京の話題

12000年以上続いた「平安京」の文化・寺社仏閣・お祭り等を紹介します。

京の話題(平安京その465)社領は狭いですが歴史ある、山科の地に鎮座する・宮道神社

2013-01-31 00:05:59 | 京の話題

この「宮道神社」は、宇治郡を本拠とした士族宮道氏の祖神日本武尊(たけるのみこと)、その子稚武王を最神としています。

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寛平10年(898年)に創祀されたました。宮道大明神・二所大明神とも言われています。

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平安時代初期、宇治郡宮道弥益は、第60代「醍醐天皇」の生母「藤原胤子」(たねこ)の祖父で、その邸を寺としたのが「勧修寺」(前記に)です。

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また「藤原高藤」(胤子の父)などゆかりの人々を合祀ました。「高藤」の後裔は、「勧修寺流藤原氏」として朝廷で主要な地位を占め、また宮道氏は、武家、寺社蜷川氏として供に繁栄、活躍しました。

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現在はいたって小さい社領です(狭いですョ)。むしろ、駐車場兼公園の方がずーと広いですが、歴史ある神社です。

「勧修寺」は前記にて記載しました。

山科区北花山河原町13

(たわごと)

ボーイング787のバッテリーの異常な加熱の原因を調べるため、アメリカへ送り調査すろと言う事ですが、多分、完璧な原因は発表されないでしょう。ほとんどの駆動部を、油圧系(これにすると油圧ポンプが必要な為に、かなりの重量が要ります)から、エルロン・フラップ・ラダ―等を電気にて(これにするとかなり重量が軽くなります)駆動する為に、バッテリーの部分が大きくなりなす。それなら、バッテリーが異常発熱する前に、事前の安全機器を付けてなかったかと、不思議です。(普通は、サーモスタットやサーミスター等の温度を感知する装置を付けます)慌てて、エアバス機に対抗して作った、787の欠陥です。これは、氷山の一画かもしれません。当分は、前記に記載したように、787の運行は不可能です。

話は変わりますが、昭和12年に「海軍航空本部」から至急に、設計依頼され、昭和14年に試作機、昭和15年に完成した、十二式艦上戦闘機(A6M1)の原型から間もなく、これが零式艦上戦闘機として、暫くの間、天下無敵の戦闘機になりました。決して、戦争を容認する話では無いですが、日本の技術の昔からの、素晴らしい事に、いまさら目を見張ります。ガンバレ、日本の技術。

初期試作機、零式艦上戦闘機(十二式艦上戦闘機、エンジン三菱製)

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全くの、たわごと、です。(これも、おたくです)


よく記事に「応仁の乱」で寺社仏閣が兵火・焼失と書いていますが・「応仁の乱」について簡単な説明・たわご

2013-01-30 00:04:49 | うんちく・小ネタ

寺社仏閣が「応仁の乱」にて、兵火に合い焼失と書いていますが、「応仁の乱」について簡単に思うままに書いてみました。誤記等が有れば、お許し下さい。本当に簡単に。

「南北朝時代」元徳元年(1329年)~明徳3年(北朝・1392年)の戦乱がようやく終り、「室町幕府・第3代将軍・足利義満」は、皇室(天皇)をもしのぐ権力者になりました。(足利幕府の絶頂期です。金閣寺に象徴されます)

しかし、この「足利義満」の没後は足利幕府の権力も次第に弱くなり始めました。

「第6代将軍・足利義教」(義円として天台座主・義満の四男)が有力な守護職(一国ごとに任命された軍事的な地方行政官)の「赤松満祐」によって暗殺されました。(嘉吉の乱・かきつのらん)えらい事です。

ソレッテ、大変な事ですョ。例えば、江戸幕府で、万が一「徳川将軍」が暗殺されるような事になったら、大事件です。もっとも、将軍に次ぐ「大老・井伊直弼」が万延元年(1860年)に水戸脱藩浪人に(桜田門外)暗殺され、一気に天下の状況が変わりましたが。色々な確執が有るにしろ、一応、主人である将軍」を暗殺するとは・・・・大事件です。

