京の話題

12000年以上続いた「平安京」の文化・寺社仏閣・お祭り等を紹介します。

京の話題(平安京その571)150年ぶり「大船鉾」の復活と50年ぶり後祭りの再開

2014-07-24 21:13:04 | 京の話題

 久しぶりに記事を、特別に。

五十年前に若返った気持ちです。

 今年平成26年から、五十年ぶりに(正確には49年)祇園祭(正確には、祇園御霊会)が先祭りと後祭りの正式な形態に戻りました。この形態の祇園・・・というお祭りは全国に多く有りますが全てこのお祭りから派生しています。始まりは、貞観11年(869年)です。その後色々と形態を変えて現在に至っています。

現在は、先祭りは山鉾合わせて23基、今日の巡行の後祭りは鉾1基、曳き山2基、舁き山7基の全部で10基です。しかし、後祭りの町衆は、先祭りに負けずに誇りを持ち、また化装品も後祭りの方が以前は優れていたらしいとの事です。現在は、甲乙つけがたいですが。(あくまでも、先人から昔に聞いた記憶です)   

そして、蛤御門の変(元治元年・1864年・禁門の変)京の三大大火で焼失した「大船鉾」が復活しました。なんと、祇園祭りの巡行が二度楽しむ事が出来るようになったという事です。これは京都に生きるもものとして大変な出来事?

 観光上や警備の問題で、先祭りと後祭りが同時に行われるように決まった時は大変な騒ぎでした。後祭り(正確には、上祭り)のある山町はプライドが許さずにボイコットした時もありました。しかし時勢の波には逆らえずに全ての山町が先祭り(正確にには、下祭り)に参加して、巡行が17日に統一されました。が、まさにこの年から古来の風習に基づいて、先祭りと後祭りが分かれて行われるという快挙になったのです。

 そして「大船鉾」の150年ぶりの蘇り。京の町衆の物凄さです。

以上の理由で古来の習慣に基づいて後祭りの巡行が、くじ取らずの一番先頭をかざるのが「橋弁慶山」です。牛若丸と武蔵坊弁慶が「五条の橋」で出会った一場面んを飾っています。不思議なことに、牛若丸は片足一本で立っていて「山」の上で揺られても絶対倒れません。昔の人の知恵はすごかったです。

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二番目には、北観音山(正確には上り観音)、昔は舁山でしたが、大きくなりすぎて、曳き山となりお囃子も賑やかです。ご祭神は柳が山に付けられているの良く分かり「揚柳観音」と「韋駄天立像」です。

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次は「八幡山」。昔から町内に祀られている八幡様が御神体です。

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次は「淨妙山」平家物語の「宇治川の合戦」の一場面。御身体は三井寺の僧兵「筒井淨妙」と「一来法師」です。片手一本で「淨妙」の頭 を飛び越える、これも揺れる山で不思議に折れない昔の人の知恵は偉かった。

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 次は「鈴鹿山」御祭神は「鈴鹿権現」。伊勢国の鈴鹿山を通る旅人を鬼が苦しめこの「悪鬼」を退治した「瀬織津姫命」(せおりつひめのみこと・鈴鹿権現)をお祀りしてあります。

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次は、これも賑やかなお囃子が有る「南観音山」。ご祭神は「揚柳観音」(ようりゅうかんのん)で宵山の最後には不思議な奇祭「暴れ観音」とも「縛り観音」とも言われる、行事が夜の遅くに行われます。これを見て帰るには、終電車を乗り遅れるのを覚悟してからです。

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次は有名な「鯉山」この鯉は伝「左甚五郎」作と言われていますが、日本には多分多くの「左甚五郎」が居たと私は思います。

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宵山では近くでこの鯉をじっくり鑑賞出来ます。中国の龍門の滝をのぼる勇姿を表し、出世栄達の御利益があるといわれています。

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次は、「役行者山」(えんのぎょうじゃやま)。御神体は「役行者」「一言主神」(ひとことぬしのかみ)「葛城神」(かつらぎのかみ)で三柱をお祀りしています。

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 次は、「黒主山」。御神体は六歌仙の一人で(古今集序に論評された、平安時代初期の和歌の六名人)有名な「大友黒主」。美しい桜の花を仰ぎながら詩をよんでいる姿を表しています。

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そして、いよいよ最後は期待の「大船鉾」です。見えてきました。

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辻回しをして。御祭神は第14代天皇「仲哀天皇」(ちゅうあいAC178~200年)の皇后陛下「神功皇后」と言う事は有名な第16代天皇「仁徳天皇」の祖母にあたります。新羅征伐で有名です。「神功皇后」を御神体にしているのは、前祭りの「占出山」や「船鉾」でも有名です。

 

