静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

素人と黒人<くろうと>

2012-07-02 21:52:09 | 日記

(一)
 古代ギリシアの哲学者メネデモスの言葉としてブルクハルトが伝えているものがあ
る(『ギリシア文化史』第3巻、新井訳)。
 アテナイには外国人が殺到していたが、「多くの人たちは賢者(ソポイ)としてや
って来る、やがて彼らは哲学者(ピロソポイ)と自称し、次には弁論家(レトレス)
と自称し、ついにはかろうじて素人(イデイオタイ)と自称することになり、識見を
具えるようになればなるほど謙虚になる」。
 面白い言葉だが平凡といえば平凡、他にも聞いたような気もする。大昔の話、しか
も筆者には出典の確認ができていない。
 この素人(イデイオタイ)というのは、おそらくアマチュアということなのだろ 
う。ギリシア語の愚者という意味から生まれたのではないかと推測。
 前々回のブログ「アマチュアとカリスマ」で、アメリカの分子生物学者シャルガフ
が、いい世の中を作るのは専門家ではなくアマチュアだと強調していたことを紹介し
た。私も3・11を引き起こしたのはアマチュアではなくて、その筋の専門家だとい
う見解を婉曲に述べた。
 そしたら、経済評論家・内橋克人氏の「原発の呪縛・日本よ! この国はどこへ行
こうとしているのか」(『毎日』夕刊「特集ワイド」6・29)を見た。少し長くなるが引
く。
 「福島第一原発事故に、政治が素早く反応したのがドイツだった。大震災発生から
2日後の3月13日夜、首相府に政権幹部が集まり・・・対応を協議。翌14日には
『原発維持』からの路線転換をメルケル首相自ら発表した。翌月にはエネルギー政策
転換のため、有識者による倫理委員会を発足させた。委員は、『リスク社会論』で世
界的に知られる社会学者、ウルリッヒ・ベック氏のほか、政治、科学、哲学、宗教界
などから17人。メンバーには一人として、日本で言うところの『原子力専門家』と
称する人はいない。そしてもうひとつ大事なことは、その提言に数字はほとんど含ま
れていない。技術者が数字をもてあそんだり、一般国民にわかりにくい専門的な言葉
で事実を糊塗するようなことは一切ない」
 
 日本では専門家が次々にテレビに出て、嬉しそうに専門用語を使って「大丈夫」「
大丈夫」と安全性に太鼓判を押す。専門語の羅列、「ベント」などその最たるもの。
「ベント」をやれば大丈夫ですよ! 「放射能は体にいいんですよ」とか言って国民
を煙に巻く。何が「ベント」だ! そのうち「タテヤ」「タテヤ」というから何だろ
うと思って手もとの国語中辞典を引いてみたがない。広辞苑を見てそれが「建ててあ
る家、建物」だと知った。「建ててない家」なんてあるのか? その「タテヤ」が爆
発して、テレビを見ている国民は煙に巻かれた。
 ドイツでは専門家を除外してアマチュアだけで政策転換のための「倫理委員会」を
つくった。日本では専門家だけが集まってで原発の再稼働にお墨付きを与えた。
 アジア・大平洋戦争だって、軍人を排して文民だけで御前会議を開いたなら、日本
は戦争に負けなかったであろう・・・戦争はしなかっただろうから。ドイツ国民は今
でもナチスの罪悪を追求している。日本では極東裁判での戦争犯罪者を神として祀っ
ている。

(二)
 以前(2010・11)、今日の物理学者は、宇宙の創造者は神ではなく自分たちだと思っ
ているのではないかと書いた(「宇宙創造には神は要らない」「偉大な哲学者」)。
彼らは、現代においては哲学は死んでおり、この物質世界の運動を物理学が宇宙の始
まりから確実に支配していると思っていると。

 先ほどの、ドイツでつくられた、エネルギー政策転換のための有識者による倫理委
員会は社会学、政治学、科学、哲学、宗教界などから選ばれた。ドイツではまだ哲学
が生きている証拠だ。
 いまや先端科学者や技術者は、神でさえこの地上に原子力エネルギーを作らなかっ
たのにそれを作り、人工授精で生命をつくり、それを人工人間にまで発展させ、果て
には宇宙までつくろうと野心を抱く。それが現代の賢者なのだろう。アテナイでは、
賢者から哲学者へ、弁論家から素人へと降りていく。識見を具えた人が素人になるの
だ。
 古来中国ではまず聖人がおり、次に賢人(賢者)、そして愚者がいる。だが「愚者
のなかにこそ、この世の大多数である愚者の心を知ることができるものがいるのだ。
その意味では、愚者のなかの研鑽を重ねたものこそが、賢人よりも聖に近い。何故な
ら彼らは賢であり同時に愚であることができるが、賢人はただ賢でしかあり得ないか
ら」(手代木公助『夷客有情』より)。
 2012年6月29日夜、首相官邸前の広場に、15万人とも20万人ともいわれ
る民衆が集まった。ほとんどが素人(イデイオタイ)や「愚者」、「アマチュア」だろ
う。だが彼らが賢者にならないと断言することもできない。研鑽を積んで賢人にそし
て聖になる可能性はある。この抗議集会集を評して「より賢い市民をつくる場になる
はずです」と語った人もいる(高千穂大教授五野井郁夫教授、政治学、『サンデー毎
日』7・15)。
 官邸前での抗議集会はこれが13回目だそうだ。だが大手メディアは”黙殺”して
きたが、それを指摘されて、ある全国紙デスクが「現場の取材記者から原稿が入って
こなかった」と弁解し、民放キー局のディレクターは「市民軽視でした・・・市民の
やむにやまれず街頭に出る直接行動の意味を理解できていなかった」と反省したそう
だ(前掲誌)。
 わが国のマスコミはこんな程度のものだということをはからずも告白してくれた。
だけど、こんな言い訳を誰が信じるだろうか。

