(1)
諸橋轍次『中国人の知恵』を読んでいたらこんな話があった。『左伝』にある話なので広く知られてはいる。
晋の文公には子犯(しはん)という賢臣がいた。楚と戦ったとき、相手楚軍に疲れた様子がみえたが、文公は軍隊の一時後退を命じた。軍部の連中が承知しない。そこで子犯が言った。
「師は直を壮と為し、曲を老と為す」(戦争は、兵がこの戦いは正しいと信ずるときは強いが、正しくないと信ずるときは弱い)<老いる=疲れ果てる>。
諸橋氏はこのように書いている。
「これはまことに名言です。すべて戦争するばあい、正は邪に勝つ。すべての国民に正義の軍であるという自信があればこそ、その軍隊は強いが、これに反して、すべての国民が、こんどの戦いはなんのために戦うのかたからない、あるいは、ある人びとの野心からやっているのかもしれないと考えるようであれば、その軍隊はきっと負けるにきまっている。つまり、名分の立たない軍隊は必ず敗れるというのです」。
「敵は幾万」という歌がある。山田美妙斉作詞・小山作之助作曲。明治24年「国民唱歌集」に入れられた。隣国清を仮想敵国として作られたという。明治27年、日清戦争は始まった。日本は大勝し、大方の国民は万歳、万歳と感激し、感涙にむせんだ人もいる。
またアジア・太平洋戦争中、大本営陸軍部の戦況発表のテーマ音楽に使われた。3番まであるが、1番の最初の半分はこうだ。
敵は幾万ありとても
すべて烏合の勢なるぞ
烏合の勢にあらずとも
味方に正しき道理あり
邪はそれ正に勝ちがたく
直は曲にぞ勝栗の
(以下略)
この作詞者が『左伝』の子犯の言をもとに作詞したことは明らかである。子犯の場合、軍部の暴走を防ぐための発言だった。ところがわが国では侵略戦争の旗印になり、軍はますます狂気の道に走り出す。上海や南京占領などのたびに大本営はこの歌を流しながら戦勝を発表し、国民の多くが、昼は旗行列、夜は提灯行列で「日本勝った、支那負けた」と熱狂した。実に愚かなことである。
戦後65年、当時中国大陸に侵略した日本軍兵士たちももう80歳代後半から90歳代、あるいはそれ以上になっている。いままで口をつぐんでいた元日本兵のなかで、初めて重い口を開く人も増えてきたという。日本軍にとって正義の戦争だったのか。なぜ三光作戦(奪いつくせ、焼きつくせ、殺しつくせ)などという残虐無道を行ったのか。日本軍にどのような正しき道理があったのか。中国や中国人はなぜ邪なのか。
(2)
ジャン・ジャック・ルソーは、戦争は人と人との関係でなくて、国家と国家の関係であると主張し、それは、それぞれの国が敵とすることができるのは他の国家だけであり、人々を敵とすることはできないからだと論じている。さらにいう。
「戦争の目的は敵国の撃破であるから、その防衛者が武器を手にしている限り、これを殺す権利がある。しかし武器を捨てて降伏するや否や、敵または敵の道具であることをやめたのであり、ふたたび単なる人間に帰ったのであるから、もはやその生命をうばう権利はない」(『社会契約論』桑原・前川訳)。
ルソーはこれをローマ人の戦争観を語る中で論じている。彼は、ローマ人は,自分たちの法を犯すことがもっとも稀であった人民であると述べている。私たちはこのルソーの見解をみるにつれ、私たちの時代は何と彼の時代と異なった戦争観に陥っているのだろうと思わざるを得ない。もっとも、ローマ時代でも戦争観はそれぞれ違っていた。キケロとカエサルの戦争観の違いにみるように。そせぞれの立場によっても違う。
スパルタクスの反乱は、スパルタクスたちから見れば奴隷の束縛から逃れて自由の天地を目指す正義の戦争だった。今日の研究者からもそう評価されている。ならばその反乱の鎮圧に向かったローマ軍にとっては不正義の戦争ということになる。しかし、ローマ軍の兵士たちは、ローマの国を滅ぼそうとしている反乱集団を殲滅して国家を守る正義の戦いだと考えていたのではないだろうか。どちらの側も「味方に正しき道理あり」「邪はそれ正に勝ちがたく」と思っていた可能性が強い。
市民法にせよ万民法にせよローマ法は自然法にもとずくものと考えられていた。その万民法(jus gentium)では、市民が敵国の捕虜となったときは敵国の奴隷であるとされていたそうだ。確実なことは知らない。しかし敗者を殺す権利があるとは認めていないと思う。
何しろ、古代の戦争は無残であった。都市が占領されると市民は殺されるか奴隷として売られるのが普通であった。ローマの都市が占領されればローマ人がそのような憂き目をみた。ローマ法では、何らかの理由で敵国から帰国できたローマ人たちは、もとの市民生活に戻ることができた。いわゆる「帰国権」である。
