今でも小・中・高の学校では、校内での映画館鑑賞会をやっているのだろうか。小学校のとき見たチャンバラ映画、あるいは、一人のちょび髭男が山小屋に閉じ込められ、空腹のあまり靴を煮て、その靴紐をフォークでくるくる巻いて食べるあのシーン・・・。
後年、薄暗い映画館で、それが伊丹万作のチャンバラ映画であり、チャップリンであったことを知り、ハタと膝を打ったことであった。それ以来、伊丹万作とチャップリンは私にとって神様である(ブッシュと違って私には神様はたくさんいる)。
* *
佐高信は以前「だまされた責任をだます側の罪で消すことはできません」という文章をある週刊誌に書いたことがあった。
佐高は1ページしかないこの文で、伊丹万作の「戦争責任者の問題」というエッセイから、相当の行数を引用している。私はこのエッセイを読んでいないので、孫引きをすることを許してもらいたい。
それは、戦後、日本人のほとんどが「だまされて」戦争に加担したと責任逃れをすることへの批判であった。
「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」「だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意思の薄弱からもくるのである。我々は昔から『不明を謝す』という一つの表現をもっている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである」
さらにまだ続く。
「だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失ってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである」
(伊丹のこの文を引いたこの佐高の文は、当時のある政党代表への手紙という形のものであるが、そのことはいま問題にしない)。
伊丹万作のこのような考えは、今となれば別に新しくもなく、むしろ平凡といえるだろう。だが、たしかに「だまされない」ことはとてつもなく難しいことである。ソクラテスだってお釈迦さまだって一度や二度はだまされているのではないか? 神様ならだまされることもないだろう。ならば、だまされないために神様になればいい。さいわい、戦前では神になるのは比較的容易であった。戦場で倒れれば、戦死であろうが、戦病死であろうが、餓死であろうがそれはかまわない、押しなべて靖国の神として祀られる。神になればすべてお見通し、ものごとにだまされることもない! さすれば、だまされて戦場に赴くこともない。ならば戦死することもない! しからば神になることもない・・・?
* *
伊丹万作の言葉を読んですぐ思い出したのは、竹本源治の「戦死せる教え児よ」という有名な詩である。
念のため書き記すが、竹本源治は高知県の池川青年学校卒業後、1944年地元の瓜生野国民学校の教員に、翌45年6月応召。戦後は池川中学教諭などを歴任、片岡小学校校長で定年退職。
彼のこの詩は、ウィーンでの第一回世界教員会議(1953年)において、羽仁五郎がドイツ語で紹介して大きな反響を呼んだといわれる。
「嗚呼!/「お互いにだまされていた」/の言訳が/なんでできよう/慙愧 悔恨 懺悔を重ねても/それがなんの償いになろう・・・」(15行中の6行)。
竹本はさらに「私の手は血まみれだ!」「今ぞ私は汚濁の手をすすぎ」とうたいあげた。多くの人がこの詩を読んで涙したと述懐している。
竹本源治が優れて詩才に恵まれていたことは明らかである。彼は、実際には自分の教え子を戦場に送ってはいないのに(履歴をみればわかる)、それだけの豊かな情感をこめた詩を創り得た。だが私はここで彼の詩才を論じようというわけではない。
論題にしたいのは「お互いにだまされていた」の一行である。
竹本の詩では、だまされていたのだから自分には罪はないと自己弁護する人間のいることが背景にある。伊丹も同じ土壌の上にその主張を述べているのだが、それを「悪」と断定した。そのように断定しながらも、結局は、「国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本質」として糾弾するのである。
おそらく竹本は、直接自分が教え子を戦場に送ったわけでなくても、「国民全体」の一員として、自己の悪を反省したのだと解釈するのが正しいのだろう。そしてこれだけの反省さえも為し得ない多くの国民がいたことも眼前の事実としてあったのだろう。
* *
一方で、永井潔(画家・評論家)のような、「戦前の教育が軍国主義一色で塗りつぶされていたと見なすのは、公教育についてならともかく、教育の全体については正しい見方ではないだろう。社会の底には常に、さまざまな伝統とニュアンスをもった多様な教育の流れが脈々とつづいているのである」という見解もある。私は「公教育」においても永井のいうとおりだと思うのだが。
