静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

人は人のため(つづき)

2010-08-13 09:46:24 | 日記
 4、ローマ側の人
 たまたまネット上(ブログ?)で、安井俊夫という方が中学校でスパルタクスを題材にした授業を行って話題になったこと、歴史教育協議会内でも論争になったことなどを知った。もう相当古い話ではあるが。それにしても、うかつというべきか、当然というべきか、一般市民にはこういうことを知る機会は多くない。この授業は、土井正興氏の『スパルタクスの蜂起』と『古代奴隷制』の内容をベースに構成されていたという。

 どのように授業が展開し、どのような議論がたたかわされたか、詳しいことはわからないし、分かったとしてもここで論ずるつもりはない。ただ一つ気になったのは、安井先生の授業を受けたという卒業生の発言をも含めて、「ローマ側」「奴隷側」という言い方である。
 土井氏の国家観はいわゆる階級国家論だと思うが、それによれば、国家は支配する者と支配されるものとからなっている。だからどちらが欠けても国家は成り立たない。奴隷が被支配階級ならば、その奴隷がいなければ国家は存在しなくなる。つまり奴隷も国家の一構成要素であり、双方あいまってローマ国家を形成しているのではないか?

 スパルタクスの一団はアルプスを越えてガリアに逃れようとした。土井氏はそれを、奴隷制社会以前の原始共同体的生活への復帰を考えるよりほかはなく、そのための主体的闘争を激しく行ったのであり、そこに重要な意味があるという。「ローマという奴隷制的帝国の支配と抑圧にあえぐ奴隷大衆が、奴隷を物とみ、こうした搾取を当然とするローマの支配層にたいする、人間的な抗議とそれから解放されるぎりぎりの方法として提起されていた」。
 土井氏は「原始共同体」→「奴隷制」→「封建制」→「資本主義」→「共産主義」という発展段階説を頭に描きながらそう考えたのだろう。

 ローマの支配層としてしばしば土井氏の批判にさらされているキケロは、また偽善者だと言われたりする。彼は守旧派であり共和制の擁護者でありながら政治力に欠けており、時代の変化に対応できなかった人物だと一般に評価されている。
 それに比べてカエサルは進歩的で改革派とされ人気がある。かれは、その20年前にスパルタクスが復帰を目指したそのガリアを征服して英雄になった。

 キケロが擁護しようとしたローマ共和制は、古代の共同体という性格を持っていたと私は考える。いわゆる「原始共同体」ではない。ローマ共同体の呼び名は「res publica」、つまり「公のこと」であり「共同体」の意もある。
 キケロは政治的には敗北したが、共和主義者、人道主義者としての評価を長く持ち続けてきた。主に西欧社会において。


 5、キケロの自然法思想
 ギリシアに起源をもつ自然法思想をまとめあげ後世に伝える役割を演じたのがキケロである。この自然法思想は、人類は一つの普遍的な共同体または世界国家をなすもので法はその表現であり、それは永久不変のものであると考える。

 彼の自然法思想の基本は彼の『国家について』や『法について』に示されている。

 人間は正義のために(justitiam)生まれた。正義(jus)は、人間の考えによるのではなく「自然」に基づくものだ。それは、人間同士の交わりや結びつきを考えてみればすぐ分かる。
 私たち人間は、みんな互いに似ており、こんなに似ているものは外にはない。悪い習慣や誤った考えが人を惑わさない限り、すべての人が似ている。
 だから、人間をどのように定義するにしても、ただ一つの定義が万人に当てはまる。それは、人間はみな同じだということ、人間の種族に(in genere)異なるところはないということだ」(『法について』)。

 正義(jus)はすべての人に尊ばれるだろう。なぜなら、人びとは「自然」から理性を与えられているのだから、正しい理性も与えられている。法(lex)というものは、正しい理性が命令したり禁止したりするときに適用されるものである。
 したがって、人びとに法(lex)が与えられているならば正義(jus)も与えられているわけである。すべての人には理性が与えられている、したがってすべての人に正義(jus)が与えられているのである(同書)。

  もう少し続けよう。

 真の法(lex)は「自然」と調和した正しい理性(ratio)である。それはすべての人に当てはまり、永久不変である。それは人びとを義務に従わせたり、悪行を禁じたりする。
 この法(lex)を改変するのは罪悪であり、どの部分をも無効にすることは許されない。そしてその全部を廃止するなどということは不可能である。
 われわれは、元老院によっても民会によってもこの条件から(hac lege)解放されることは出来ないし、その解説を他者に求める必要もない。この法はアテナイとローマで異なるものでもはなく、現在・未来、永遠不変の存在である。(『国家について』)。

 以上は筆者の我流のまとめなので、おそらく誤認があるだろう。仕方ない。ここでは「jus」を「正義」と、「lex」を法と、「hac lege」を「この条件から」と訳した。正統な訳ではないかもしれない。また、「自然」とカッコの中に入れたのは、万物の創造者としての自然という意味である。


 6、人間主義と普遍主義
 キケロの最後の著作が『義務について』である。その要点は前回のブログの冒頭に掲げた。彼は義務については大いに語った。上記の文でも「義務に従わせ」とは出てくるが権利について触れることはない。古代においては権利思想はなかったといわれる所以である。
 ローマの自然法思想を端的にまとめてみれば次のようであろうか。

 人はみな平等で、誰にでも尊敬の念をもたなくてはいけないし、正義を実現させるのが人間の義務である。法はそのために存在する。 

 人間主義(ヒューマニズム)、普遍主義にもとづく古代ローマの自然法思想は、ヨーロッパの中世、近世・近代を通じて深い影響を与え続けたが、その中味はその時代によって大きな変動をみた。その変動の特徴的なことは、その後の自然法思想において普遍性や世界性を欠いてきたということである。
 詳しくは論じられないが、たとえば、なぜ異端者とか魔女という存在がつくりあげられて迫害されなければならなかったのか。

 ヘールは「ヨーロッパは奴隷の国である」という。少なくとも十世紀以来、西ヨーロッパは商品として奴隷を東方から輸入した。ヴェネチアは重要な輸入市場だった。奴隷にされた捕虜や異教徒は、キリスト教貴族の手で奴隷として売られた。トマス・アクィナスなどの指導的神学者は、アリストテレスを引き合いに出しながら、奴隷制を経済的に不可欠であり道徳上許されると弁護した。クロムウェルさえアイルランドの少年少女をジャマイカに売り飛ばした。近代人権思想の樹立者であったジョン・ロック自身、植民地に黒人奴隷を供給する王立アフリカ会社(1663年)の株主であった。アメリカ建国の父でさえ良心の痛みを感じなかった・・・(フリードリヒ・ヘール『われらのヨーロッパ』杉浦訳、参照)。

 もう一つ、モンテスキューの傑作な発言を紹介しよう・・・といっても、これも有名な話である。「これらの連中が人間であると想像することは不可能である。なぜなら、もしわれわれが彼らを人間と考えるならば、人々はわれわれのことをキリスト教徒ではないと考え出すであろうから」(『法の精神』、中央公論社『世界の名著』)。
 その他、ヘーゲルがこう言ったとか、だれそれがこう書いているとかいろいろある。こういう歴史的著名人の発言を集めることも面白いが、もう、このへんで止めよう。