漱石の坊ちゃんと河村重治郎とに特別関係があるわけではないが、並べてみた。
漱石は1893年(明治26)、東京高等師範学校に就任、年俸は450円。日清戦争が始まる前年である。その翌95年、愛媛県尋常中学校(松山中学)教諭に就任、月給は80円、つまり年俸は960円。この中学は1年で辞任、第五高等学校講師に就任、月給100円、年俸1200円であった。
この1年の経験が『坊ちゃん』の素材になったといわれる。この小説の登場人物はもちろん架空の人物であり、しかも戯画化されているし、内容も創作。だが教師としての勤務のあり方や生活ぶりは潤色する必要がないのだから、実際を描いてもいいはずだ。だが小説の中の坊ちゃんは英語ではなく数学の教師、月給は40円で半分にしてある。校長の狸と教頭の赤シャツは奏任官待遇だから宿直は免除されるとあって坊ちゃんは不満である。だが、一般には教頭も宿直はしていたと思う。奏任官は内閣総理大臣が天皇に奏薦して任命される官吏のことである。このとき坊ちゃんはまだ奏任官待遇ではない。判任官待遇なのだろう。
うらなり先生は恋敵の赤シャツの策謀にひっかかって、日向の延岡に転勤することになる。俸給が5円上がるということで。うらなり先生の後任が新米で給料を安くできるので、その差額5円を坊ちゃんの加俸にしようと校長の狸、裏事情を知った坊ちゃんは激怒。戦前は、各中学で教職員の給料の総額が決められていて、校長はその範囲内で給料を配分していた。もっともベテラン教師が揃ってくると足らなくなると思うが、その場合割り当て額が増えるのかどうか私には分からない。校長は、連れてきたい教員がいたら、給料はいくらいくら出すからと条件をつけて、全国どこからでも採用できたのである。
『坊ちゃん』では、校長・教頭が授業を担当したかどうか書いてないが、少なくとも、戦前の中学では校長・教頭も教壇に立つことは当然のことだった。校長・教頭の辞令とともに、教諭の辞令も出たので、校長・教頭は2枚の辞令を貰った。
『坊ちゃん』の一節に、「授業はひと通り済んだが、まだ帰れない、三時までぽつねんとして待っていなくてはならん、三時になると、受持級の生徒が自分の教室を掃除してしらせにくるから検分をするんだそうだ。・・・帰りがけに、君何でもかんでも三時過ぎまで学校にいさせるのは愚だぜと山嵐に訴えたら・・・」とある。また、あとの方で、赤シャツに呼ばれたので、日課の温泉行きを欠勤して4時ごろ赤シャツの家に出かけていったとある。だからその前に下宿に帰っていた、つまり普段3時過ぎには退出していたのだろう。
手元に田島伸悟著『英語名人 河村重治郎』という本がある。重治郎は英語辞書作りの名人で偉大な足跡を残した。昭和2年の『岡倉英和』に始まって彼が手がけた英和・和英辞書は大小八冊に及び、今日なお広く愛用されている。重治郎は秋田中学中退、検定で教員免許を得て東京の聖学院中学に勤務していたが、福井中学校長の大島英助に請われて1911年(明治44)に福井中学教諭として赴任する。重治郎24歳のときである。『坊ちゃん』が発表されたのは1906年(明治39)であるが、この小説の舞台になったのは1895年、その間16年である。
重治郎が福井中学の思い出を書いている。それを孫引きする。
「私がいたころの福中の教員室はさながら偉人の林であった。この林の中で無事平穏な十数年を私は実に幸福に過ごさせてもらったのである。・・・この林の木々こそは実は先生(大島校長)自ら全国から集められた名木ともいうべき偉人たちであったのである」
「これら偉人のひとりひとりのことが常に私の胸中を去来する。学校とそこに学ぶ生徒の事以外に何事も考えなかった偉大な大島先生については既に多くが語られまた書かれた。その先生の下に集まった先生たちも、その学殖といい、見識といい、実に偉人の名にふさわしい人びとであった」。
この書の著者の田島さんには申し訳ないが、下手な説明より引用したほうがずっといいので、さらに使わせて頂く。
「福井中学での重治郎は、午後から授業がないと、さっさと帰ってしまうことが多かった。それも届けを出しての早退ではなくて、授業がないのだから帰宅して本でも読むのが当然、とでも思い込んでいるふうに、正門からの悠々退出であった。
