静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

人民の代表

2010-09-21 17:01:55 | 日記
 「共和国の原理は、人民の、人民による、人民のための政治である」とフランス憲法は定めてある。(フランス共和国憲法<1958年>、有信堂『世界の憲法』。ちなみに岩波文庫の『世界憲法集』<1972年版>には「人民の、人民のための、人民による」とある)。
 リンカーン大統領の演説として知られているこの有名な文言は、合衆国憲法には用いられていない。ただし「およそ人権宣言の先駆」ともいわれるヴァージニア権利章典(1776年)には「すべて権力は人民に存し、従って人民に由来するものである。行政官は人民の受託者であリかつ公僕であって、常に人民に対して責任を負うものである」〔『世界人権宣言集』岩波文庫)とある。

 リンカーン大統領はゲッティスバーグ演説で、of the people で一呼吸おき、それから by the people,for the people と続けたと、その演説を聞いた人が言っていたそうだ。
 この of the people を単純に「人民の」と和訳することには以前から疑問がもたれていた。 of にはいろいろの意味があり、最初の訳者が安易な訳をしてそれが定訳化したのだという。
 そうだとしても、この訳語にはもう長い歴史が積みあがり、日本語化しているのでどうしようもない。意味としては、ヴァージニア権利章典のいう「すべての権力は人民に存し、人民に由来する」というのが妥当だろう。
 この考えは多分、日本国憲法前文の「その権威は国民に由来し」に反映していると思われる。憲法はそのあとに「その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」と続く。

 それはそれとして、日本国憲法の特徴は見てわかるように、直接「人民による」のではなくて中間に「国民の代表者」をおいて、その「代表者」が「権力を行使する」ことにある。
 この代表者については、有名なルソーの批判がある。(ルソー『社会契約論』桑原・前川訳、岩波文庫)。

 「主権は譲りわたされえない。これと同じ理由によって、主権は代表されえない。主権は本質上、一般意思のなかに存する。しかも、一般意思は決して代表されるものではない。一般意思はそれ自体であるか、それとも、別のものであるかであって、決してそこには中間はない。人民の代議士は、だから一般意思の代表者ではないし、代表者たりえない。人民がみずから承認したものでない法律は、すべて無効であり、断じて法律ではない。イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう」
 「立法権において、人民が代表されえないことは明らかである。しかし、執行権においては、代表されうるし、またそうでなければならない」
 「人民は代表者をもつやいなや、もはや自由ではなくなる。もはや人民は存在しなくなる」

 それならば、議員を選出している日本人民(いや、日本国民)はすべてドレイ状態だということになる。もちろん日本だけではないが。マッカーサー憲法草案にはすでに、representatives of the people(人民の代表者)と明記してあった。これもちょっと不思議な気がする。

 ルソーが頭に描いていたのは古代の共和制、とくにローマの共和制であったことは注釈として加えておく必要があるだろう。彼は、代表者という考えは近世のもので、封建時代に人間が堕落し、政治が不正でバカげたものになったことに由来するという。

 しばらくまたルソーのいうことを聞いてみたい。

 政治体の生命のもとは、主権にある。立法権は国家の心臓で、執行権は脳髄である。心臓が機能を停止するやいなや、動物は死んでしまうように国家も死滅する。
 国家は法律によって存続しているのではなく、立法権によって存続している。 
 主権者は立法権以外の何らの力を持たないので、法によってしか行動できない。人民は集会したときにだけ、主権者として行動できる。人民の集会なんてとんでもないと思うかも知れないが、二千年前にはそうでなかった。
 ローマとその周辺の人民がしばしば集会するのは困難だと思うかもしれないが、ローマの人民が集会しなかった週はほとんどない。それどころか、週に数回も集会した。彼らは政府の諸権利の一部をも行使した。人民全体が、公共の広場では、市民であると同時に行政官だった。

 それだけではまだ十分とはいえない。特別の集会以外に、何ものも廃止したり延期したりできない定期の集会が必要である。人民が一定の日に、法によって合法的に召集される。招集日だけ決めれば合法で、後はどんな手続きをも必要としない集会である。非合法な集会でなされたことはすべて無効である。集会そのものが法に由来すべきであるから。

 このような趣旨のことを述べた後、彼は国家の規模について論ずる。彼は国家を適当な限界まで縮小することがいいと考えているようだ。だが、それができなければ、首都を認めない、つまり、政府を各都市に交互に置き、国家の会議を順番にそこで開くことを提案している。

 私は、ルソーの言い分に深入りしすぎたかもしれない。彼のローマ史に関する知識に誤りがあるかもしれない。そしてこの彼の提案は空想的・非現実的のように見える。だが、その理念・思想は今なお私たちに深い印象を与える。
 わが国では、国会で決めたことは決定的で、それが唯一といわんばかり。国民の代表が決めたのだから国民は異議を唱えてはいけない、反対してはいけない、反対すれば犯罪である・・・そういう風に見られがちである。念を押すが、ルソーは、人民が直接決めた法以外は無効であるといっているのである。

 ルソーはこうも言っている。ドレイは自由というものを知らず、それを欲しがりもしないと。これは、ドレイというものは常に自由を求めて戦うものだという通念とは異なる。つまり、国民は投票がすめばドレイになるのに、それに気がつかない。

 沖縄の米軍基地の是非も国会で決めればいい、国民の代表が決めたことだから沖縄県民もそれに従うべきだ・・・それが民主主義だ! そういう論理でものごとはすすむ。国民一般は、自分の自由が奪われていることに気づかない。主権が奪われていることも。

 こんにち、ルソーの時代とも、まして古代ローマの時代とも違う。交通手段・通信手段などの発達は比較を絶する。代表などによらず、人民が直接に法を定め執行できる可能性は高まっている。今や世襲的・職業的政治家、金権・カンバン・地盤に頼る選挙、利益誘導型の選挙に基づく議会は清算するときがきた、真に「人民による」政治を求めて・・・ルソーならばそいういうだろう。