静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

坊ちゃんと河村重治郎と

2009-12-05 12:09:00 | 日記
 漱石の坊ちゃんと河村重治郎とに特別関係があるわけではないが、並べてみた。
 漱石は1893年(明治26)、東京高等師範学校に就任、年俸は450円。日清戦争が始まる前年である。その翌95年、愛媛県尋常中学校(松山中学)教諭に就任、月給は80円、つまり年俸は960円。この中学は1年で辞任、第五高等学校講師に就任、月給100円、年俸1200円であった。

 この1年の経験が『坊ちゃん』の素材になったといわれる。この小説の登場人物はもちろん架空の人物であり、しかも戯画化されているし、内容も創作。だが教師としての勤務のあり方や生活ぶりは潤色する必要がないのだから、実際を描いてもいいはずだ。だが小説の中の坊ちゃんは英語ではなく数学の教師、月給は40円で半分にしてある。校長の狸と教頭の赤シャツは奏任官待遇だから宿直は免除されるとあって坊ちゃんは不満である。だが、一般には教頭も宿直はしていたと思う。奏任官は内閣総理大臣が天皇に奏薦して任命される官吏のことである。このとき坊ちゃんはまだ奏任官待遇ではない。判任官待遇なのだろう。

 うらなり先生は恋敵の赤シャツの策謀にひっかかって、日向の延岡に転勤することになる。俸給が5円上がるということで。うらなり先生の後任が新米で給料を安くできるので、その差額5円を坊ちゃんの加俸にしようと校長の狸、裏事情を知った坊ちゃんは激怒。戦前は、各中学で教職員の給料の総額が決められていて、校長はその範囲内で給料を配分していた。もっともベテラン教師が揃ってくると足らなくなると思うが、その場合割り当て額が増えるのかどうか私には分からない。校長は、連れてきたい教員がいたら、給料はいくらいくら出すからと条件をつけて、全国どこからでも採用できたのである。

 『坊ちゃん』では、校長・教頭が授業を担当したかどうか書いてないが、少なくとも、戦前の中学では校長・教頭も教壇に立つことは当然のことだった。校長・教頭の辞令とともに、教諭の辞令も出たので、校長・教頭は2枚の辞令を貰った。
 
 『坊ちゃん』の一節に、「授業はひと通り済んだが、まだ帰れない、三時までぽつねんとして待っていなくてはならん、三時になると、受持級の生徒が自分の教室を掃除してしらせにくるから検分をするんだそうだ。・・・帰りがけに、君何でもかんでも三時過ぎまで学校にいさせるのは愚だぜと山嵐に訴えたら・・・」とある。また、あとの方で、赤シャツに呼ばれたので、日課の温泉行きを欠勤して4時ごろ赤シャツの家に出かけていったとある。だからその前に下宿に帰っていた、つまり普段3時過ぎには退出していたのだろう。

 手元に田島伸悟著『英語名人 河村重治郎』という本がある。重治郎は英語辞書作りの名人で偉大な足跡を残した。昭和2年の『岡倉英和』に始まって彼が手がけた英和・和英辞書は大小八冊に及び、今日なお広く愛用されている。重治郎は秋田中学中退、検定で教員免許を得て東京の聖学院中学に勤務していたが、福井中学校長の大島英助に請われて1911年(明治44)に福井中学教諭として赴任する。重治郎24歳のときである。『坊ちゃん』が発表されたのは1906年(明治39)であるが、この小説の舞台になったのは1895年、その間16年である。

 重治郎が福井中学の思い出を書いている。それを孫引きする。
 「私がいたころの福中の教員室はさながら偉人の林であった。この林の中で無事平穏な十数年を私は実に幸福に過ごさせてもらったのである。・・・この林の木々こそは実は先生(大島校長)自ら全国から集められた名木ともいうべき偉人たちであったのである」
 「これら偉人のひとりひとりのことが常に私の胸中を去来する。学校とそこに学ぶ生徒の事以外に何事も考えなかった偉大な大島先生については既に多くが語られまた書かれた。その先生の下に集まった先生たちも、その学殖といい、見識といい、実に偉人の名にふさわしい人びとであった」。