そして「大船鉾」が巡行の最後をかざって進んで行きます。

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これで「後の祭り」の巡行が後の祭りです。「後の祭り」(済んでしまった事は仕方が無い)という言葉はここからきたとも言われています。

 本来の後祭りの巡行は「河原町通」ではなく、「寺町通」を南に巡行していましたが、今はアーケイドが作られてこの「河原町通」を巡行することになったのでしょう。

まだまだ、京都の大火で焼失し復興を期待する「鷹山」「恵比寿山」「布袋山」等多くの山鉾があります。今後益々このお祭りは1100年以上の歴史を経てはってんいくことでしょう。デズニーランドやUSJ持ち出しては罰が当りますが、年々進化しているお祭りはなんと素晴らしいものでしょうか。

「祇園祭」の一カ月にわたる神事の詳細は一昨年の記事で、7月1日の「吉符入り」から7月31の「疫神社夏越祭」(なごしさい)まで克明に記載しています。http://itodoya.blog.ocn.ne.jp/blog/2012/07/274_8fe3.html


京の話題(平安京その570)いよいよ50年ぶりに、祇園祭巡行、先と後祭りが元に戻りました。約100年

2014-07-07 02:11:20 | 京の話題

いよいよ今年から、約百年ぶりに「大船鉾」の復旧です、昨年迄は町内で居祭(いまつり)だけで、巡行は、御神体だけ居入れた、唐櫃(からびつ)巡行だけでしたが、50年ぶりに、先祭りと後まり(町内の方は、下祭りと上祭りと呼んでいますが)分かれての巡行楽しみです。

  例年行われいた、宵山での展示です。大きな「御幣」が特徴です。

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焼け残った船の「大舵」(ちなみに船鉾は綺麗な螺鈿です)

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幕末の蛤御門の変」(禁門の変)による大火(1864年)で本体が焼失した「大船鉾」が今年から巡行復帰します。「大船鉾」は、後祭り山鉾の最後尾を飾った船形の鉾です。前祭り(巡行は17日)跡祭りとともに、巡行列のしんがりは、船形の鉾が努めていました。

 今年、後祭り」の」復興と共に、その形が蘇ります。

 明治期以降は、江戸時代から装飾品を宵山に「居祭り」を続け、平成9年から囃子方を組織して、お囃子の復興に努めて、この日のために、準備をして来ました。平成24年からは御神体の「神功皇后」の護身面を唐櫃に納めて巡行に参加してきました。

  今年初めて姿を見せる大船鉾(新町通四条下ル)には20日から23日まで鉾上での一般参加が出来ます。

 江戸時代の「大船鉾」図

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なおこの大船鉾は、先祭りの船鉾(出征船鉾)とこの大船鉾(凱旋船鉾)と対になり、共に、御神体は「神功皇后」です。よってお祭りにかかせない、陰陽がやっと揃いました。ちなみに先祭りの「占出山」も御神体は「神功皇后」です。

先祭りの穂先には「鷁」(げき)という架空の鳥を飾りますが、「大船鉾」は上の絵の様に「おきな金御幣」を飾ります。

 まだまだ、復興を要する山(鷹山・恵比寿山)などがあります。

祇園祭りファンとしては楽しみが増えます。小学生の時に後祭りに「観音山」で長じかん時間うっとりとお囃子を聞ていた覚えがあります。静かなお祭りでした。

昭和27年に復興した「菊水鉾」も当初は、化装品などは粗末な物でしたが、この「大船鉾」も年々見事な化装品が増えていく事でしょう。


京の話題その569.血沸き肉躍る、お祭りの季節、到来です。

2014-04-17 11:52:32 | 京の話題

例年に無い、不順な冬も終わり、桜もすっかり散り、いよいよお祭りの季節の到来です。(それまでも、各地で色々と冬祭りなどの行事が有りましたが)

 お祭りは庶民のものです。大きく分けて、春祭りと秋祭りが有りますが、春祭りは、神様にこれからの豊作を祈願し、秋祭りは、五穀豊穣を感謝するお祭りです。(京都の葵祭り 、祇園祭は例外ですが。)地方に、数えきれないほどの、祇園※※祭りというお祭りが有りますが、全て、京都の祇園祭が起源です。(正式には、祇園御霊会といいますが)

 来月の5月15日に行列のある「葵祭」の詳細(起源から行列の説明を細かく記載しています)は一昨年の5月17日の小生のブログを参照下さい。何しろ、平安遷都以前の「飛鳥時代」に起こりをなしたお祭りですから。日本最古のお祭りです。http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120517

 また7月から始まる「祇園祭」。今年から以前先祭り(下祭り)後祭り (地元の方は誇りを持って、上祭りと言っていますが)が分かれ、二度楽しむことが出来るようです。「天明の大火で焼失した、大船鉾の復活も多いに楽しみです。これからも、天明の大火や蛤御門の変で焼失した「鉾」や「山」が復活いしていくでしょう。

 詳細を書くときりが無いので、祇園祭の一カ月にわたる行事は一昨年に、私のブログで一月にかけて、詳細に記載しています、お暇ならご覧下さい。祇園祭の一カ月わたる記事はhttp://itodoya.blog.ocn.ne.jp/blog/2012/07/274_8fe3.html

詳細に記載しています。もしも、お暇・お暇・お暇ならご覧l下さい。一応、祇園祭の詳細が分かるかな?

