静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

瓦礫を運ぶ皇帝

2011-05-06 13:24:08 | 日記

                                                              
(1)ローマの元首
 よく知られた話だが、スエトニウスが伝えるローマ皇帝ウェスパシアヌスの話を一つ(
『皇帝伝』国原訳)。
 「都(ローマ)は古い火災(いわゆる<ネロの大火>)や破壊(ネロ死後の内乱による
?)によって、醜い姿に変わり果てていた。空き地はその所有者が何もしない場合、誰        でもそこを占有して家を建てることを許した。ウェスパシニアヌスは、カピトリウムの再         建にとりかかり、瓦礫をきれいに片づける作業に、自ら最初に手を下し、瓦礫を肩に担        いで運ぶ。カピトリウム神殿と同時に灰じんに帰していた青銅版三千枚(ローマの古来       の国家的記録)の復元を、自己負担で引き受け・・・」
 巨大な円柱をわずかな費用でカピトリウムへ運ぶと保証した工事技師にウェスパシア      ヌスは褒美を与えたが、彼は「私には貧しい労働者を養わせてくれ(賃金を与えたいと       いう意)」と頼んで技師の奉仕を辞退したという話もスエトニウスが伝える所であるが、こ     の話は以前ブログで書いたことがある。

 ネロの大火についての話。これもよく知られた話ではあるが書いておこう。この大火(
西暦64年)について書いているのはタキトゥス(『年代記』)とスエトニウス。スエト
ニウスはネロが火をつけたと断言している。タキトゥスは慎重に、偶然だったのかネロ        の策略だったのか不明、両説あるとしている。
 出火当時ネロはアンティウム(アンツィオ)の別荘にいたが、報を聞いてすぐローマに
戻った。そのネロがどんな手を打ったか、タキトゥスの説明を肝要にまとめてみた。
 まずすぐにマルスの公園やアグリッパ(ローマの高官)記念建築物、また自分の庭園(
ともに相当広い)を開放した。そして応急の小屋を被災者に作って、無一物となった群衆
を収容した。またローマの外港オスティアや近郊の自治市から食糧を運ばせ、市価より      ずっと安く売らせた。(注:第二代皇帝ティベリウスの時代、穀物価格が高騰し民衆がこれ
を非難した。ティベリウスは、交易商人に報償金を与えて小売り商人の買い値を一定にす
ると約束した。そのためティベリウスは以前と同じく「国父」をいう尊称を贈られたとタ
キトゥスは伝えている。非常の場合、皇帝が穀物価格を下げる例)。
 ネロは、都市再建のために、区画整理をして道路を広げ、建物の高さを制限し、共同住
宅には中庭を作らせ、建物の正面にはネロ自身の費用で柱廊を設けて防火対策とすると    約束した。また、一定期間内に邸宅や共同住宅を建てる者には所有者の社会的地位や財  産に比例した金額を貸し付けた。建物の一部を石を使って堅固にするよう命じた。水道水    が横取りされないように監視人を置いて広く公共の目的に使えるようにした。邸宅所有者    にはみな、消火用器具を備えることを義務化した・・・。あとは省略する。
 ローマ史家の弓削達氏はこう評価した。「ネロのこれらの民衆救護措置や、火事場の後
始末、将来に備えての様々な予防措置は、きわめて合理的であり整然としていて、過不     足のないものであったと言うことができる」(弓削達『ローマ』)。                   

 上のウェスパシアヌスに関するスエトニウスの文章と、このタキトゥスの文章の間には
いくらか符合しない点があるが、よくは分からないので気にしないことにしよう。

(2)人間の資格
 アリストテレスは奴隷についていろいろ述べているが、こうも言っているそうだ。奴隷
に欠けているのは、熟考して決断する能力と予見し選択する能力である。奴隷が人間で     ないのはその欠陥のためだと。
 アリストテレスは随分きついことを言う。すると日本人の大多数は人間ではないことに
なりそうだ。               