これで、一気に、「足利将軍家」の権威がガタ落ちになりました。

さあ、ここからです「応仁の乱」の、引き金を引いたのは「第八代足利将軍・義政」(この将軍はっきりいって甲斐性無です)の優柔不断です。その上、運の悪い事に「義政」の夫人が、最悪の悪女で権力欲のかたまり。有名な「日野富子」(自分の子供の足利義尚を次期将軍にと、たくらみました)でした。先に、「第八代将軍・足利義政」は、とっくに次の将軍を弟の「足利義視」に決めていたからさ~ァ大変です。

たくらみましたョ「日野富子」は。有力守護の「山名宗全」(名前は持豊、入道して宗全・播磨国守護職)と手を組んで、自分子供「足利義尚」をなんとか、次の将軍にしようと、魑魅魍魎の行動です。

黙ってはいません、同じ有力守護の「細川勝元」。なにしろこの「細川勝元」は四国の讃岐・阿波など、ほとんどを守護し、三度も「管領職」(将軍を補佐する職で、将軍に次ぐ権力者)になっていたほどです。

さあ、「超恐妻家バカ将軍・義政」と「細川勝元」と「山名宗全」を巻き込んで権力争い、血みどろの戦いが京都の町で始まりました。これが、応仁元年(1487年)から始まる「応仁の乱」となりました。

ノー天気な「足利義政」は、手も足も出さずに、「義政」はせっせと私財を売って資金を集め「銀閣寺」を建造し、そこへ隠棲しました。(銀閣寺の完成前に死にましたが)

東西両軍30万人にもおよぶ、内乱が京都の地を中心に11年にもわたって始まりました。京の都のほとんど(特に北の方)は焼け野原となり、貴重な寺社仏閣や仏像も焼失しました。

全く、最悪な内乱でした。

この元凶は「日野富子」と政治に一切関心を持たず、ノー天気に「東山文化」の象徴として、この混乱から逃避した「足利義政」にあると言っても過言ではないでしょう。(超無責任男)

しかし、東西両軍の旗頭の「山名宗全」と「細川勝元」も病死して、他の「守護大名」も、この内乱の目標を失い、焼け野原となった京を去り、ようやく戦乱は収まりました。(後に残った、京の町はメチャクチャです)

しかし、この戦乱で「室町幕府」の権威は地に落ち、「群雄割拠」「下剋上」の戦国時代が、全国に拡がりました。

結論:この応仁の乱で残った物、貴重な「寺社仏閣」や「仏像・仏画」などの炭や灰だけです。いかに馬鹿げた、戦乱かと分かります。

以上、私の私情も少し(ホントは多いに)入れて、勝手に記載しました。ウソは一切有りませんが。

機会があれば、まだまだ、その後、京の町が悲惨な目に逢う、宝永5年(1708年)の「宝永の大火」、天明8年(1788年)の「天明の大火」や「蛤門の変」(禁門の変)、「鳥羽伏見の戦い」も。

たっぷり、たわごとを記載しました。

何を言いたいかと、「アルジェリア」も同じ事です。戦争では何も残りません。ただ、「応仁の乱」は貴重な罪のない、外国人の命までは失いませんでした。(合掌)


京の話題(平安京その464)お庭が見所、山科の庭園がお奨め・勧修寺門跡

2013-01-29 00:03:13 | 京の話題

この「勧修寺」門跡寺院と言うよりも「勧修寺庭園」として有名です。

「亀甲山」と号する「真言宗・山階派」の大本山です。

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この庭園は書院南の平庭と氷室池を中心とした地底に分かれています。池泉回遊式(舟でめぐる舟遊式)の庭が特に有名です。

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お庭を散策する時は、十分に注意を。池にはまる恐れが有ります。

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のんびりと「鷺」が木の上で羽造りをしている風景は、心が休まります。

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「寝殿」

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「本堂」

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この「勧修寺」の創建は昌秦3年(900年)で、第60代「醍醐天皇」が生母「藤原胤子」(たねこ)の菩提を弔うために建てられたました。「今昔物語」にその逸話が有ります。

「観音堂」

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「勧修寺」の名前は「宮道弥益」の法号によると、、このお寺は延喜5年(905年)に定額寺になり、その後法親王の入寺が続き、門跡寺院となりました。「勧修寺門跡」または「山科門跡」とよばれ、第一級の寺格を誇る事になりました。

君が代に出てくる「さざれ石」自由に触れます。

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大いに隆盛しましたが、「醍醐寺」との確執、「応仁の乱」による被害、「豊臣秀吉」の伏見城築城による寺領の縮小などで衰微しますが、徳川幕府の寄進で寺観をもちなおしました。

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しかしなんといっても、このお寺は、春から夏に咲く、杜若・花菖蒲・睡蓮などが有名で、蓮は池を埋め尽くすほどで、深緑の葉と薄紅色の花が鮮やかです。境内には、白梅・八重桜・藤・泰山木などの多くの花木が植えられて見事な色とりどりの庭園になります。秋には紅葉も色鮮やかに、目を楽しまさせてくれます。

私は、人がほとんど訪れないこの冬の季節に散策するのが好きです(へそ曲がり?)