(三)
 日本の政治家、とくに政権政党の幹部級の議員のなかに、”俺たちは政治のプロだ
から政治のこと、法律のことは任せておけばいいのだ”と有権者の市民の頭越しに言
う人がいる。いちいちメモしていないので具体的に今ここで名を挙げることができな
いが・・・彼らは自己を政治のプロ、専門家と自認し市民を見下している。彼らは日
本国憲法前文の国政は国民の信託によるもので「その権力は国民の代表がこれを行使
し」を錦の御旗みたいに振りかざす。確かに国会議員は「国民の代表」なのだろう。
それを言われると、大方の国民は、「ハハッ」とかしこまる他はない。首相はプロ中
のプロを自認しているのだろう。その政治のプロたちが原子力のプロたちのお墨付き
を高く掲げて「そこ退け、そこ退けおウマが通る」。葵の紋所みたいなものだ。
 だがその紋所を怖れない人々が集まりはじめた。
 世論調査(これもいい加減なものではあるが)を何回やっても消費税の増税反対の
意見が多いのだが、国会では賛成意見の方が絶対的に多数を示す。上記の政治家たち
は言うだろう、君たちは愚者なのだ、俺たちは賢者だ、賢者に任せればいいのだ! 
何回も言うようだが大新聞の社説執筆者もほとんどがそういう傾向だ。新聞のデスク
や放送局のディレクターが上ばっかり見ていれば「ニュース価値を見誤った」とか、
「(街頭に出る)意味を理解できなかった」とか、とぼけたことばかりを言うことに
なる。

 漱石に「素人と黒人<くろうと>」というエッセイ風の評論がある。彼自身の言う
ように、これは一種の芸術観ないし文芸観にすぎない。だがこの短い評論は単なる芸
術論の域を脱している。彼は言う。
「素人は固<もと>より部分的の研究なり観察に欠けている。其代わり大きな輪廓に
対しての第一印象は、此輪廓のなかで金魚のやうにあぶあぶ浮いている黒人<くろう
と>よりは鮮やかに把握出来る。・・・ある芸術全体を一眼(ひとめ)に握る力に於
て、糜爛<びらん>した黒人<くろうと>の眸<ひとみ>よりも慥<たしか>に溌溂
としてゐる。富士山の全体は富士を離れた時のみ判然(はっきり)と眺められるので
ある」。(<  >内は筆者)。
 ただこの後で漱石はこうもつけ加えている。・・・ここでいう黒人は只の黒人を指
し、素人というのは芸術的傾向を帯びた普通の人間を言っているのだ。偉い黒人にな
れば局部と同時に輪郭も頭に入れている筈で、詰まらない素人は局部も論客もめちゃ
くちゃだから、そんな人々を論じているわけではない・・・。「俗にいう通人という
のは黒人の馬鹿なのよりずっと馬鹿なのだから、これも評論の限りではないことを断
って置く」と締めくくった。どんな人たちが漱石のいう「通人」なのか、私見はある
が省略。
 それにしても、漱石にはいつも恐れ入る。

 余談というか蛇足というか・・・
 私は読んでもいないし知りもしなかったが、ずっと以前の『朝日ジャーナル』(19
98・7・1)に小出昭一郎という人の小論が載ったそうだ。佐々木力『学問論』で知っ  
た。そこで小出氏の言葉が紹介されている。以下は孫引きである。
「敢えて東京大学の病を言えと問われるならば、薬害や放射能の危険性を含めた『公
害問題』に取り組んだ人達を、万年助手や講師として冷遇し、すぐれて学際的ともい
えるこれらの問題をまともに扱う人が学内に極端に少ないということを挙げておきた
い・・・東大アカデミズムのもつ問題点なのではなかろうか」。
 私は「小出」と聞いて一瞬「小出裕章」助教のことかと思ったが違った。ついでに
高木仁三郎氏、湯川秀樹氏のことなどを思いだしてしまった。                   


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