 この書の著者の田島さんには申し訳ないが、下手な説明より引用したほうがずっといいので、さらに使わせて頂く。

 「福井中学での重治郎は、午後から授業がないと、さっさと帰ってしまうことが多かった。それも届けを出しての早退ではなくて、授業がないのだから帰宅して本でも読むのが当然、とでも思い込んでいるふうに、正門からの悠々退出であった。
 『河村君、君、すまないけれど早く帰るときは裏門からそっと帰ってくれないか』と、大島英助が苦笑しながら言ったという。しかし、教師自身の勉学への姿勢ほど、生徒にとって刺激的なものはない。いつのころからか、この午後退出自由は慣行化されてしまったようだ。大島英助の英断であったし、教師たちもよくその信頼に応えたと言うべきであろう」。

 1919年(大正8)重治郎は奏任官待遇となり年俸840円、2年後には1860円、さらに2年後大正12年には1980円の高給取りになった。しかし子どもが多い上に書籍代が嵩張って生活は楽でなかったようだ。同じようなことは漱石も『吾輩は猫である』で、古代ローマのタルクイニウス王とシュビラの書の故事を用いながら、細君に丸善への支払いが多すぎると文句ばかり言われている話をしている。当時書籍は高額で、とくに洋書は目が飛び出るくらい高価だった。東京や大阪のような大都会ではいざ知らず、地方都市では中学教師は高給取りの方だったが、それでも清貧の生活を余儀なくされたのだろう。重治郎が往時を振り返った文章がある。また孫引きだが載せる。

 「私の在任中、ただの一度も宴会の催された事はなかったし、また、はでな飲食の会合にもさそわれたこともなかった。黒い詰めえりの服に、生徒と同じ制帽をかぶり、弁当の包みを手首に引っかけ、あしだの歯を鳴らして町の中を歩き、それが当然のことと自らも思い、世間の人も思っていた。そして、学校の帰りには、肉屋によって牛肉を買い、薬屋で石けんと売薬を求め、ついでに菓子屋で子どものおやつを買って帰った」。

 福井中学の前身は明新館、その前身は越前藩藩校の明道館である。1871年(明治4)米国人グリフィスが明新館の教師として来福、西洋科学や語学を教えた。在任は1年足らずであったが、その業績・影響は大きかったようである。その影響が大島英助の頃まで及んだのかどうか分からない。多分ないだろう。だが、自由で学問を尊重する気風はその後も失われることはなかったように思われる。太平洋戦争中、公民の授業を担当した教頭が、一年間ヘーゲルばかり教えたという卒業生の証言もある。ヘーゲルを教えることの可否は別にして、戦中にそういうことが許される学校でもあった。



 

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子どもは一個の小宇宙(つづき)

2009-12-02 16:40:29 | 日記
 今日、子どもを取り巻く環境はすっかり変わってしまった。昔は、といってもそんなに昔ではないが、家の前の道路が主要な子どもたちの遊び場であった。母親が「ご飯だよ」と叫べば届くような範囲が遊び場であった。今後、路上から車がなくなる社会が生まれることがあるだろうか。いまでは公園で遊ぶ子どもの声さえうるさいと苦情が出る始末。少子化社会、その子どもも塾へ行ったり閉じこもってゲームに熱中するしかない。これは社会が滅亡する前兆だろうか。
 先日発表の文部科学省の08年度全国小中高「問題行動」調査によると、暴力行為が13%増の6万件近くに上った。識者の見解や社説が一斉に発表された。

 振り返ってみると、1997年、神戸市で児童殺傷事件が起きた。98年には栃木県で英語の女性教師が生徒に刺殺された。そして文部省の「児童生徒の問題行動に関する調査研究協力者会議」が報告書を出した。99年には学級崩壊が社会問題になり、次から次へと有意義な提案がなされた。だが、10年ほど経った今、それらの提案も評価の対象とならなければならない。
 事態は悪化している。それらの提案が的外れだったのか、提案が取り上げられなかったのか。

