goo blog サービス終了のお知らせ 

静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

憲法は誰のもの(続)

2013-05-19 20:08:30 | 日記

(一)

 昭和天皇は日本国憲法の「上諭」で、憲法の制定を「深くよろこぶ」と述べて、新憲法の公布を宣言した。このことは前々回に載せた。現在の天皇は即位の礼で「この国の憲法を遵守します」と述べた。当然この二人の天皇は、96条の意味するところを理解していただろうし、それを口にもした。アメリカ大統領は就任式で聖書に手を置いて誓い、フランス大統領はフランス憲法に誓った後、モンテーニュの『エセー』を片手に記念写真を撮るという。日本の総理大臣は何に手を置いて誓うのだろう。「憲法改正するための内閣だ」などと嘯いている総理大臣が、日本国憲法に誓うなどということは天地が逆になってもないだろう・・・今の総理大臣のことだが。公務員は、服務の宣誓をすることになっているが、まさか総理大臣や閣僚は知らぬ振りをしているわけではあるまい。「日本国憲法を遵守」と宣誓したことを忘れてはいまい。その宣誓書はテレビで公開すべきだ。誰もそれを要求しないのは奇妙だ。

(二)

 週刊誌に載った岸井成格・佐高信・田原総一郎三氏の鼎談を読んだ。なかなか面白い。田原氏は、後藤田正晴(元官房長官)に説得されて小選挙区制に賛成したという。また岸井氏も誰かに(名前を失念)、中選挙区制だと金権政治を助長すると言われ、小選挙区制に賛成したという。佐高氏が「二人とも戦犯」と揶揄して三人で大笑いしたらしい。小泉元首相は、小選挙区制だと総裁の独裁になるから反対だと言いながら、自分が総裁になると、自分が独裁者になったと佐高氏が言う。中学生や高校生でも知っている小選挙区制の欠陥を、わが国のオピニオンリーダーが知らないはずはない。知らない振りをするだけだ。小選挙区制が誰を、どんな勢力を利するか、具体的に理解できる立場にある彼らはトボケているだけだろう。

「今の日本は自己規制、ファシズムの国」というタイトルの辺見庸氏のインタビュー記事を見た(5/9、「毎日」夕刊)。私は戦後日本のファシズムの風潮は小泉内閣のときから顕在化したと思っている。民主党内閣のときはそれにブレーキをかけたように見えても、実はそれはファシズムへの道ならしをだけだ。

 マスコミや識者はいま、「立憲主義」「立憲主義」と騒いでいるが、ドイツ・ナチスはワイマール憲法下で台頭し独裁権力を握った。「立憲主義」は何ほどのものぞ! 「立憲主義」という言葉は昔からあったが、近代国家が発足するときこそ重要な争点だったろう、例えば明治初期の民権運動が展開していた頃のような。やたらに「立憲」という言葉が流行った。立憲帝政党、立憲改進党などという政党もできた。21世紀の今日、立憲主義を声高に叫んでも感心する人は少ないだろう。

メモを取っておかなかったので正確にはいえないが、安倍首相も、ある閣僚も、高級官僚も「立憲主義」を口にし、「憲法は国民が国家を縛るもの」とか平気で言っている。国民が国家を縛るのが憲法というのは、いまや国家的共同認識になってきているようだ。「共同幻想」でなければよいが。

 もし憲法が改正されて、国防軍とか海兵隊ができ海外出兵も可能になれば、政府はその憲法に「縛られてやむをえず堂々」と国民に徴兵令を出し戦争への参加を強要できるようになるのだろう。つまり国民を縛ることができる。アベさんなんか、嬉しくて仕方ないだろう。だから政府は国民に縛られ憲法に縛られることを期待するのだ。これはお笑いだ。

 (三)

 同じ週刊誌に萩原博子氏の「なぜ、そんなに96条を変えようとするのか!? 自民党の憲法改正案を読んで感じたこと」というエッセイを読んだ。

 氏の主張には全面的に賛成したいが、今までの私の論調にはまったく合わないところがある。くどくなるが、その箇所を転載しよう。

 「憲法の99条には、こうあります。『天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う』。この中に『国民』という言葉が入っていないのは、国民は義務を負う側ではなく、負わせる側――つまり、権力を監視する立場に立っているからです」

 「縛る」とか「命令する」という言葉を使っていないので、より読者になじみやすい表現である。だが、この「負う側」「負わせる側」もまた紋切り型である。この二項対立的な発想は、いつ、誰が発明したのだろう。ブッシュやコイズミ的発想に似ている。

       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   

   (以上まで書いたところで急に多忙になってしまった。つながりが悪いが少し付け足してこの項は終わりにする)

       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(四)

 全国各地で生まれた「九条の会」は数千といわれる。これは、憲法第九条を守ろうという考えの人たちの党派を超えた自主的な集まりだという。この組織の名は、「九条を守る会」でもなく「九条を守らせる会」でもない。「九条の会」と微妙である。しかし、見たり聞いたりするところによると、憲法九条を改変もしくは削除しようという人は入っていないようである。 

 発起人の一人である井上ひさしさんは「憲法は政府を縛るもの」と日頃言っていたらしい。彼は文学者だから「縛る」などというあいまいな言葉を使ったのかもしれないが、法律を論ずるにはあいまいすぎる。

憲法の平和主義、ことに第九条は、井上的表現による「縛る」を用いれば、それは政府を縛るのみならず国民自身を縛っているのである。国民ひとり一人が守る義務がある・・・そういうふうに考えるのが至当だと思う。「九条の会」に加入するか否かにかかわらず、国民みんなで守らなければならない・・・それが日本国憲法自体の要請である。義務がある政府や公務員が守っているかどうかを監視するだけでいい・・・それでは政府や国家権力を喜ばせるだけだ。大体、今日の政府が、国民の監視があれば憲法を守るだろうと考えること自体が大甘だ。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

[蛇足]

 「天声人語」が、大阪市長の橋本某氏の「慰安婦」発言などに関連して、日本の政治家の歴史観,人権観が疑われているとした上で、「判断力ももたなければ品位も欠く。そんな政治家に日本の将来は託せない。危なくてしかたない。」と書いている(5/19)。

 書いてあることはまっとうだと思うが、では、問いたい。朝日新聞とは限らないが、大手マスコミ・ジャーナリストが橋本氏の言動を逐一大げさに報道してヨイショしたことの自己責任はどうなるのだ。もちろんそういう報道に騙されて投票した市民にも責任があるが。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。