永井が「軍国主義一色」という考えに疑問を呈したのは相当前のことで、その後の検証によって「一色」というのは見直されているとは思うが、そのことについては、私は十分には把握していない。
それを検証する目的で書いたわけではないが、私は以前ブログ「坊ちゃんと河村重次郎」で戦前の中学教員生活の一端を、「国民学校の理科教育思想」で文部省の指導方針を検討してみたが、図らずも、永井の主張を裏付けるささやかな材料の一端となったかもしれない。
* *
今年の夏も戦争体験記が数多く新聞や雑誌に掲載され、またテレビで放映された。私が見ることのできたものはほんの九牛の一毛でしかないとおもうが、それでも感ずるところはあった。
その一つが、戦前の教員養成制度についてである。戦後、教員不足で、臨時教員の大量採用、免許証のない中学卒業生を助教としたり、国民学校高等科卒業生を「豆訓導」として教壇に立たせたことはブログ「でもしか先生」に載せた。しかし、うかつにも、教師不足が戦中から始まっていたことを見逃してしまった。
今年の戦争体験記には、今までになく多く、師範学校教育や臨時教員のことがあったと感じた。
少し前に、ある大新聞の投書に、生徒に戦場に行くことをすすめるのなら、教師は自らすすんで戦場に行くべきだったとあった。一理はある。だが実際、戦中の教師不足は深刻化していたのである。私は遅ればせながら、戦時中、臨時あるいは代用教員になる道がいろいろあったことを知った。臨時教員養成所を終了して17歳で国民学校教員になった話。小学卒業後、約半年、初等科准訓導養成講習を受講、国民学校教員になった例などの経験がなまなましく伝えられた。とくに女性が動員された実態が分かったような気がする。
まだ年端もいかない若い女性が、ほんの短い期間の講習を受けただけで教壇に立つといったことがいかに厳しいことか。今日、4年制大学を出て教師になった人でさえ困難な道である。講習で押し込まれたこと、教科書にあることを、ただただそのまま教えるという羽目におちいる。
正規の師範学校での教育が、これまた徹底した軍国主義教育を現場で実践できる教員を養成するためのものだったことも分かった。小学校での教え子がすぐ戦場に直結したわけでないとしても、教師たちが慙愧の念に襲われる結果になったこともうなずける。
ただ私が眼にした記事の範囲では、高等師範学校での教育について書いたものはなかった。夏目漱石もはじめ東京高等師範学校の教員をしていたことがあった。どんな教育をしたのだろうか。だがそれは明治の時代で、戦前とはいえない。中学における軍国主義教育については見あたらなかった。
* *
軍国主義教育を行ったと教師が後悔し懺悔しても、実のところ、子どもたちは意外に健全で理性的であったかもしれないのだ。小学上級生ともなれば、理性や判断力は十分に発達する。下手に洗脳された大人たちよりは素直にものごとを見ることができる。
子どもたちは、教師や大人たちの前ではだまされたふりをしながら、実際はだまされてはいないということもありうる。
天皇は神である・・・これをどれだけの子どもが信じていたか。腹の中ではそんなことをいう大人を馬鹿にしていたかもしれない。天皇が神でないことを実証するものは、すでに修身や国史の教科書のなかにある。大人たちは、全く理性に反する、ばかげたことを教科書の中に書いている。それを教師はもっともらしく、もったいぶって教える。教師はそれに気づいていない。
「教え子を再び戦場に送るな」というある団体のスローガンがある。再びということは、一度は送ったということである。だが、送ったのはこの団体の全員では決してなかった。もちろん、このスローガンは個人のものではなく団体としての決意を表明したものだろう。だが、団体として戦場に送ったのではないのだから、団体として自己批判するのもおかしい。やはり個人か。
戦場に教え子を送らなかった教師、軍人や兵士になることを阻止しようと努力した教師もいた。彼らはこのスローガンをどのような気持ちで受けとったのだろうか。
そもそも「送った」とか「送らなかった」とかいうのは僭越ではないのか。先にも意見を述べたが、小学生も上級になれば十分批判力や判断力を持つ。まして14歳、15歳の生徒たちがそれに欠けるなどということはない。
教育の目的は、児童・生徒が自分で考え判断できる人間、容易にはだまされない人間、自立した市民を育て上げることにあるのではないのか。戦場に行くべきか、行くべきでないか、それは子どもたちが自主的に判断することではないのか。その判断ができるようにしてあげるのが教育の役割ではないのか。「教え子を再び戦場に送らない」というのは教師の傲慢ではないのか。
後年、薄暗い映画館で、それが伊丹万作のチャンバラ映画であり、チャップリンであったことを知り、ハタと膝を打ったことであった。それ以来、伊丹万作とチャップリンは私にとって神様である(ブッシュと違って私には神様はたくさんいる)。
