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静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

風のPL(15)ウェルギリウスのうた

2013-02-22 21:30:27 | 日記

(一)

プリニウスは『博物誌』を詩の女神ミューズ(Camenis Quiritium) に捧げた。彼はミューズをギリシア語のMusaではなくラテン語のQamenisと表し、ローマ市民をRomaniではなくQuirittesとした。Quiritesはローマ市民ではなく、むしろローマの人々と訳すべきかもしれない。このことは前回書いた。なぜミューズ(ムーサ)をカメーナ(Camena)にしたのか。古来ローマの水のニンフだったカメーナは、リウィウス以降ギリシアのミューズと同一された。だがカメーナは元来ローマにおいては水のニンフだった。ローマ市のカペナ門外にカメーナの聖なる森と泉があったという。プリニウスの頭には、ちらっと古来の伝説が去来したのかもしれない。

  『博物誌』への序文(ティトゥスへの手紙であり献辞でもある)の出だしのところにプリニウスはカトゥルスの詩の一節を2行ほど載せている。カトゥルスといえば古代ローマを代表する詩人の一人である。しかもプリニウスと同郷だという説もある。というのもプリニウス自身が「放蕩仲間であるカトゥルス」と呼んでいるからである。放蕩仲間というのは「同郷人」の俗語らしい。いずれにしてもプリニウスはカトゥルスを同郷の先輩とみなしていたようだ。同時にカトゥルスの故郷はローマ最高の詩人といわれるウェルギリウスの生まれ故郷とも近かった。

プリニウスはウェルギリウスを「詩の王侯」と呼んだ。そして、ウェルギリウスの肉筆は日ごろから目にしていると書いている。どこで見ているかは書いてないが、キケロやアウグストゥスなどの手書きの書も日常的に見ていたらしい。若いときすでにそのような一級の著名人の肉筆を見ることのできる立場にあったらしい。

 ウェルギリウスの最後となった作品は『アエネイス』だが、自分で不満足だったかどうかは知らないがウェルギリウスは亡くなる直前、原稿を焼却するよう友人に遺言していた。だがアウグストゥスはそれを禁じ、彼の命令によって刊行されることになり今日にある。この件についてプリニウスは次のように書いている。「故アウグストゥス陛下は、遠慮深いウェルギリウスの意思を無視して、彼の詩を焼くことを禁じた。かくして、ウェルギリウスは自分で自分の作品を推奨したとしても得られなかったような強い称賛をかち得たのだ」(『博物誌』)。

ここでちょっとウェルギリウスの伝記について触れておく・・・私にはよくわからないのだが・・・。2世紀の歴史家スエトニウスの『ウェルギリウス伝』に依拠して4世紀中頃の文法学者アエリウス・ドナトゥスがウェルギリウスの注解書を書いた。しかしこれは失われた。だが5世紀はじめの頃の文法学者セルウィウスがドナトゥスの注釈書から抜粋して新しい注釈書をつくっていて、それは現在見ることができる・・・そういうことになろうか。横道にそれそうだから深入りしないでおこう。

プリニウスは1世紀の人で、しかもウェルギリウスの手書きの書をしょっちゅう見ていたらしいし、したがって関心も深くいろいろ話を聞く機会もあっただろう。前掲のように、ウェルギリウスが『アイネイス』を焼却するよう遺言したのは彼の遠慮深さからだというプリニウスの見解は検討してみる価値があるのではなかろうか。プリニウスが日頃見ていたウェルギリウスの肉筆原稿というのはこの『アエネイス』だったのだろうか、それとも『農耕詩』か『牧歌』か、それともその全部か?いずれにせよ幸せな人だ。

 (二)

『博物誌』本文でウェルギリウスの名は60箇所以上出てくる。名は出さなくても参照した箇所はたくさんあるはずだ。その多くは農業関係で、対象になった書は『牧歌』と『農耕詩』、これらも後世に大きな影響を与えた書である。

三枝博人は『プリニウスと自然誌の問題』のなかで「プリニウスは経験に支えられているところの技術を人間たちのあらゆる経験範囲に亘って集大成することを試みた思想的な記述家である」と述べたが、その技術の中でも当時最重要な技術であった農業技術に彼が目を向けないはずはない。

『博物誌』のなかで、農業技術、農業経営、農産物と農業製品、市場、農業と天文などは極めて重要な地位を占めている。プリニウスは大先輩であるカトーやワッロなどの著作や、同時代のコルメラの作品を重要な典拠として用いた。これらの著作者たちは、基本的には自分で農耕作業に従事したわけではない。ローマ史の中の著名人では、例外的にキンキナトゥスのように汗水流して農耕に励んでいた人もいるが・・・。だが多くはせいぜい農業・農園経営者の経験を持った人たちだった。プリニウス自身はローマに出てきて若いときローマの大植物園で植物の研究に励んだことはあっても、農耕に従事したとは思えない。学業を終えてからの一生は、法律家、軍人、行政官、皇帝付き諮問委員といった、農業とは直接関係のない職業に従事した。

