京の話題

12000年以上続いた「平安京」の文化・寺社仏閣・お祭り等を紹介します。

「和」の国、日本国民が守るべき最後の物は・三種の神器のことー15

2013-06-21 00:07:51 | 我が誇れる日本国の事

最後に 「三種の神器」のことを。

地球上の約200ヶ国の国々はすべて個性があり、国の仕組みも様々です。しかし、「天皇」を仰ぐ我が国・日本国のかたちが、他のどの国のかたちよりも優れていることは、前記まで長々と記載した通り間違いないことはありません。」欧米などが近代になって始めてきた「議会制民主主義」はいまだに成熟していません。また、「社会主義」(共産主義)に至っては、国の数が「旧、ソ連連邦」の崩壊で決して安定した形で無いことが証明されました。

 「皇室」の御存在は日本国民の最大の「福祉」を担保しているかも前記にて記載しました。それが無ければ、日本国は「仏教」が伝来して、日本中にいき渡った時点で「宗教戦争」が繰り返され、「王朝」が中国のように、幾度も交代して現在の形に、それか日本国がすでにこの世からなくなっていたかもしれません。

 以上のことから、我々日本国民は「皇祖」から連綿と続いてきた「皇統」を守ることが肝心かと思われます。かつて「三島由紀夫」は、日本人が最後に守るべきは「三種の神器」であると言っていました。「三種の神器」とは、「天皇」が「天皇」であることの「証」(あかし)であり、「御鏡」・「御剣」・「御勾玉」(すがたま)の三つの神宝により構成され、「天皇」のあるところに「神器」があり、また「神器」があるところに「天皇」があると言われています。

 三種の神器「八咫鏡」(やたのかがみ)

 

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三種の神器「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)

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三種の神器「天叢曇剣」(あめのむらくものつるぎ)

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通常は「天皇」と書くと「てんのう」と読みますが、この読み方は中国の「音」であり、この読み方の方が日本の「音」の方が相応しいと考えられて、「大和言葉」にしたようです。しかし、「大和言葉」でも前記に記載したように「すめらみこと」や「すめらぎ」とういような読み方があります。しかし「すめらみこと」は単に「天皇」や「今上天皇」を指す言葉であるにに対し、「すめらぎ」は「皇祖」や「皇祖」から連綿と続く「皇統」を表す言葉で、古代より続く「皇統」の連続性を含んだ文脈で用いられるために、若干の意味が異なります。

ちなみに「三種の神器」と書き一般的には「さんしゅのしんぎ」と読みますが、「大和言葉」では「みくさのかむだから」と読みます。

 「三島由紀夫」が最後に守るべきものとして、「天皇」ではなくあえて「三種の神器」といったその心は、もしも「玉体」と「三種の神器」が同時に危機に瀕し、いずれか一方しか守れない場合は、「玉体」ではなく「三種の神器」を守らなくてはならなという意味です。「三島由紀夫」のいう「三種の神器」とは、すなわち連綿と続く「皇統」を意味しています。「皇統」さえ守れば「天皇」は継承されますが、「玉体」を守るために「皇統」を破壊してしまえば、元も子もないという発想からきたことです。(全く、現在の皇位継承の議論に相当します)

以上のことから、「天皇」を「すめらみこと」でなく、「皇統」の連続性の意味を含めた「すめらぎ」とよむべきでしょう。(あくまでも、理論上のことです)

日本の「皇室」が途絶えることなく2600年以上続いたのは、単なる偶然ではなく、必然の結果と思われます。日本の「天皇」は「千代に八千代に」と歌われるように、未来永劫、継承され守られることは、日本国が未来永劫存在すると共に守られることは間違いありません。「天皇」(すめらぎ)が安泰ならば、我が国、日本国は永遠に不滅でしょう。

蛇足ながら、「天皇」と書いて「すめらぎ」といきなり読むのは違和感があると思います。天孫降臨した「天照大神」を、読みかたの知らない若者が音読みで「てんてるだいじん」と笑い話のような読みかたは一概に間違いではないです。我が日本の「八百万の神」は全て音読みでは読んでいません。「天照大神」と書いて「あまてらすおおみかみ」と訓読み、すなわち大和言葉(和音読み)で読んでいます。それから考えると案外に「すめらぎ」は違和感がないと思います。パソコンでも「あまてらすおおみかみ」と入力すると「天照大神」と変換されます。「すめらぎ」と入力しても「天皇」とは普通の変換ソフトで変換できないのは、日本語変換能力の欠如かと思います。しかし天下の「広辞苑」では「すめらぎ」をしらべると、きちんと「天皇」が出てきます。