 文化省発表から日が浅いが、今回もすでに多数の見解が発表されている。それらをまとめるかのように社説が出た(朝日12月5日、毎日12月6日)。
 論調はよく似ている。「感情を、言葉で表す力が未熟なまま爆発させる(毎日)、「中でもコミュニケーション能力の陰りは深刻だ」(朝日)とある。他の論も似ている。どうやら意見は一致しているようだ。
 その対策はというと、「目を向ける大人をもっと」(毎日)、「学校・地域連帯で対策を」(朝日)である。これもほぼ共通、判で押したみたいだ。

 ドゥブレは「デモクラシーにおけるキーワードは、コミュニケーションだ」と皮肉った。この文の続きは「共和国(フランスのこと)におけるそれは、制度(創設すること、創設されたもの)institutionだ。共和国的な語彙において、小学校の先生(創設する人)instituteur,institutriceが高貴な言葉であり職業であるのは偶然ではない」である。この言葉は前にも紹介したことがある。いまここでドゥブレの論旨を展開する余裕はない。ただ、この文の少しあとで「共和国では図書館に最大の敬意が払われるが、デモクラシー(アメリカや日本など)ではテレビが重要視される」と述べている。
 ミッテラン氏は大統領選挙で「わたしは大きな図書館を作る」と公約したそうである(『思想としての共和国』)。
 
 30年ほど前、東大教授大内力氏が東大生の学力を論じて「日本語の文章が書けないものが大部分である」「学生がこうなってしまっては、これから10年、20年先の日本の学問はどうやら絶望的である」と書いたことを前に紹介した(「大内力氏の嘆き」)。私はもっと前、1960年頃からその傾向があったことをも指摘しておいた。
 大内氏は、事柄を正確に理解し、自らの頭の中で、それを整理する能力に欠陥があるといっていい」という。大内氏は東大生を対象に論じているのだが、これは日本全体、国民全体、日本の教育全体に問題があると警告を発したのだと思う。

 マスコミや評論家は、コミュニケーション能力、表現力の未熟を問題にする。だが本質はそんなところにはない。考える力、思考力の脆弱さ、欠如にある。感情だけで動くのは動物である。人間は考える動物である。頭の中が空っぽで何を表現するのか。
 子どもたちに、自分で考えることの条件が整っているだろうか。子どもの遊びは、子どもが成長し、自分で考え、自立し、他人と協同することを覚えるための、不可欠の過程である。
 子どもは、自分が小宇宙だとか一個の人格だとか、そんな難しい理屈は分からない。しかし自分が大人たちから大事にされているという自覚のあるなしでは大きな違いだ。

 大江健三郎氏の言ったことを思い出す。
 「本質的に彼らは誇りをもっている」「子どもたちの誇りを無視するとき、彼らが一番反発する」「自分の持っている誇りが踏みにじられる、無視される時、子どもがいかに、怒り、嘆き、あるいは苦しむかということをみれば、人間が基本的に持っている要素としての誇りを大切にしなければならない」。

 大人たちが、自分たちの都合によって教育の目的を勝手に決めていいものか。あるときはイエス・キリストや釈迦、あるいは孔子や孟子のような人間を目指せという。あるときは、軍神になれという。あるときは「期待される人間像」を国家、政府、資本の要求によって教育現場に強要する。学校は「期待される」労働力の養成、選抜の場となる。

 最後に、ある教育雑誌の特集号に掲載された論文(1984年)から、少し長くなるが引いて終わりにする。
 「教育はひとりひとりの人間の可能性を個性ゆたかに開花させ、新たな社会と文化を担う主体の形成を促す営みである。そのような営みとしての教育は、自由な社会においてのみ、その機能を十分に発揮することが出来るのである。画一的に統制された教育環境の中で、また伝統的価値観が圧倒的に支配する社会の中で、自由で多様な個性が伸びるわけがない。学校が真に教育の場でありうるために今日必要なことは、まさに社会と学校における自由の回復である」
 「子どもと青年は無限の発達可能性をうちに秘めた存在である。そしてこの可能性はしばしば大人たちの予想・予測をこえて顕現し開花する・・・」「たがって、そこには人が人を教えることへのおそれと、人間にひそむ可能性への深い信頼と寛容さが不可欠である。教える立場にあるもの、教育の政策と行政にかかわるものは、恣意や傲慢をきびしく自制しなければならない」(「日本の教育改革を求めて」)。