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佐高信は以前「だまされた責任をだます側の罪で消すことはできません」という文章をある週刊誌に書いたことがあった。
佐高は1ページしかないこの文で、伊丹万作の「戦争責任者の問題」というエッセイから、相当の行数を引用している。私はこのエッセイを読んでいないので、孫引きをすることを許してもらいたい。
それは、戦後、日本人のほとんどが「だまされて」戦争に加担したと責任逃れをすることへの批判であった。
「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」「だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意思の薄弱からもくるのである。我々は昔から『不明を謝す』という一つの表現をもっている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである」
さらにまだ続く。
「だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失ってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである」
(伊丹のこの文を引いたこの佐高の文は、当時のある政党代表への手紙という形のものであるが、そのことはいま問題にしない)。
伊丹万作のこのような考えは、今となれば別に新しくもなく、むしろ平凡といえるだろう。だが、たしかに「だまされない」ことはとてつもなく難しいことである。ソクラテスだってお釈迦さまだって一度や二度はだまされているのではないか? 神様ならだまされることもないだろう。ならば、だまされないために神様になればいい。さいわい、戦前では神になるのは比較的容易であった。戦場で倒れれば、戦死であろうが、戦病死であろうが、餓死であろうがそれはかまわない、押しなべて靖国の神として祀られる。神になればすべてお見通し、ものごとにだまされることもない! さすれば、だまされて戦場に赴くこともない。ならば戦死することもない! しからば神になることもない・・・?
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伊丹万作の言葉を読んですぐ思い出したのは、竹本源治の「戦死せる教え児よ」という有名な詩である。
念のため書き記すが、竹本源治は高知県の池川青年学校卒業後、1944年地元の瓜生野国民学校の教員に、翌45年6月応召。戦後は池川中学教諭などを歴任、片岡小学校校長で定年退職。
彼のこの詩は、ウィーンでの第一回世界教員会議(1953年)において、羽仁五郎がドイツ語で紹介して大きな反響を呼んだといわれる。
「嗚呼!/「お互いにだまされていた」/の言訳が/なんでできよう/慙愧 悔恨 懺悔を重ねても/それがなんの償いになろう・・・」(15行中の6行)。
竹本はさらに「私の手は血まみれだ!」「今ぞ私は汚濁の手をすすぎ」とうたいあげた。多くの人がこの詩を読んで涙したと述懐している。
竹本源治が優れて詩才に恵まれていたことは明らかである。彼は、実際には自分の教え子を戦場に送ってはいないのに(履歴をみればわかる)、それだけの豊かな情感をこめた詩を創り得た。だが私はここで彼の詩才を論じようというわけではない。
論題にしたいのは「お互いにだまされていた」の一行である。
竹本の詩では、だまされていたのだから自分には罪はないと自己弁護する人間のいることが背景にある。伊丹も同じ土壌の上にその主張を述べているのだが、それを「悪」と断定した。そのように断定しながらも、結局は、「国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本質」として糾弾するのである。
おそらく竹本は、直接自分が教え子を戦場に送ったわけでなくても、「国民全体」の一員として、自己の悪を反省したのだと解釈するのが正しいのだろう。そしてこれだけの反省さえも為し得ない多くの国民がいたことも眼前の事実としてあったのだろう。
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一方で、永井潔(画家・評論家)のような、「戦前の教育が軍国主義一色で塗りつぶされていたと見なすのは、公教育についてならともかく、教育の全体については正しい見方ではないだろう。社会の底には常に、さまざまな伝統とニュアンスをもった多様な教育の流れが脈々とつづいているのである」という見解もある。私は「公教育」においても永井のいうとおりだと思うのだが。