『河村君、君、すまないけれど早く帰るときは裏門からそっと帰ってくれないか』と、大島英助が苦笑しながら言ったという。しかし、教師自身の勉学への姿勢ほど、生徒にとって刺激的なものはない。いつのころからか、この午後退出自由は慣行化されてしまったようだ。大島英助の英断であったし、教師たちもよくその信頼に応えたと言うべきであろう」。
1919年(大正8)重治郎は奏任官待遇となり年俸840円、2年後には1860円、さらに2年後大正12年には1980円の高給取りになった。しかし子どもが多い上に書籍代が嵩張って生活は楽でなかったようだ。同じようなことは漱石も『吾輩は猫である』で、古代ローマのタルクイニウス王とシュビラの書の故事を用いながら、細君に丸善への支払いが多すぎると文句ばかり言われている話をしている。当時書籍は高額で、とくに洋書は目が飛び出るくらい高価だった。東京や大阪のような大都会ではいざ知らず、地方都市では中学教師は高給取りの方だったが、それでも清貧の生活を余儀なくされたのだろう。重治郎が往時を振り返った文章がある。また孫引きだが載せる。
「私の在任中、ただの一度も宴会の催された事はなかったし、また、はでな飲食の会合にもさそわれたこともなかった。黒い詰めえりの服に、生徒と同じ制帽をかぶり、弁当の包みを手首に引っかけ、あしだの歯を鳴らして町の中を歩き、それが当然のことと自らも思い、世間の人も思っていた。そして、学校の帰りには、肉屋によって牛肉を買い、薬屋で石けんと売薬を求め、ついでに菓子屋で子どものおやつを買って帰った」。
福井中学の前身は明新館、その前身は越前藩藩校の明道館である。1871年(明治4)米国人グリフィスが明新館の教師として来福、西洋科学や語学を教えた。在任は1年足らずであったが、その業績・影響は大きかったようである。その影響が大島英助の頃まで及んだのかどうか分からない。多分ないだろう。だが、自由で学問を尊重する気風はその後も失われることはなかったように思われる。太平洋戦争中、公民の授業を担当した教頭が、一年間ヘーゲルばかり教えたという卒業生の証言もある。ヘーゲルを教えることの可否は別にして、戦中にそういうことが許される学校でもあった。
+
漱石は1893年(明治26)、東京高等師範学校に就任、年俸は450円。日清戦争が始まる前年である。その翌95年、愛媛県尋常中学校(松山中学)教諭に就任、月給は80円、つまり年俸は960円。この中学は1年で辞任、第五高等学校講師に就任、月給100円、年俸1200円であった。
この1年の経験が『坊ちゃん』の素材になったといわれる。この小説の登場人物はもちろん架空の人物であり、しかも戯画化されているし、内容も創作。だが教師としての勤務のあり方や生活ぶりは潤色する必要がないのだから、実際を描いてもいいはずだ。だが小説の中の坊ちゃんは英語ではなく数学の教師、月給は40円で半分にしてある。校長の狸と教頭の赤シャツは奏任官待遇だから宿直は免除されるとあって坊ちゃんは不満である。だが、一般には教頭も宿直はしていたと思う。奏任官は内閣総理大臣が天皇に奏薦して任命される官吏のことである。このとき坊ちゃんはまだ奏任官待遇ではない。判任官待遇なのだろう。
うらなり先生は恋敵の赤シャツの策謀にひっかかって、日向の延岡に転勤することになる。俸給が5円上がるということで。うらなり先生の後任が新米で給料を安くできるので、その差額5円を坊ちゃんの加俸にしようと校長の狸、裏事情を知った坊ちゃんは激怒。戦前は、各中学で教職員の給料の総額が決められていて、校長はその範囲内で給料を配分していた。もっともベテラン教師が揃ってくると足らなくなると思うが、その場合割り当て額が増えるのかどうか私には分からない。校長は、連れてきたい教員がいたら、給料はいくらいくら出すからと条件をつけて、全国どこからでも採用できたのである。
『坊ちゃん』では、校長・教頭が授業を担当したかどうか書いてないが、少なくとも、戦前の中学では校長・教頭も教壇に立つことは当然のことだった。校長・教頭の辞令とともに、教諭の辞令も出たので、校長・教頭は2枚の辞令を貰った。