「天皇」の継承問題が盛んに議論されていますが、単なる現状だけ見て議論するよりも、その根本から考えてからの議論が必要かと思います。

これらの項目は、今回で終りにします。 


1200年間天皇の御住い、「和」の国、京都御所が本来の皇居のかたちー14

2013-06-19 00:22:11 | 我が誇れる日本国の事

前記にも記載しように、2000年以上もの間「皇室」がいかに続いてきたかです。

京都御苑内「御所」の事についてはかなり以前に記載しました。参照下さい。http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20111229http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120420

 「皇室」が強い軍事力をもち、抵抗勢力をことごとぐ征伐しその結果2000年以上のあいだ「皇室」を築いたわけではありません。むしろ古代から「軍」を持たない存在でした。

「高松宮宣仁親王殿下」が生前に次の様なお話をなされたといいます。

  「皇族というのは国民に護ってもらっているのだから、過剰な警備などはいらないよ。掘りをめぐらして城壁を構えて、大々的に警護しなければならないような皇室なら、何百年も前に滅んでいるよ」

「今上天皇」の叔父、「大正天皇」の第三皇子「高松宮宣仁親王殿下」(御称号は”光宮”)1987年御逝去

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 「大正天皇」は皇子に恵まれ、第一皇子代124第「昭和天皇」第二皇子「秩父宮親王殿下」第四皇子「三笠宮親王殿下」です。

 「高松宮宣仁親王殿下」は「皇族」であられるので、謙虚なお考えをお示しになられたのでしょう。「皇室」が国民によって守られてきたのであれば、国民もまた「皇室」によって守られてきたのではあるまいと思います。「天皇」と国民は、支え合いながら長い歴史を共に歩んできたのでしょう。

それが現実的によく分かるのは「京都御所」です。現在の「皇居」は、旧「江戸城」で「明治維新」までは「徳川将軍家」の城郭でした。「平安時代」から明治初期までの1200年の間、機能してきた「京都御所」こそが、本来の「皇居」の形です。その「京都御所」には「お堀」がありません。また、敵を防ぐための石垣や、櫓、塀にある「弓狭間」や「鉄砲狭間」、そして「天守閣」など、防御する構造には一切なっていません。そのうえ、「御所内」には兵を駐屯させる建て物もすら存在しません。「京都御所」はまったくの無防備な建て物です。

 「京都御苑」

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「建礼門」

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京都御苑内の「御所」

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京都御苑内の「御所」には一切掘も石垣もありません。

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「京都御所」は設計の段階から敵が攻めてくることなど、一切考えなく建築されたものです。このように、無防備な「御所」に住み続けた「天皇」もまさか敵が攻め込んでくることなど、一切お考えにもされなかったことと思います。

 もしも、「平安時代」末期から武士政権になった「平清盛」や「源頼朝」「足利尊氏」「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」等がその気になれば「天皇」以下「皇族」をひとたまりもなく滅ぼしていたかもしれません。「京都御所」以前の「平城京」や「藤原京」、「長岡京」またそれ以前の都に置かれた「天皇」の「御所」もすべておなじでした。

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以上のような歴史から「天皇」を暗殺しようとする者が一人もいなかったからです。欧州などの内戦は「皇帝」や「王」を殺す目的の内乱や騒乱が多く有りましたが、日本の内乱では武家闘争のための戦争で、「王朝」を倒すための戦争は一度もありませんんでした。

 「清所門」(全くの、無防備です)、現在は時々皇宮警察が巡回にまわっています。

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例外的に「皇位」をめぐる皇室内の抗争は「承久の乱」(承久元年・1206年)など「天皇」が倒幕のための挙兵をした例、幕末には「蛤御門の変」など、大義に基づいたものに限られた騒乱はありましたが、「王朝」を倒すためのものは一切、長期の日本の歴史は存在しませんでした。

 ※「蛤御門の変」は以前に詳細を記載しています。http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20111230参照下さい。 

その他、蛇足ながら「京都御苑」の不思議「猿が辻」は以前に記載しました。http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120422不思議なお話です。