永井が「軍国主義一色」という考えに疑問を呈したのは相当前のことで、その後の検証によって「一色」というのは見直されているとは思うが、そのことについては、私は十分には把握していない。
それを検証する目的で書いたわけではないが、私は以前ブログ「坊ちゃんと河村重次郎」で戦前の中学教員生活の一端を、「国民学校の理科教育思想」で文部省の指導方針を検討してみたが、図らずも、永井の主張を裏付けるささやかな材料の一端となったかもしれない。
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今年の夏も戦争体験記が数多く新聞や雑誌に掲載され、またテレビで放映された。私が見ることのできたものはほんの九牛の一毛でしかないとおもうが、それでも感ずるところはあった。
その一つが、戦前の教員養成制度についてである。戦後、教員不足で、臨時教員の大量採用、免許証のない中学卒業生を助教としたり、国民学校高等科卒業生を「豆訓導」として教壇に立たせたことはブログ「でもしか先生」に載せた。しかし、うかつにも、教師不足が戦中から始まっていたことを見逃してしまった。
今年の戦争体験記には、今までになく多く、師範学校教育や臨時教員のことがあったと感じた。
少し前に、ある大新聞の投書に、生徒に戦場に行くことをすすめるのなら、教師は自らすすんで戦場に行くべきだったとあった。一理はある。だが実際、戦中の教師不足は深刻化していたのである。私は遅ればせながら、戦時中、臨時あるいは代用教員になる道がいろいろあったことを知った。臨時教員養成所を終了して17歳で国民学校教員になった話。小学卒業後、約半年、初等科准訓導養成講習を受講、国民学校教員になった例などの経験がなまなましく伝えられた。とくに女性が動員された実態が分かったような気がする。
まだ年端もいかない若い女性が、ほんの短い期間の講習を受けただけで教壇に立つといったことがいかに厳しいことか。今日、4年制大学を出て教師になった人でさえ困難な道である。講習で押し込まれたこと、教科書にあることを、ただただそのまま教えるという羽目におちいる。
正規の師範学校での教育が、これまた徹底した軍国主義教育を現場で実践できる教員を養成するためのものだったことも分かった。小学校での教え子がすぐ戦場に直結したわけでないとしても、教師たちが慙愧の念に襲われる結果になったこともうなずける。
ただ私が眼にした記事の範囲では、高等師範学校での教育について書いたものはなかった。夏目漱石もはじめ東京高等師範学校の教員をしていたことがあった。どんな教育をしたのだろうか。だがそれは明治の時代で、戦前とはいえない。中学における軍国主義教育については見あたらなかった。
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軍国主義教育を行ったと教師が後悔し懺悔しても、実のところ、子どもたちは意外に健全で理性的であったかもしれないのだ。小学上級生ともなれば、理性や判断力は十分に発達する。下手に洗脳された大人たちよりは素直にものごとを見ることができる。
子どもたちは、教師や大人たちの前ではだまされたふりをしながら、実際はだまされてはいないということもありうる。
天皇は神である・・・これをどれだけの子どもが信じていたか。腹の中ではそんなことをいう大人を馬鹿にしていたかもしれない。天皇が神でないことを実証するものは、すでに修身や国史の教科書のなかにある。大人たちは、全く理性に反する、ばかげたことを教科書の中に書いている。それを教師はもっともらしく、もったいぶって教える。教師はそれに気づいていない。
「教え子を再び戦場に送るな」というある団体のスローガンがある。再びということは、一度は送ったということである。だが、送ったのはこの団体の全員では決してなかった。もちろん、このスローガンは個人のものではなく団体としての決意を表明したものだろう。だが、団体として戦場に送ったのではないのだから、団体として自己批判するのもおかしい。やはり個人か。
戦場に教え子を送らなかった教師、軍人や兵士になることを阻止しようと努力した教師もいた。彼らはこのスローガンをどのような気持ちで受けとったのだろうか。
そもそも「送った」とか「送らなかった」とかいうのは僭越ではないのか。先にも意見を述べたが、小学生も上級になれば十分批判力や判断力を持つ。まして14歳、15歳の生徒たちがそれに欠けるなどということはない。
教育の目的は、児童・生徒が自分で考え判断できる人間、容易にはだまされない人間、自立した市民を育て上げることにあるのではないのか。戦場に行くべきか、行くべきでないか、それは子どもたちが自主的に判断することではないのか。その判断ができるようにしてあげるのが教育の役割ではないのか。「教え子を再び戦場に送らない」というのは教師の傲慢ではないのか。