先の「敵は幾万」の第三番にこうある。
進みて死ぬる身の誉れ
瓦となりて残るより
玉となりつつ砕けよや
畳の上にて死ぬことは
武士の為すべき道ならず
骸(むくろ)を馬蹄にかけられつ
身を野晒(のざら)しになしてこそ
世に武士(もののふ)の義といわめ
(以下略)
帝国軍人・兵士は捕虜になることを許されなかった。それどころか、一般市民だって投降は許されなかった。沖縄戦を見ればわかる。太平洋戦争末期、ラバウルやアッツ島、サイパン島などでの玉砕発表のときにもこの曲は流れたのだろう。そして一億玉砕へと突き進むことが強要される。
(3)
「人間にとって、たいていの災いは人間からくる」(homini plurima ex homine sunt mala)というのはプリニウスの言葉として知られている。二千年も前の言葉だ。
確かに天災はある。しかし搾取や戦争は人災である。前世紀は地球規模の搾取・収奪、そして戦争の世紀であった。それに自然破壊が追い討ちをかける。それは21世紀に引き継がれる。
原爆投下は米兵を守るためだった」として今でも合法化される。武装していない民衆を攻撃することは許されないとするルソーの思想など存在する余地はない。アメリカ独立宣言の精神はルソーやロックたちの自然法思想にあったというのに。
キケロは、人間は自然によって正しい理性が与えられており、正しい理性である法律も与えられている。正義はすべてに人間に尊重されるだろうと述べた。
帝国陸海軍にとって正義とは天皇のために命を捧げることであった。身を野ざらしにしてこそ義があったのである。それが武士道だというのである。
米軍にとってそれはデモクラシーを護ることであった。だからベトナムで枯葉作戦を展開した。ようやくイラクから撤兵を始めたようだがアフガンではさらに派兵を増強している。遠く離れた机上でコンピューターを操って無人爆撃機をとばし、無差別に砲弾を発射している。アメリカの将兵は、自分たちは正義のために戦っているのだと信じているのだろう。
正義の名においてこのような大量殺戮が行われることを、キケロやルソーは想像もつかなかっただろう。
諸橋轍次『中国人の知恵』を読んでいたらこんな話があった。『左伝』にある話なので広く知られてはいる。
晋の文公には子犯(しはん)という賢臣がいた。楚と戦ったとき、相手楚軍に疲れた様子がみえたが、文公は軍隊の一時後退を命じた。軍部の連中が承知しない。そこで子犯が言った。
「師は直を壮と為し、曲を老と為す」(戦争は、兵がこの戦いは正しいと信ずるときは強いが、正しくないと信ずるときは弱い)<老いる=疲れ果てる>。
諸橋氏はこのように書いている。
「これはまことに名言です。すべて戦争するばあい、正は邪に勝つ。すべての国民に正義の軍であるという自信があればこそ、その軍隊は強いが、これに反して、すべての国民が、こんどの戦いはなんのために戦うのかたからない、あるいは、ある人びとの野心からやっているのかもしれないと考えるようであれば、その軍隊はきっと負けるにきまっている。つまり、名分の立たない軍隊は必ず敗れるというのです」。
「敵は幾万」という歌がある。山田美妙斉作詞・小山作之助作曲。明治24年「国民唱歌集」に入れられた。隣国清を仮想敵国として作られたという。明治27年、日清戦争は始まった。日本は大勝し、大方の国民は万歳、万歳と感激し、感涙にむせんだ人もいる。
またアジア・太平洋戦争中、大本営陸軍部の戦況発表のテーマ音楽に使われた。3番まであるが、1番の最初の半分はこうだ。
敵は幾万ありとても
すべて烏合の勢なるぞ
烏合の勢にあらずとも
味方に正しき道理あり
邪はそれ正に勝ちがたく
直は曲にぞ勝栗の
(以下略)
この作詞者が『左伝』の子犯の言をもとに作詞したことは明らかである。子犯の場合、軍部の暴走を防ぐための発言だった。ところがわが国では侵略戦争の旗印になり、軍はますます狂気の道に走り出す。上海や南京占領などのたびに大本営はこの歌を流しながら戦勝を発表し、国民の多くが、昼は旗行列、夜は提灯行列で「日本勝った、支那負けた」と熱狂した。実に愚かなことである。
戦後65年、当時中国大陸に侵略した日本軍兵士たちももう80歳代後半から90歳代、あるいはそれ以上になっている。いままで口をつぐんでいた元日本兵のなかで、初めて重い口を開く人も増えてきたという。日本軍にとって正義の戦争だったのか。なぜ三光作戦(奪いつくせ、焼きつくせ、殺しつくせ)などという残虐無道を行ったのか。日本軍にどのような正しき道理があったのか。中国や中国人はなぜ邪なのか。
