京の話題

12000年以上続いた「平安京」の文化・寺社仏閣・お祭り等を紹介します。

京の話題(平安京その548)鎌倉の頼朝の死後、恐妻・北条政子の鎌倉幕府、しかし、京びくともしません

2013-07-31 00:12:42 | 京の話題

将軍を中心にまとまりを持った武士団が、領地・領民を朝廷から認められたということは画期的なことでした。しかし実際にはその勢力範囲は関東だけでした。

「京都」を中心とする西国においては依然として朝廷の力が強く、地頭もほとんど置くことは出来ませんでした。

「源頼朝」の死後、幕府の主導権争いを経て、その実権は「頼朝」の妻で、あの「北条政子」の父、「北条時政」の手へとj移りました。

「北条政子」

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「政子」の父「北条時政」

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有力御家人と手を結び将軍の力を奪った北条氏は、「時政」の子「北条義時」が政所と侍所の長官を兼任する「執権」という地位に」就き、以後これを世襲しました。

この頃、京の「朝朝」では第82代「後鳥羽天皇」が「上皇」になり、院政を行っていました。朝朝の勢力を回復しようとしていました。

鎌倉の将軍「実朝」が暗殺され、源氏の将軍がわずか三代で途絶えると、承久3年(12221年)、「後鳥羽上皇」は時の執権「北条義時」を討てとの命令を全国に発しました。しかし東国の武士のほとんどは北条氏につき、その大軍の前に「上皇」は敗れ、「隠岐の島」に流されました。これを、「承久の乱」といい、この乱をきっかけに、幕府は京都の警備や朝朝の監視と西国武士の統括にあたらせる「六波羅探題」をおきました。

また、上皇側についた貴族や西国の武士の領地を取り上げて、その地の地頭に東国の御家人を任命したので、幕府の支配力は西国にも大きく伸びることになりました。


京の話題(平安京その547)公家をおさえ、武士政権の始まり

2013-07-29 10:12:52 | 京の話題

「院政」のもとで成長した「武士」は、東国で「源氏」が勢力を広げると、西国では「平氏」が勢いを伸ばしました。

保元元年1(1156年)、「上皇」と「天皇」との政治の実権争いがおこると、「源氏」と「平氏」とのその争いに動員され、戦いました。「保元の乱」

この戦いで働きの目覚ましかった「平清盛」と「源義朝」は、三年後の「平治の乱」(平治元年・1159年)では敵対して戦い、平の長「平清盛」が勝利しました。

「平清盛」像

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これらの戦いを経て、武士が政治の上でも大きな権力を得ることになりました。

武士として、初めて「太政大臣」となった「平清盛」(武士でありながら太政大臣にのぼりつめ、平氏の全盛時代を築いた武将)は、娘・徳子(建礼門院・安徳帝の母)を第80代「高倉天皇」の后とし、さらに第81代「安徳天皇」の外威となって勢力を強めると、その一族は多くの荘園を手に入れました。また、高い位を得て繁栄を誇りました。

「徳子」平清盛の娘・建礼門院・安徳帝の母(京の大原”寂光院”に隠徳地を求めました)・「壇ノ浦の戦いで、入水し奇跡的に助けられました」

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第81代「安徳天皇」

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「平清盛」は摂津の大輪田泊(おおわだのとまり)を修築するなど瀬戸内海の航路を整備し、「宋」との貿易を盛んに行い、「宋」の文化が広く日本に入りました。

その頃、海外では「第一回十字軍遠征」(1096年)等が起こっていました。


京の話題(平安京その546)本格的な、院政の始まり

2013-07-28 00:03:46 | 京の話題

十一世紀の半ば過ぎに即位した、第71代「後三条天皇」は、「藤原氏」と血縁関係が薄かったこともあり、「藤原氏」との政治をはなれ、自ら政治を行い、「摂関家」の力を抑えようとしました。

祭71代「後三条天皇」

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「後三条天皇」のあと、「白河天皇」も摂関家を抑えて「天皇親政」を行い、位を譲り「上皇」となってからも政治を行いました。

第72代「白河天皇」

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「上皇」の御所を「院」と言った為、この政治は「院政」と呼ばれました。

「上皇」は源氏と平氏の武士に身辺の警護をさせ、「荘園」の寄進を受けた貴族や武士に、「不輸」(ふゆ)、「不入」(ふにゅう)の権与を与え保護しました。

その0結果荘園は「上皇」のもとに集まり、「上皇」の力は独裁的なものとなりました。また、、「上皇」があつく信仰した寺社にも荘園が寄進されたため、寺社の勢力も増大しました。


京の話題(平安京その545)そして、武士の発生-1。しかし朝廷は揺らぐことはありませんでした

2013-07-27 11:52:34 | 京の話題

十世紀の中頃、武士の棟梁による反乱が起こりました。

一つは関東の「平将門の乱」(承平5~天慶3年・935~940)で、もう一つは瀬戸内海の「藤原純友の乱」(承平5~天慶4年・935~941)です。

「藤原純友」

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この二つの乱は「承平・天慶の乱」と呼ばれ、周辺の武士を率いて起こした反乱であり、「朝廷」はやはり武士の力を借りて、ようやく抑えました。

十一世紀後半には東北地方で、「前九年の役」(天喜3~承平5年・1051~106年)に、また「後三年の役」(応徳2~~寛治元年・1083~1087年)とよばれる二度にわたる戦乱がおこりました。

この戦乱を鎮めた源氏の「源義家」は、私財で賞を与えたことで関東の武士の信望を高め、東国に勢いを伸ばしました。「源義家」が引きあげたあとの「東北地方」には豪族の「藤原氏」が栄えました。

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この後に、いよいよ「院政」時代が始まりが始まります。


京の話題(平安京その544)武士の台頭でもなんら揺らぐこと無い、平安京の朝低・と帝ー1

2013-07-24 00:04:27 | 京の話題

「律令政治」が乱れ、十世紀になって地方絵自自が乱れると、各地に」成長した」「豪族」や「荘官」などの有力農民は、「荘園」を他の「豪族」や受領から守るために武装しました。闘争を繰り返しては勢力を拡大していきました。

これが「武士」の発生です。

「武士」は「家子」(いえこ)と呼ばれる一族や「郎党」と呼ばれる従者を従え、「武士団」をつくりました。中でも「関東地方」は良馬を産することもあり、武士の成長が目立ちました。

それがさらに統合され、十一世紀には「国司」(こくじ)として地方に上がり、土着しました。

「中央貴族」やその子孫を「棟梁」(とうりょう)としました。そして、「大武士団」となりました。

特に第50代「桓武天皇」と第56代「清和天皇」からの血をひいいた、「平氏」と「源氏」が台頭しました。その他、第52代「嵯峨天皇」から血をひいた、「嵯峨源氏」が有名です。

第50代「桓武天皇」・・・・「桓武平氏」

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第56代「清和天皇」・・・・「清和源氏」

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第52代「嵯峨天皇」・・・・・源綱・源融・渡辺綱、などなど有名な人物を、輩出しています。(一般的に、嵯峨源氏は名前は一字です)

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「摂関政治」から、「武士政治」に変わりつつありますが、京の「朝廷」の権限は揺るがすものではありませんでした。