『坊ちゃん』の一節に、「授業はひと通り済んだが、まだ帰れない、三時までぽつねんとして待っていなくてはならん、三時になると、受持級の生徒が自分の教室を掃除してしらせにくるから検分をするんだそうだ。・・・帰りがけに、君何でもかんでも三時過ぎまで学校にいさせるのは愚だぜと山嵐に訴えたら・・・」とある。また、あとの方で、赤シャツに呼ばれたので、日課の温泉行きを欠勤して4時ごろ赤シャツの家に出かけていったとある。だからその前に下宿に帰っていた、つまり普段3時過ぎには退出していたのだろう。
手元に田島伸悟著『英語名人 河村重治郎』という本がある。重治郎は英語辞書作りの名人で偉大な足跡を残した。昭和2年の『岡倉英和』に始まって彼が手がけた英和・和英辞書は大小八冊に及び、今日なお広く愛用されている。重治郎は秋田中学中退、検定で教員免許を得て東京の聖学院中学に勤務していたが、福井中学校長の大島英助に請われて1911年(明治44)に福井中学教諭として赴任する。重治郎24歳のときである。『坊ちゃん』が発表されたのは1906年(明治39)であるが、この小説の舞台になったのは1895年、その間16年である。
重治郎が福井中学の思い出を書いている。それを孫引きする。
「私がいたころの福中の教員室はさながら偉人の林であった。この林の中で無事平穏な十数年を私は実に幸福に過ごさせてもらったのである。・・・この林の木々こそは実は先生(大島校長)自ら全国から集められた名木ともいうべき偉人たちであったのである」
「これら偉人のひとりひとりのことが常に私の胸中を去来する。学校とそこに学ぶ生徒の事以外に何事も考えなかった偉大な大島先生については既に多くが語られまた書かれた。その先生の下に集まった先生たちも、その学殖といい、見識といい、実に偉人の名にふさわしい人びとであった」。
この書の著者の田島さんには申し訳ないが、下手な説明より引用したほうがずっといいので、さらに使わせて頂く。
「福井中学での重治郎は、午後から授業がないと、さっさと帰ってしまうことが多かった。それも届けを出しての早退ではなくて、授業がないのだから帰宅して本でも読むのが当然、とでも思い込んでいるふうに、正門からの悠々退出であった。
『河村君、君、すまないけれど早く帰るときは裏門からそっと帰ってくれないか』と、大島英助が苦笑しながら言ったという。しかし、教師自身の勉学への姿勢ほど、生徒にとって刺激的なものはない。いつのころからか、この午後退出自由は慣行化されてしまったようだ。大島英助の英断であったし、教師たちもよくその信頼に応えたと言うべきであろう」。
1919年(大正8)重治郎は奏任官待遇となり年俸840円、2年後には1860円、さらに2年後大正12年には1980円の高給取りになった。しかし子どもが多い上に書籍代が嵩張って生活は楽でなかったようだ。同じようなことは漱石も『吾輩は猫である』で、古代ローマのタルクイニウス王とシュビラの書の故事を用いながら、細君に丸善への支払いが多すぎると文句ばかり言われている話をしている。当時書籍は高額で、とくに洋書は目が飛び出るくらい高価だった。東京や大阪のような大都会ではいざ知らず、地方都市では中学教師は高給取りの方だったが、それでも清貧の生活を余儀なくされたのだろう。重治郎が往時を振り返った文章がある。また孫引きだが載せる。
「私の在任中、ただの一度も宴会の催された事はなかったし、また、はでな飲食の会合にもさそわれたこともなかった。黒い詰めえりの服に、生徒と同じ制帽をかぶり、弁当の包みを手首に引っかけ、あしだの歯を鳴らして町の中を歩き、それが当然のことと自らも思い、世間の人も思っていた。そして、学校の帰りには、肉屋によって牛肉を買い、薬屋で石けんと売薬を求め、ついでに菓子屋で子どものおやつを買って帰った」。
福井中学の前身は明新館、その前身は越前藩藩校の明道館である。1871年(明治4)米国人グリフィスが明新館の教師として来福、西洋科学や語学を教えた。在任は1年足らずであったが、その業績・影響は大きかったようである。その影響が大島英助の頃まで及んだのかどうか分からない。多分ないだろう。だが、自由で学問を尊重する気風はその後も失われることはなかったように思われる。太平洋戦争中、公民の授業を担当した教頭が、一年間ヘーゲルばかり教えたという卒業生の証言もある。ヘーゲルを教えることの可否は別にして、戦中にそういうことが許される学校でもあった。
+