(2)
ジャン・ジャック・ルソーは、戦争は人と人との関係でなくて、国家と国家の関係であると主張し、それは、それぞれの国が敵とすることができるのは他の国家だけであり、人々を敵とすることはできないからだと論じている。さらにいう。
「戦争の目的は敵国の撃破であるから、その防衛者が武器を手にしている限り、これを殺す権利がある。しかし武器を捨てて降伏するや否や、敵または敵の道具であることをやめたのであり、ふたたび単なる人間に帰ったのであるから、もはやその生命をうばう権利はない」(『社会契約論』桑原・前川訳)。
ルソーはこれをローマ人の戦争観を語る中で論じている。彼は、ローマ人は,自分たちの法を犯すことがもっとも稀であった人民であると述べている。私たちはこのルソーの見解をみるにつれ、私たちの時代は何と彼の時代と異なった戦争観に陥っているのだろうと思わざるを得ない。もっとも、ローマ時代でも戦争観はそれぞれ違っていた。キケロとカエサルの戦争観の違いにみるように。そせぞれの立場によっても違う。
スパルタクスの反乱は、スパルタクスたちから見れば奴隷の束縛から逃れて自由の天地を目指す正義の戦争だった。今日の研究者からもそう評価されている。ならばその反乱の鎮圧に向かったローマ軍にとっては不正義の戦争ということになる。しかし、ローマ軍の兵士たちは、ローマの国を滅ぼそうとしている反乱集団を殲滅して国家を守る正義の戦いだと考えていたのではないだろうか。どちらの側も「味方に正しき道理あり」「邪はそれ正に勝ちがたく」と思っていた可能性が強い。
市民法にせよ万民法にせよローマ法は自然法にもとずくものと考えられていた。その万民法(jus gentium)では、市民が敵国の捕虜となったときは敵国の奴隷であるとされていたそうだ。確実なことは知らない。しかし敗者を殺す権利があるとは認めていないと思う。
何しろ、古代の戦争は無残であった。都市が占領されると市民は殺されるか奴隷として売られるのが普通であった。ローマの都市が占領されればローマ人がそのような憂き目をみた。ローマ法では、何らかの理由で敵国から帰国できたローマ人たちは、もとの市民生活に戻ることができた。いわゆる「帰国権」である。
先の「敵は幾万」の第三番にこうある。
進みて死ぬる身の誉れ
瓦となりて残るより
玉となりつつ砕けよや
畳の上にて死ぬことは
武士の為すべき道ならず
骸(むくろ)を馬蹄にかけられつ
身を野晒(のざら)しになしてこそ
世に武士(もののふ)の義といわめ
(以下略)
帝国軍人・兵士は捕虜になることを許されなかった。それどころか、一般市民だって投降は許されなかった。沖縄戦を見ればわかる。太平洋戦争末期、ラバウルやアッツ島、サイパン島などでの玉砕発表のときにもこの曲は流れたのだろう。そして一億玉砕へと突き進むことが強要される。
(3)
「人間にとって、たいていの災いは人間からくる」(homini plurima ex homine sunt mala)というのはプリニウスの言葉として知られている。二千年も前の言葉だ。
確かに天災はある。しかし搾取や戦争は人災である。前世紀は地球規模の搾取・収奪、そして戦争の世紀であった。それに自然破壊が追い討ちをかける。それは21世紀に引き継がれる。
原爆投下は米兵を守るためだった」として今でも合法化される。武装していない民衆を攻撃することは許されないとするルソーの思想など存在する余地はない。アメリカ独立宣言の精神はルソーやロックたちの自然法思想にあったというのに。
キケロは、人間は自然によって正しい理性が与えられており、正しい理性である法律も与えられている。正義はすべてに人間に尊重されるだろうと述べた。
帝国陸海軍にとって正義とは天皇のために命を捧げることであった。身を野ざらしにしてこそ義があったのである。それが武士道だというのである。
米軍にとってそれはデモクラシーを護ることであった。だからベトナムで枯葉作戦を展開した。ようやくイラクから撤兵を始めたようだがアフガンではさらに派兵を増強している。遠く離れた机上でコンピューターを操って無人爆撃機をとばし、無差別に砲弾を発射している。アメリカの将兵は、自分たちは正義のために戦っているのだと信じているのだろう。
正義の名においてこのような大量殺戮が行われることを、キケロやルソーは想像もつかなかっただろう。