また、京都に市電があった時から「烏丸通」の不思議な道路のことも記載します。(現在は、有りませんが)

※誤記のため一部訂正しました。平成25年6月25日


「和」の国、日本国が2000年以上も奇跡的に国を守ったことー13

2013-06-17 00:08:35 | 我が誇れる日本国の事

前記に記載したように、中国が4000年の歴史を持つ国と豪語するなれば、1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)の蒙古の襲来(元冦)によって多くの日本人が死んだことをどう言い訳するのかと思います。

4000年の歴史にこだわるなら、服属政権「高麗王国軍」(現在の韓国地方)の先導で、侵略の意図を持って日本を二度も攻めた「元」も、中国と同一の国家ということになります。しかし、偶然にも「神風」によって日本は辛うじて国を守ることができましたが、多くの日本の武士や対馬の民が命を落としただけでなく、「鎌倉幕府」滅亡の要因になりました。中国が、日本を「軍国主義」呼ばわりする前に、「元」の侵略の反省をするべきとおもいます。もしも「神風」が吹いていなければ、今頃は日本列島は中国の一部になっていたかもしれません。

 「蒙古襲来」の他にも日本の危機はありました。幕末から明治維新にかけて、日本を植民地化しようと狙っていた欧米列強が次々と艦隊を派遣したのも、日本にとって脅威でした。長州の「高杉晋作」や幕臣の「勝海舟」がいなければ日本の西半分は「イギリス」の植民地に、また「明治維新」が無事に行われなかったら、やはり欧米の属国になっていたかもしれません。東南アジアで植民地化されなかった国は「日本国」ただ唯一の国です。

 そして最大の危機は「大東亜戦争」に敗北したことです。連合軍は当初、皇室を廃止する計画でした。この時も、「昭和天皇」の御対処のおかげで日本国のかたちは破壊されることがありませんでした。

 以上のような数々の危機を何度も経て、日本が2000年以上も国の形を守ってこられたことは、奇跡以外の何物でもありません。あまりに偶然が重なると、必然ではないかとさえ思われます。

 「ヤマト王朝」が成立する前、世界には国家が多くありました。しかし、それらの国家はすでに滅び、今は一つも存在していません。中国や欧州を含め、世界の歴史は王朝交代の歴史で、これまで多くの王朝が興っては滅びてきました。

 特に、18世紀以降は王朝にとっては受難の時代でした。世界各地で「フランス革命」や「辛亥革命」に代表される「共和革命」が頻発し、王制を打倒して共和国を樹立する流れが起きました。また、近年においては「ジャスミン革命」が記憶に新しいです。

1911~1912年に発生した、中国の「辛亥革命」(Xinhan Revolution)

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1787年から発生した「フランス革命」、「ルイ16世」の処刑の絵

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それは、「王制」を廃止して「共和国」を樹立する流れが起き、多くの「皇帝」や「王」が処刑されたり、また退位を余儀なくされました。「ロシア帝国」や「ローマ帝国」「南シチリア王国」「オスマン帝国」「李氏朝鮮」もその例外ではありません。

 現在、「王朝」を保っているのは世界で30ヶ国を下回り、そのほとんどが「王」に政治実権がありません。2008年にも「ネパール」が「王制」を廃し、「共和国」になったことで、また一つの歴史的な「王朝」が姿を消しました。

 近現代に限らず国家は脆弱(ぜいじゃく)なもので、世界史を見ても、二百年以内に滅びる国が大半を占め、五百年以上続いた国は数えるしかありません。

以上は決してヒスリックにナショナリズムを煽るものでは無く、事実を記載しただけです。念のため。

話は変わりますが、貞観5年(863年)に始まった「祇園御霊会」(祇園祭)の季節がやって来ました。七月の一ヶ月にわたる、京都最大いや日本最大のお祭りです。早くも、八坂神社社務所から「祇園御霊会」の祈祷受付のお手紙が送られてきました。祇園祭の七月の一ヶ月間の日々の神事は昨年、詳細に記載しています。

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二礼二拍一礼


「和」の国、現存する、世界最古の国、日本国の創建のことー12

2013-06-15 00:12:57 | 我が誇れる日本国の事

以前に、日本の建国の事を少し触れましたが、日本の建国はいつごろだったのか、あらためて考えてみます。

 日本の最古の正史「日本書紀」では日本の建国は紀元前660年としています。もっともその時代は文字がなかったことから神話の世界になります。(文字が日本に渡来したのは西暦285年という説が定着しています)2月11日は「建国記念日」というのは誰でも知っています。ではなぜ、この日が「建国記念日」というのはあまり知られていません。

