静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

「国益」論とカント

2010-09-03 17:05:34 | 日記
 ○ オバマ米大統領、8月31日、イラクでの戦闘任務は終了と宣言、ただし戦闘能力を持つ5万人の米軍は残すと。なおオバマ氏、ブッシュ前大統領の「米軍への支援、国への愛」などを称える。
 ○ ブレア英元首相(プッシュのポチともいわれた)、イラク侵攻への英軍参戦に後悔せずと回顧録に。
 ○ 小泉元首相、以前、ブッシュ大統領の前でビートルズのパフォーマンスを演じてみせた。今は?
   
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 (1)
 小泉元首相が、自衛隊のイラク出兵の理屈づけに日本国憲法前文の一節を口にしたことがある。「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等に立たうとする各国の責務であると信ずる」。

 改憲論の一般的あるいはマスコミ的論調は「押しつけ憲法論」にある。それに飽き足りない人びとに対しては「講壇的改憲論」がある。いちばん顕著な論は自然法思想否定論である。日本国憲法は自然法思想に則っているが、この思想は非科学的であり、普遍的なものでもない、日本の伝統にふさわしくもないなどと主張する。

 改憲論者の多くは親米的、あるいは拝米的である。ところがアメリカ独立宣言は自然法思想を根源においている。GHQ原案に基づいた日本国憲法にも自然法思想が反映している。ではなぜその自然法思想を否定しようとするのか? 本家のアメリカが日本国憲法に対する態度を変えてきたからか? 

 小泉元首相は日本の改憲論者の総帥である。もっとも大元帥は別にいる。将官級の人もいる。その総帥が、自衛隊のイラク出兵にあたって上記のような理由づけをしたのである。小泉崇拝者が拍手喝采をしたのは当然である。このような風潮に対して派兵反対派、つまりそれは護憲派と重なるのだが、それらの人々は当然小泉発言に反発し、反論を展開した。しかし今その反論を反芻するつもりはない。
 ただ、ひとつ気になっていることがある。それは、イラク出兵は国益にかなうか、かなわないかという議論である。共に国益というものが存在し、それは国家にとって最重要だという思想的共通性がある。それに対し私は、カントの『永遠平和のために』(岩波文庫版)の言葉を援用しながら若干私見を述べたいと思う。

 (2)
 『永久平和論』の「常備軍は、時を追うて全廃されるべきである」とか「いかなる国家も暴力を以って他国の体制及び統治に干渉してはならない」とかの有名な提言は、何度でも噛みしめてみる価値があるが、今はそれには論及せず、同書付録1における次の一節をみてみたい。

 「政治的格率は、それを遵守することから期待される各国家の安寧と幸福から、それを各国家政策の最高の(しかし経験的に過ぎないところの)原理として、出発すべきではない。従って、それぞれの国家が自己の対象とするところの目的から(即ち、意志から)出発すべきではない。ではなくして、法的義務の純粋理念から、(即ち、その原理が先天的に純粋理性によって与えられるところの当為から)出発すべきである」

 なんとなく分かりにくいが、他の訳を見ても分かり易いわけではない。我流に解釈すれば、「各国家の安寧と幸福」とは、現今流行の「国益」に相当するとみてよいだろう。そのように見るならば、カントは「国益」から出発してはいけない、法的義務という純粋概念から出発せよといっていることになる。
 では法的義務とは何か。カントはその少し前で「正義は成されよ、たとえ世界は滅ぶとも」という警句を挙げ、これは正しい命題であるという。
 彼は他の箇所でも、もっと哲学的表現を用いながら同様の趣旨を述べていて、そこでは「永遠平和は・・・単に物理的善ではなく、義務の承認から発現する状態として願望される・・・」と書いている。
 つまりカントは、国家間の問題は「国益」を優先させたり、そこから出発したりしてはならない。正義の実現こそが国家の一義的義務であることを承認せよ、といっていると私は解釈する。

 また他の箇所で、国家体制や国際関係に欠陥が生じた場合、どうすればその欠陥を素早く改善し、理性の理念のうちに模範として示されている自然法に適合するようになるか、それを考えることが国家元首たちの義務であると主張する。

 この文を見ても分かるようにカントは自然法を高く評価していた。古代の自然法思想をまとまった形で遺してくれたのがキケロであるが、キケロは自然法思想の根幹に正義をおき、その正義は人間理性からの要請であると見ていたのである。
 カントは「まずもって純粋実践理性の国とその正義を求めで努力せよ。そうすれば汝の目的(永遠平和という恵み)はおのずからかなえられるであろう」とも言っているのである。

 では正義とは何かという問題が生まれる。
 キケロによって代表される人たちは、正義は自由と平等を基盤として生まれると考えていた。これは当時のコスモポリタニズムを背景にした思想だといえよう。前にも触れたことがあるが、彼は「身分の最も卑しいものたちに対しても、正義は守られなくてはならないことを、われわれは思いかえさなくはならないであろう」と述べていた。
 カントは「一民族は自由と平等なる唯一の法概念に従って一国家として結合すべきであるという事は、道徳的政治の原則であり、またこの原理は策略に基づくのではなくて、義務に基づくのである」と述べている。

 (3)
 イラク出兵にあたって小泉元首相が引いた憲法前文の一節は、上記のように実はカントが言わんとしたところである。というよりも私は憲法草案作成者はカントに学びながら起草したのではないかとさえ思う。GHQの誰がこの部分を起草したか私は知らないが。
 この自然法思想に基づく理念を、カントの理念と逆方向に用いたのが小泉氏である。イラク戦争はいかなる意味でも不正義の戦争である。「ブッシュ」や「ブレア」や「コイズミ」氏たちには「邪」はあっても「正」はない。
 小泉氏の引用は、「国益」どころか「ブッシュ益」「コイズミ益」優先の政策を韜晦させようとするもの以外ではなかったと断じたい。
 
 かつて韓国を「併合」することが国益とされ、次には「満州」を、さらに中国全土を、そして東南アジア全域を支配することが国益にかなうとされた時代があった。異国の地で死した将兵たちは「お国のために散った」として「靖国」に祀られた。本当は誰のために命を失ったのか?  
 自衛隊のイラク派兵に関しては、08年4月、名古屋高裁が、航空自衛隊の空輸活動は憲法9条違反との判断を下し、確定していることも忘れないようにしたい。

 カントは18世紀の思想家であり、その時代の国家論にとらわれている面もあるが、それはやむをえないことである。しかし、その普遍性という点では、彼がホッブスやロック、あるいはルソーを超えることができたのは、恐らく彼が自然法をその発祥である古代の思想に良く学んだからに他ならないと思う。もちろんホッブスたちも大いに古代に学んではいるが。

 『永遠平和のために』の最後の方で(付録2)カントは、「人間愛と、人間の権利に対する尊敬は、二つとも義務である。しかし前者がただ条件づきの義務であるのにたいして、後者は無条件的な、端的に命令する義務である」という含蓄ある言葉を残している。だがかれは、この後者については厳しい注文をつけている。それについては機会(余裕)があれば考察してみたい。
 この書の最後の言葉は「真の永遠平和は、決して空虚な理念ではなくて、われわれに課せられた課題である」である。