        



子どもは一個の小宇宙

2009-12-01 16:55:12 | 日記
 子どもはそれぞれが小宇宙
 「子どもは、それぞれ異なるどの段階、どの時点、どの時期においても、常にそれ自体で完結せる一個の充全な人間性なのである。多かれ少なかれ明瞭に大宇宙を表現せる小宇宙なのである。要するに、つねにある一定段階の宇宙なのであるが、しかしやはり一個の宇宙なのである」
 これはボヘミヤ生まれの教育学者コメニウス(1592-1670)の言葉として知られている。大宇宙というのは完成した世界であると昔から人びとは考えてきた。
 だから私はこのように考える。 
 人間は、乳幼児期であろうが少年少女期であろうが、それぞれの段階で完成された一個の人格である。だからどんな子どもでも一個の人格として接し尊重しなければならない。母親の乳房を求めて泣く子も、机に座って先生の顔を見つめる小学一年生の子モ、みんな一個の人格でなければならない。

 「神」を目指して
 教育基本法(新旧とも)は教育の目的の最初に「人格の完成を目指す」とうたっている。この法律制定時、「人格の完成」を巡って議論があった。当時の文部大臣田中耕太郎は「人間を超越する目標」「人間を超越する真善美の客観的価値」と説明したし、また彼の監修による『教育基本法の解説』では、「教育の淵源はあに教育勅語のみにあらず、あるいはバイブルあり、あるいは論語、孟子あり、あるいは仏教の経典あり・・」とあった。
 また改訂時(2006年)に衆院特別委員会で小阪国務大臣は田中発言を肯定する形で「人格の完成とは・・・私は神のことだと思う」「完全なる人格とは神だということになります」と答えている。これが政府の正式見解である(国会議事録参照)。

 やっぱり神にはなれない
 学校の先生は、自分は人間だが、子どもたちには神になるよう指導しなければならない。先生をABCDEの五段階に成績評価することになった県(?)もあると聞く。生徒を神にできた教師がAの評価を受けるのだろうか。学力テストというのが全国的規模で行われたが、学力がないと神さまにはなれないんだろうな。
 その点戦前は楽だった。教育勅語のもとでは、天皇は「神」で臣民は「天皇の赤子(セキシ=子ども)であった。神の子は当然神でなければならない、子どもたちはみんな神である。そう考えるのは当然至極である。だが天皇が神でなくなった今は、神になるのはとても難しい。

 遊びをせんとや生まれけん
 昔は児童に宿題など出さなかった。夏休みくらいなものである。子どもたちは帰宅するとランドセルを玄関に放り出して日が暮れるか母親が呼びに来るまで遊びほうけた。毎日毎日が楽しく、こんなに毎日楽しくていいのだろうかと思ったりする。・・・それでいいんです。子どもは遊ぶために生まれてきたのだし、その一日一日が二度と帰らぬかけがえのない人生なのです・・・。
 幕末や明治初期に来日した異邦人が例外なく驚くことの一つに、幸せそうに遊びほうける子どもたちの姿だった。自分の背丈ほどもある弟や妹を背負って遊ぶ子どもたちだった。
 「いたるところで、半身または全身はだかの子供の群れが、つまらぬことでわいわいさわいでいるのに出くわす」
 「少し大きくなると外へ出され、遊び友達にまじって朝から晩まで通りでころげまわっている」
 「私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない、世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない、ニコニコしている所から判断そると、子供たちは朝から晩まで幸福であるらしい」
 毎日毎日朝から晩まで幸福なのである。