静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

「わたしの『討匪行』」を読む

2010-08-24 17:43:29 | 日記

 
 (1)
 きょうの主題は、村松武司の『海のタリョン』のなかの評論「わたしの『討匪行』」についてであるが、その前に「敵は幾万」について少し書き加える。

 戦前の小学校(国民学校)の運動会、騎馬戦で敵味方が隊形を組んで向き合う。そこで双方が示威的に歌うのが「敵は幾万」である。敵は幾万ありとても/すべて烏合の勢なるぞ/烏合の勢にあらずとも/味方に正しき道理あり/邪はそれ正に勝がたく/直は曲にぞ勝栗の・・・と続くあれである。

 その一節が歌い終わると一斉に突撃ということになる。小学生といえども歌の大意はわかる。なんであれ、自分たちが正であり相手側は邪なのである。騎馬戦に正も邪もヘッタクレもあったものではないが、そうやって歌う。小学校の先生もなかなかやるものだ。子どもたちは正と邪が相対的なものだということを学ぶ。なぜ日本が正で「支那」が邪なのか、その逆でもいいのではないか?


 (2)
 本題の「わたしの『討匪行』」に移ろう。といっても、ほとんど村松氏の言っていることをなぞるだけだが。
 1932年1月「上海事件」勃発、村松武司氏小学校5年のときである。彼は当時京城(ソウル)にいたが、師団司令部近くの三角地という町のレコード屋さんがレコードを持ってきた。片面が「討匪行」、片面が「亜細亜行進曲」、藤原義江が歌っていた。「討匪行」の作詞は八木沼丈夫、作曲藤原義江。第一五節まである。村松氏も全部は載せていない。第一節はつぎのとおり。
 
  どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ
  三日二夜を食もなく
  雨降りしぶく鉄兜(かぶと)
  雨降りしぶく鉄兜(かぶと)

 第二節以降も悲しい話が続く。愛馬も倒れ飢えと寒さが迫り「草生う屍(かばね)」も覚悟する。そこへ友軍機がやってきて食料品などを落としてゆく。「溢るるものは涙のみ」・・・。
 村松氏が次に引いているのが第八節。

  今日山峡(やまかい)の朝ぼらけ
  細く微(かす)けく立つ煙
  賊馬は草を食(は)むが見ゆ
  賊馬は草を食(は)むが見ゆ   (八)

 このあとの村松氏の文章を引く。

 「見よ、前方の敵がまだ眠っている。接近せよ。撃て。不意にこだまする銃声、野辺の草が血に染まる。『賊』は馬もろとも倒れ伏し、山の家に焔があがる。かくて・・・
 
  敵にはあれど遺骸(なきがら)に
  花を手向(たむけ)けて懇(ねんご)ろに
  興安嶺よいざさらば
  興安嶺よいざさらば   (一四)

 酒のせいだ、わたしは(八)(一四)の右の二節を歌うとき声がうるむ・・・」



 (3)
 村松氏は1944年秋、京城で召集され、朝鮮・満州・ソ連国境で従軍した。もう戦争末期である。氏は、この歌は自分の軍隊経験のなかでは一度も歌われることはなかったと語っている。
 「匪」とは何か、村松氏はこう考える。「満州事変」で関東軍は奉天を占領し、さらに満鉄沿線の要地を攻撃・占領。その前面に張学良の東北軍であり、武装した農民が現れたが、日本軍に圧迫され、次第に奥地へ荒野へと拡散してゆき、農と兵が混合しつつゲリラ戦を展開するようになった。氏はいう「わたしのみた中国民衆は、じつはストレートに『討匪行』の『匪』となった。それを匪に成さしめたのは、関東軍であった」

 氏は、小学一年生のとき、母親、兄妹とともに満州の入り口、安東(あんとう)の祖父を訪ねた。その祖父は豪勢なカフェーを営んでいた。そこで見た中国民衆の姿を氏は語っている。
 「民衆は半裸であった。服を着ている者は、夏であったが袖の長い青い綿服を着ており、ひとにぎりの日本人植民者だけ、白い服を着ていた。
 中国民衆は、荷を担ぎ、馬車を御した。黙々とアカシアの並木の下を歩いていた・・・」

 氏は、その満州で叔父の浦尾正行という人に会っている。当時は珍しいフリーのカメラマンで満州事変当初から従軍カメラマンになった。戦争写真をたくさん撮ったが、次第に「不許可」写真ばかりになってしまった。村松氏の父の京城の家は安全ということで、その叔父が送ってきた不許可写真が箪笥の引き出しいっぱいになるほどだった。どのような写真であったか、氏の言葉をそのまま写そう。

 「言葉でそれらを言いつくすことはできない。写真に撮られた中国人は、すべて、兵であるか、農民であるか、区別のつかない人たちであった。不規則に並べられてこちらを向いた顔。何コマかの続き物のように、彼らが跪かされ、頭をさしだす。その背後で軍刀をふりかざす日本兵。家畜のように転がされた死体。首の切断面。
 霜柱、また残雪の大地のうえにそれぞれ死体が転がり、不自然な形に凝固していた。逮捕から処刑までの事件の移行を、浦尾正行は、それぞれ何枚かずつ記録していった。まるで彼自身、死体を求めて荒野をさまよう野犬のようであった」

 敗戦で日本に引揚げるとき手荷物しか持てず、これらの写真などは行李に詰め後便に託したが、それらは朝鮮人の自警団に押収され行方不明だという。



 (4)
 先の「討匪行」に戻ろう。村松氏は(八)(一四)の二つの節は「いまもわたしの胸を圧する」という。この詩の全体のドラマに感動しながらも氏の胸を押さえつけるのは(八)から(一四)への飛躍である。その理由を筆者は上記(3)で要約した積りである。 
 氏は故郷の「京城」とか、「故郷」の朝鮮とかいう。氏は、植民者の家族の一員であり、自身も植民者であるという。氏はそういって生涯自分自身を責めた。

 村松氏はこの論評文の最後の方でこう書いている。

 「朝鮮においては、日本人で乞食はいなかった。馬車を引く人も荷担人もいなかった。この当然で奇妙な現象こそ、やがて後に敗戦を境に引揚げを迎えるにあたって、日本人の総引揚げという奇妙な現象と重なり、符合してくるのである。
 村松一族は、敗戦後朝鮮に残りそこで生を全うしたいと考えたらしい。しかしそれはかなわなかった。そのあたりの事情は氏の「朝鮮植民者」に記述されている。
 氏はいう「われわれのなかで、植民主義者はいた。植民者もいた。しかし『植民地人』だけを生むことができなかった。だからこそ、いっせいに植民地を捨てることができたともいえる。
 このような感慨は、経験していない私たちには、なかなかわかるものではない。氏は問う。
 「とすれば、われわれ日本人とは、いったいどのような国民であり、民族なのか?」
 
 さらにこのように問う。かつて歌った「討匪行」が、誰を討つための歌であったのか?その「敵」が存在していた民衆の海というものが、実は過去において私(村松氏)を取り囲んでいた朝鮮人、被植民者であったことを認識するまでの距離は遠い。青年時代、日本兵として中国の間島省を目の前に収める距離にいてさえ、「討匪行」が朝鮮支配強化の歌であったことを知ることもできなかったと、自分を責める。

 最後の一節である。 
 「あの『敵にはあれど・・・』の匪の遺骸に、わたしが合体を成就するまでは、長い長い行軍がある」