であっても菩薩の姿をとる」

 以上の考え方から、「大日如来」は、宝冠・胸飾などをつけた美しいお姿をしています。

 空海が創建した有名な「東寺・経王護国寺」(大日如来像)

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有名な「東寺」と「平安京」の詳細は、本ブログの初期から数回に分けて、克明に記載しています。 http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20110913

 


京の話題(平安京その533)浄土三部経で重んじられる「阿弥陀如来像」のこと

2013-05-27 20:58:54 | 京の話題

「阿弥陀如来」は、浄土三部経(大乗仏教の教えで、無量寿経・阿弥陀経・観無量寿経)で重んじられた仏さまで、人々を極楽往生に導くものとされています。この「阿弥陀如来」は「釈尊」(お釈迦様)そのものではなく、「釈尊」の教えをわかりやすく人々につたえるために「人格化」された仏さまとされています。

 「阿弥陀如来」とは「仏法」そのものであり、それを信仰するすべての仏教徒が「阿弥陀仏」だとすることになります。「浄土真宗」の祖「親鸞」、「時宗」をひらいた「一遍」は、この説にもとずいてすべての人間がすでに「阿弥陀仏」に救われているとの主張をしました。

 「阿弥陀如来像」は、古代インドのひとりの国王の姿をかたどって造られたとされています。これは「浄土三部経」の一つの「無量寿経」の以下の話にもとずくものです。

 「はるか昔に王位を捨てて、世自在王如来(せじざいおう)の教えをうけて四十八の誓願をたてて修業した者がいた。かれはその修業のおかげで極楽往生したのちに、あらゆる人々を救う仏である阿弥陀如来になった」

 「浄瑠璃寺」(国宝・阿弥陀如来像)

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「浄瑠璃寺」(国宝・九体仏)

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「阿弥陀如来」の「阿弥陀」は、「あらゆるものを照らす光」をあらわします。この名前にあらわされるように、「阿弥陀如来」はすべての人を助けるとされました。 

「誓願寺」(浄土宗西山深草派総本山)京都新京極通りから拝める、巨大な「阿弥陀如来像」です。

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日本で「浄土信仰」がさかんになると、雲に乗って死者を迎えに来る「阿弥陀如来図」が多く描かれるようになりました。

「古知谷・阿弥陀寺」(京都大原・浄土宗一流本山i)阿弥陀如来図

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 「阿弥陀如来」は多くの「菩薩」と「聖者」を引き連れて、極楽から迎えに来ますが、「如来」に従う「菩薩」たちも、もとは「阿弥陀信仰」によって「極楽往生」した人々だとされています。この「阿弥陀信仰」が、貧困・戦乱・天災に苦しむ中世の日本の庶民の大きな救いになり、日本全国に広まりました。


京の話題(平安京その532)釈迦如来像につづく、薬師如来像のこと

2013-05-26 21:04:57 | 京の話題

如来像に順位を付けるのは真に罰あたりですが前記「釈迦如来像」が「釈尊」(お釈迦様)のお姿を借りて造られた仏像は、「上座部仏教」や「大乗仏教」においても間違いのないことです。

 では「薬師如来像」の事を。

 「東寺”経王護国寺”」(薬師如来像)

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奈良の薬師寺などで祀られている「薬師如来」は正式には「薬師瑠璃光如来」といいます。この仏さまは主に体の病を治してくれる仏像として信仰されてきました。

 「薬師如来」は人々を救いたいとする「修業中の釈尊」(お釈迦様)の現世的な御利益を象徴するものとされています。「薬師如来」(お釈迦様)が修業中の菩薩であったときに十二の大願をたてました。このなかに「除病安楽」がありました。それは、以下のものです。

 「体が不自由であったり、重い病に悩む者が、私の名を聞けば必ず体がよくなり、病がなおるようにしよう。名医や妙薬のなおせない病を私の力で退散させよう」

 以上の話にもとずいて「釈尊」の病人を救う機能が「薬師如来像」として信仰されるようになりました。

 京都で有名な「因幡薬師・平等寺」京都市下京区(私の、お奨めのお寺です)http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120708が自由に、御本尊を参拝することが出来ます。