しかし彼はそれらの経歴と経験の中で観察を続けた。たとえば彼の最初の著作に『馬上の投槍について』というのがある。騎兵隊長をしていた頃の観察から生まれたものだろう。ウェルギリウスの『農耕詩』第3歌にウマの描写がある。プリニウスはそれを評して「もっとも好ましいウマの外観はウェルギリウスの詩にまことに美しく描写されている。だがわたしもまた『馬上からの投槍について』においてそれを取り扱った」(『博物誌』)と述べた。『馬上での投槍について』を書くに当たってプリニウスがウェルギリウスを意識していたことは間違いない。

 ウェルギリウスの生きた時代は共和制から帝政に移る過度期で、抗争や内乱が絶えなかった。小農経営、自作農経営はだんだん姿を消していった。『農耕詩』の舞台はそのような時代だった。プリニウスの故郷とされるアルプスの南に広がるガリア・キサルピナと呼ばれた地域がローマ共和国に編入され、コムム(現コモ市)が自治市に格上げされたのはカイサルのときだった。

(三)

 プリニウスが『博物誌』三七巻201-202においてイタリアの自然を賛美したことは、前回・前々回で述べた。その一部分は、ウェルギリウスの『農耕詩』第2歌を思い起こさせる。その箇所を小川正廣氏の名訳を借りて紹介しよう(『西洋古典叢書』)。

  むしろこの地に溢れるのは、豊富な穀物の実りと、マッシクス山の

葡萄の酒。オリーヴと、多産な家畜の群れはここをわが家とする。

(4行略)

ここでは永遠に春であり、夏は夏でない月まで続く。                   

家畜は年に二度身重になり、木は年に二度果実をもたらす。

それに凶暴な虎や、獰猛な獅子の種族は生息せず、

(3行略)

さらに加えて、あれほど多くの傑出した都市と、労を費やした建造物、

切り立った岩山に人手をかけて築き上げた多数の町々と、

古い城壁の下を流れる川。

あるいは、上の岸辺を洗う海と、下の浜に寄せる海を、

また、あの大きな湖を語るべきか。最も広いラリウス湖よ、おまえをも?

(5行略)

この地はまた、鉱脈の中にある銀の流れと銅の功績を

明るみに出し、黄金も、きわめてふんだんに産出してきた。(第二歌140-160)

(以下豊かな農業・農業技術、農産物、家畜などが歌い上げられるのだが省略)

  次に『博物誌』37巻からの一部分(前・前々回と一部重複)

  「第二の母であるイタリア、そこには多くの男が、女が、将軍や兵士たち、そして奴隷たちがおり、卓越した芸術や工芸、素晴らしい才能の富をもち(略)、健康的で温和な気候に恵まれ、(略)多くの港がある海岸をもち、穏やかな風が吹き渡るイタリア。(略)その豊富な水の供給、健康的な森林、道の通じている山々、無害な野獣たち、豊穣な土地と牧場(略)ブドウ酒、オリーヴ湯、羊毛、アマ、布、若いウシなど・・・。鉱石では金、銀、銅、鉄いずれにおいても、稼行が合法的に行なわれる限りは、イタリアを凌ぐ地はない」

  実はウェルギリウスは先の文の前に、メディアの豊かな大地も、美しいガンジス川も、黄金で濁ったヘルムス川(小アジア西部の)も、パクトラ(バクトリアの首都)もインドも、パンカイア島(アラビア海の)もイタリアとは栄誉を競えないだろうと誇っているのである。

 プリニウスの上記の「イタリアを凌ぐ地はない」の後にはこうある。「もしわたしがインドの伝統的な驚異的事物をさし措くならば,イタリアに次ぐ地位をヒスパニアに、少なくともヒスパニアの海に接する諸地区に与えよう。というのはこの地の一部分は荒い砂漠ではあるが、それでもその生産的な地域はすべて農作物、油、ブドウ酒、ウマ、そしてあらゆる種類の鉱石に富んでいるから。ここまではガリアも同じだ。しかしヒスパニアを有利にしているのはその砂漠である。というのは、この砂漠にはエスパルト草(ハネガヤ)、かがみ石、それに奢侈品(絵の具)すらある。そこには勤労に対する刺激物があり、奴隷が鍛錬され、人間のからだが強健で心が情熱的であるような場所がある」

 ウェルギリウスの頃はまだガリア(フランス)以西はローマ人に広く知られてはいなかった。プリニウスはヒスパニアで皇帝代官を務めただけあってとても詳しい。この文のあと半ページほどで『博物誌』は完結している。

  『農耕詩』にある「最も広いラリウス湖よ」のラリウス湖(現、コモ湖)はプリニウスの故郷だと思われるし、従ってウェルギキウスやカトゥルスの郷里にも近かった。自分の古里のことが歌われていて、嬉しくない人はいないだろう。コモ湖は現在イタリア屈指の別荘地・観光地である。 プリニウスはローマ最高の詩人の詩をなぞったと思われる文を飾ってイタリアの自然を賛美し、そのような美しい地を創造した自然を称えて『博物誌』を終えたのである。


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