 少し、7月の「祇園祭」には早いですが、昔の祇園祭巡行風景を紹介します。

 戦後、間もなくの巡行です。四条通りを巡行する「函谷鉾」(かんこくほこ)。今は、ビルばかりで鉾はあまり大きく見えませんが、この当時は、物凄く大きく見えたものです。

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四条通りを巡行する「月鉾」民家が小さく見えますネ。

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昭和35~36年頃の新町通りを巡行する、「船鉾」

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今は、すっかり観光化されて、役員さん達も、袴に裃(かみしも)のかたぐるしい正装で巡行していますが、当時は気楽な姿で巡行、それが本来の庶民のお祭りでしょう。

 


ひさしぶりにに、、上社と下社の初詣。(上賀茂神社と下鴨神社の初詣) 平安京その568

2014-01-02 22:21:01 | 京の話題

ひさしぶりに、投稿します。御無沙汰しています。勿論、両神社とも「世界遺産」です。ここお祭りは5月に盛大にとりおこなわれ「葵祭」として京都三大祭りの一つです。お祭りの詳細はかなり以前に紹介しました。良く分かりますョ。http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120517絶対に見所満載です。

まずは上賀茂神社です。賀茂川の右岸には東に」比叡山、また、府立植物園の森をみて緑陰をつくる快適な街道です。北に進むと御蘭橋に至ります。すぐそこに上賀茂神社の一の鳥居に有ります。今年の鴨社は「遷宮」が近づき賑やかな、お正月でした。うんちくはともヵく、、上鴨神社は正式には「賀茂別雷神社」(かもわけいかずち)と言います。細かい事は月にして、参拝を。二礼二拍一礼ですよ。

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御神馬も今年は「午」年で大忙しです。

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本殿を参拝します。

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そして、上社とともに下社(下鴨神社)も参詣するのが、ならいです。

 「下神社」は賀茂大橋の真下で東北からながれききた「高野川」と北西からの「賀茂川」が合流して、そのそ南は「鴨川」として、三条・四条・五条の大橋の下を流れくだる、この「高野川」と「賀茂川」の三角洲からきたに歩くと、京都が都であるはるか以前の植生を残す「糺の森」(ただすのもり)に入ります。

 以下は「下社」の下賀茂神社を紹介します。「下鴨神社」は正式には「賀茂御祖神社」(かもみおやじんしゃ)といいます。ご祭神は「賀茂建角身命」(かもたけつぬみにみこと)とその娘「姫玉依姫命」です。

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「賀茂建角身命」は「神武東征」のおり、「天照大神」からつかわされ、熊野から大和に入る道案内役の「八咫烏」(やたがらす)に化した神といわれ、鴨(賀茂)県主(かもあがたぬし)の祖となります。

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以上、上社と下社を参詣しました。細かい事は抜きにして、私も、氏子のひとりです。

上賀茂神社:北区上賀茂本山339

下鴨神社:左京区下鴨泉川町59


京の話題(平安京そのい567)江戸初期で発達した文化、京の影響かもしれません?

2013-09-19 22:30:24 | 京の話題

少し、間をおきましたが、次第に「江戸」では「江戸」独自の文化が、発展しました。しかし、これも、「京」の文化からの基礎には間違いありません。

 江戸初期の学問では、「朱子学」を中心に上下の秩序を重んじる「儒学」が盛んになりました。建築では豪華な装飾彫刻を施した、「日光東照宮」が、徳川家の権威の象徴として、当時の造形技術のすべてを注いで造られました。

 一方「桂宮書院」には簡素な「数奇屋造」が施されました。絵画では「京都」の町衆出身の画家「俵屋宗達」が「装飾画」に新様式を生み出しました。

 「俵屋宗達」画「「風神雷神図」

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また、朝鮮侵略(文禄・慶長の役)の際に諸大名が日本に連れて帰った朝鮮人陶工によって「有田焼」「萩焼」などの磁器の生産が始まり。、有田の陶工「酒井田柿右衛門」がうわぐすりを付けて焼いた上から色絵を付ける「上絵付」の技法を研究し、赤絵具を基調とする「赤絵」の技法を完成させました。

「柿右衛門」様式花鳥図(東京国立博物館)

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神社建築には「権現造」が普及し、本殿と拝殿とを石の間でエの字形に繋ぎました。それもこれも全て「京」からの文化です。