 日本最初の正史「日本書紀」では、初代「神武天皇」が「樫原の宮」で即位した日が、その日になっています。

 諸説有りますが、「神武天皇」の御陵が奈良県の「三輪山」の「纏向遺跡」(まきむくいせき)がそうであると言う説が主流になっています。「日本書紀」によると日本は平成25年で建国から2673年を迎えることになります。これについては「事実でない」との批判もありますが、これを否定する根拠は有りません、否定する根拠が無いと言う事は、これが事実になるという説が有力になります。

「ヤマト王朝」成立確認することが出来るのは、三世紀初期に奈良県の「三輪山」周辺に「前方後円墳」造られたときです。「前方後円墳」は外国では例のない特殊な形をしていて、やがて日本列島の広い範囲にこのような「前方後円墳」が造られるようになったことから「前方後円墳」の出現は「ヤマト王権」の成立を示し、これをもって「古墳時代」の始まりと定義できます。

 奈良県桜井市 「三輪山」

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「神武天皇」の御陵とされる「三輪山」の「纏向遺跡」(まきむくいせき)

※「纏向」の村名は第11代「垂人天皇」の「纏向珠城宮」(たまき)、第12代「景行天皇」の「纏向日代宮」(ひしろ)より名づけられたものです。

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「三輪山・箸墓古墳」(三世紀中頃)

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「箸墓古墳」側面から。

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「古墳時代」を通じて一定の方向に文化が積み上げられていることや、大規模な戦争の形跡が一切見られないことから、「古墳時代」に王朝時代の交代が起きたことは想定できません。

 後に「飛鳥時代」以降に有力な王朝交代説がないことから、「ヤマト王権」の成立は最も遅く見積もっても、1800年前の三世紀初めとなります。しかし、王権が成立した途端にこのような巨大な古墳を造ることは到底思えません。一地方政権が除々に勢力を拡大して、統一政権になったと考えられることから、王権成立の兆しが表れてから巨大古墳を造営するまで、数百年を要していたとしても矛盾はありません。しかも、古墳時代以前は、今日のような時間の流れが急ではなく、穏やかな流れでした。我が国が建国から2000年以上経過していると考えるほうが、自然なことです。

 初代「神武天皇」が即位した(建国記念日)と伝えられる、奈良県の「樫原の宮」(現在の、樫原神宮)御本殿

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以上のことから、「日本書紀」の記述に事実性を見出すことが出来、我が国日本の成立は紀元前660年説が最も信憑性があると思われます。

そして、世界で唯一日本国が「王朝」成立から、一切の途切れることなく、今の第125代「今上天皇」まで連綿と続いてきたことが分かります。

 蛇足ながら、中国は4000年の歴史があるといいますが、全くの詭弁です。中国人は胸をはって言いますが、今日に至るまで15度以上の「王朝交代」の後、現在の「中華人民共和国」が成立しています。今の中国は戦後成立して、わずか63年の真に新しい国家ということになります。そのうえ読んで字のごとく、国内では多くの民族を抱えて、旧ソ連のようにいつ分裂するかの脅威があります。ざっと民族を見ても、今の政権の中枢に有るのは、漢族が最多で、その他の民族は、満族(旧清王朝)・回族・ミャオ族・ウィグル族・イ族・モンゴル族・チベット族・ブイ族・朝鮮族・チワン族等多くの民族の集団国家から形成されています。これらの民族をおさえることに、数えきれない人々が虐殺されてきた歴史があり、今の「中華人民共和国」が存在しています。

日本に次ぐ、古い歴史を持つ国は「デンマーク」で建国から千数百年で日本の半分くらいです。その次は「イギリス」で千年弱位、アメリカ・フランスは御存じのように歴史は浅いです。いかに日本は世界で一番古い国家であると解かります。中国は論外です。

※「日本書紀」・「古事記」の詳細はhttp://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20121014参照下さい。

※初代「神武天皇」はhttp://itodoya.blog.ocn.ne.jp/blog/2013/06/11_8f30.html#commentsを参照下さい。

※誤記が有りましたので一部訂正しました。(平成25年6月17日)