ジャーン。平安京300回記念です。これを記念して、「祇園祭」のルーツの「神泉苑」を参拝します。
「祇園祭」のルーツは、貞観11年(869年)京の町に疫病(コレラ)等が流行した時「神泉苑」に当時の国の数(66ヶ国)の分の66本の矛(ほこ)を立てて、祇園社の神を祀り、御輿を出して、疫病退散を祈りました。これが「祇園御霊会」(ぎおんごりょうえ)と呼ばれ「祇園祭」の始まりとされています。
これがその当時「神泉苑」に立てた「矛」(鉾)のルーツです。
よって、ここ「神泉苑」は「八坂神社」よりもより古い「祇園祭」に関係した所です。この「神泉苑」は寺院で、「東寺真言宗」御本尊は「聖観音」で開祖は「弘法大師」(空海)、創建は天長元年(824年)別称は「ひでさん」と言います。
元は平安京大内裏(平安遷都時の御所)http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20110909に接して造営された禁苑(天皇のための庭園)でした。境内に「大歳神・歳徳神」(としとくじん)を祀る毎年大晦日の晩に恵方に祠の向きを変える点が他の神社仏閣と異なる祠が有ります。(日本で唯一ここだけに見られる祀り方であると伝えられています)
この、祠を観察すると360度回転できるようになっている事が分かります。
後に、「桓武天皇」が行幸し、延暦21年(802年)には雅宴が催されたとあり、この頃から「神泉苑」は天皇や廷臣の宴遊の場になりました。
「法成就池」
中世以降は荒廃しましたが、慶長8年(1603年)、「徳川家康」が二条城をhttp://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120522造営した際には神泉苑の敷地の大部分が城内に取り込まれて著しく規模を縮小しました。
「本堂」(聖観音・不動明王・弘法大師像)
天明の大火天明8年(1788年)で、堂等社殿を焼失し、現在に至っています。
寺領(社領)内は静かで、今、祇園祭の真っ盛りと思わない時間が過ぎていくような所です。
中京区御池通神泉苑町東入門前町166
(たわごと) 祇園祭の「町衆」のパワーのすごさ。
京都三大祭りは御存じのとおり、「祇園祭」「葵祭」「時代祭」です。http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120517
「葵祭」言うまでも無く、公家のお祭りです。6世紀平安京が遷都される前に、五穀豊穣を祈願して行われたのが起源とされています。
「祇園祭」は貞観5年(863年)のに「祇園御霊会」としてその後、貞観11年(869年)に「素戔鳴尊」(牛頭天王)を祀り疫病退散を祈り、これが起源とされています。
「時代祭」は比較的新しく明治28年(1895年)に始まりました。
「葵祭」と「祇園祭」は応仁元年(1467年)の未曾有の内乱(応仁の乱)で多くの建物や宝物等が焼失して、中断を余儀なくしています。
しかし「祇園祭」はこの難関を切りぬけて、町衆の力でたった33年後、明応9年(1500年)に山鉾33基が復興して、祭りが再開されました。しかし、公家の祭り「葵祭」の復興は、明治17年(1884年)まで、417年もかかっています。なんと京の町衆のパワーの凄い事。(公家の力では、明治の行政の力を借りなくては、復興は出来ませんでした)
天明の大火、天明8年(1788年)で焼失した、昭和の鉾「菊水鉾」の復興。そして元治の大火、元治元年(1864年)http://itodoya.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/12/で焼失した「大船鉾」http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120715の二年後の復興が楽しみです。
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