一部誤記が有りました、訂正済み。

山科区勧修寺仁王堂町27-6


京の話題(平安京その463)もとは花山寺と称した山科の天台宗・元慶寺

2013-01-28 00:05:26 | 京の話題

山科の地に少し変わった龍宮城風の「山門」が有ります。自動車がそれも小さい自動車がやっと通れる細道の突き当たりです。

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この近辺、以前は多くの寺領を有していましたが、今はこじんまりとしています。「元慶寺」は「華頂山」とごうする「天台宗延暦寺」派」のおてらです。この地に移り再興されたのは安永年間(1772~1781年)といわれています。いぜんは、この地より北西の山腹に有ったと言われています。

「帝釈天」と「梵天」、いまは「京都国立博物館」に展示中です。

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山門に鎮座する仏様は現在、貸し出し中と言う事です。このおてらは、第65代「花山天皇」の落飾事件のげんばです。第63代「冷泉天皇」の第一子であった「花山天皇」は第64代「円融天皇」につづいて永観2年(984年)に即位します。19才の時に愛姫が妊娠中に死んだ為、それを嘆き悲しみ出家したいと側近にもらします。それを伝え聞いた「ふじわら兼家」とむすこの「道兼」は強引に「花山天皇」をこの「元慶寺」に連れ出し、落飾させてしまいます。そして「兼家」の娘が生んだ「一条天皇」を即位させて、自ら摂政の座につき権力を手に入れました。

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当寺は「陽成天皇」の誕生(868年)で遍昭僧生正(へんじょう・六歌仙の一)が創建を志し、「陽成天皇」の母で「藤原高子」(たかいこ)が建立したお寺で、もともと「花山寺」と言いましたが、元慶元年(877年)に定額寺(朝廷が一定数を限り保護した官寺)になり「元慶寺」と言う名になりました。

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寺格も高く寺領も広大で有りましたが、応仁元年(1467年)の「応仁の乱」で旧地の寺は焼失しました。

山科区北花山河原町13


京の話題(平安京その462)毎月25日は天神さん・特に1月25日は初天神 -2

2013-01-27 11:12:51 | 京の話題

前記に続き「北野天満宮」の事。学問の神様で有名な、「北野天満宮」はこの季節、受験生やその親御さんで参拝が絶えません。

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もう、参拝者でいっぱいです。

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しかし、すぐ横には前記に記載した、「豊臣秀吉」が建築した「御土居」(おどい)や「梅林」が有ります。「御土居」は江戸時代にほとんど取り壊され、現存するのは「北野天満宮」やその他、数ヶ所だけです。入口の石碑も梅です。

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「豊臣秀吉」が外敵の襲来から守る防塁の役目と、鴨川の度重なる氾濫から市街を守る堤防を兼ねています。

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しかし、この「御土居」は紅葉でも有名です。「菅原道真」が昌泰元年(898年)、「宇多上皇」の大和の国巡幸のみぎりに供奉した、「手向山八幡宮」に参拝された折に詠んだ、御歌が有名な、「小倉百人一首」にあります。

このたびは 幣(ぬさ)もとりあえず 手向山(たむけやま)

                  紅葉の錦  神のまにまに

若かりしときによく詠んだ歌で有名です。(一応、小倉百人一首は心得ています。小学生の時にカルタ遊びでよくしました)

そしてこの「北野天満宮」の境内に有る、千数百本の梅の木です。未だあいにく、どの枝もつぼみは堅いです。

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しかし、見つけましたョ、たった一つですが、早々と咲いてくれている「梅」の花。苦労して、やっと、この時期に。

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これを見ると、未だなが~い冬も、終りかと思い、何か、心が温まります。(小さい春見~つけた、という事ですか)

梅の花が満開の季節になると、梅の香りがあたり一面に香ります。

上京区御前通今小路上ル馬喰町