(3)不条理
 「ネロの放火」は多分濡れ衣だろう。ローマの復興に彼なりに努力したが、放火の風評
は収まらなかった。やがて悪評の限りを尽くした彼は、身の危険を感じて宮廷を逃れるが
、追手が迫る。覚悟した彼は「この世から、なんと素晴らしい芸能人が消えることか」と
泣き言を繰り返した。「今や足早に駆けてくる馬の蹄の音が、わが耳を打つ」と『イリア
ス』の一節を震えながら呟き、剣で喉を刺し従者が介錯する。その遺骨はマルスの公園     から望むことのできる「庭園の丘」に大理石の棺と大理石の祭壇に葬られたという。 
 タキトゥスが伝えるネロの最後である。とても有名な情景、私も一度書いてみたかった
。たくさんの人が書いている。もちろんみんなタキトゥスの受け売りだが。
 
 タキトゥスはウェスパシアヌスについてもよく知られた情景を残した。
 ウェスパシアヌスは命とりの病気に襲われたとき、「おお、どうやら私は神になるらし
い」と言った(事実彼は死後元老院によって神に祀られた)。次第に病状は悪化し、気絶
するほどの激しい下痢をおこした。「最高司令官は立ったまま死なねばならぬ」と一生懸
命立ち上がろうとしたがかなわず、側近の腕に抱きかかえれれたまま息絶えた。

 ジェロニモと仇名された男は、ヘリコプターから降下してきた兵士たちによって銃撃さ
れ、その死体は山に囲まれた大地からはるばる海に運ばれ、空母の甲板から海に流され    た(「下ろされた」と表現した記事もあった)という。
 
 三陸海岸の津波で数知れぬ人たちが海に流された。その多くが海を愛し、海とともに生
きてきた人たちであった。その人たちの救助に原子力空母から飛び立ったヘリコプターが
「ともだち作戦」の一環として数多くの人たちや遺体を救い上げて陸に運んだ。そして遺
体は大地に還った。だがまだ還れない多くの人たちがいる。
 なんという不条理。                                                           
 私はこの原稿を、チャイコフスキーのピアノ三重奏「ある偉大な芸術家の生涯」を聴き
ながら書いている。人間というもの、人間の社会・・・のなんという不条理さ。

 その三陸海岸の一角に建つ原子力発電所、その暴発によって、自分の住む町・村にも     足を入れられない人々。
 新聞がわが国の原子力発電の発端について書いていた。読んでいない人も多いと思う    のでそのさわりを。タイトルは「米国の『冷戦』戦略受け、導入」「『国策民営』・日本の
原子力、戦後史のツケ」「政治主導で推進、議論尽くさず」とあった(毎日・4月20日
)。米国から日本への原子力導入の働きかけには米国の政策転換があり、アイゼンハワ     ー大統領の国連総会演説「原子力の平和利用」がその転換点だったという。日本側の受     け皿が正力松太郎氏や中曽根康弘氏らであったと。
 そして福島第一発電所の設備や技術がアメリカ直輸入であったことは今では周知の事    実。なるほど、これが「ともだち」というものなのか。
 正力氏も中曽根氏もジャーナリズムがもてはやしてきた有名人、日本の国策を左右でき
た実力者。
 中曽根氏はこの期に及んでもこういう。記録しておこう。
「不幸なことだが、原発推進(姿勢)が揺らいではならない。エネルギー事情や科学技術
の進歩を考えると、この苦難を突破し、先見として活用すれば、日本の原発政策葉より強
固なものとして発展すると思う。そうして行かなければならない。今回は地震より津波の
被害が主だ。津波の対策が出来ていなかった」。
 ジャーナリズムは中曽根氏を「大勲位」と呼び、国の元老扱いしている。毎日新聞は4
月18日(東京朝刊)でほぼ一面を使って、氏へのインタービュー記事を載せた。ありが
たい宣託である。上記はその一節である。
 同紙は本日(5月6日)夕刊にも元東大学長の有馬朗人氏のインタービューを載せた。
この人も原発推進派の主張を展開している。これはこれで日本最高知能の宣託である。
                                                                             
 熟考して決断する能力と予見し選択する能力に欠ける者は人間ではなく奴隷であると   アリストテレスは言う。原子力政策を推進すると決断できる者は「奴隷」ではなく「人間」
なのであろう。                                                                 
 

 

 

 

 


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